捨てられるもの、捨てられないもの。(R15)
彼はきっと、別の女の子のところへ行くのだろう。それをわかっていて私は止めない。私はまだ、彼に必要とされているから。大学生の歪んだ愛情物語。R15
私の家の中で、絶対的な権力を振るっていたのは父だった。
そして私の母は、父に一度も逆らうことなく、黙って従っているだけだった。
私は幼いながらに、そんな母を不憫に思っていた。
父は暴言を吐くわけでも、暴力を振るうわけでもなかったが、常に母以外の女の影をちらつかせていて、それを娘の私でさえ感じ取っていたから。
「お母さんはお父さんを捨てないの?」
小学生の頃、母にそう聞いたことがある。ちょうどその頃、テレビで芸能人の離婚騒動が話題になっていて、「私は夫を捨てました」と清々しく語っていた女性の言葉が、頭に焼き付いていたからだ。
すると母は「どうして?」と私に微笑んだ。
「どうしてお母さんがお父さんを捨てるの? お母さんはお父さんのことを愛しているし、お父さんから必要とされているのよ」
それは違うと思った。母は父に服従することで、自分が父にとって必要な存在であると、無理やり信じ込んでいるだけなのだと。
けれどやっぱり私は母の子だ。成長し、見た目が母と似てきた頃、私の心にも母と同じ歪んだ愛情が、じんわりと芽生え始めていたのだ。
***
「おはよう。和花ちゃん」
両手に大きなゴミ袋を持ち、部屋から外へ出た途端、声をかけられた。横を見ると、同じ造りのドアから出てきた隣の部屋の住人が、鍵をかけながら私を見ている。
「あ、おはようございます。橘さん」
「すごいゴミだね。引っ越しでもするの?」
私は苦笑いしながら答える。
「いえ、部屋の整理してたらこんなになっちゃって……普段物を捨てられない性格なもので」
小さく微笑んだ橘さんは、私の手からゴミ袋をひとつ取り上げた。
「ひとつ持つから、ちゃんと鍵閉めな」
「すみません。ありがとうございます」
私は持っていた鍵で戸締りをすると、廊下を歩き出す見慣れた背中を追いかけた。
ワンルームの部屋がずらりと並んだ、三階建てのマンション。
ほとんどの住人は近くの大学に通う大学生だ。私も隣の部屋に住む橘さんも、その大学に通っていて、時々ばったりドアの前で会う。
「それにしても、ずいぶんため込んだなぁ」
ゴミ置き場にゴミを置いた橘さんが笑う。いつものように穏やかな表情で。
私よりふたつ年上の橘さんと、こんなふうに会話ができるようになったのは、いつからだろう。
一人暮らしを始めたばかりの頃、隣の住人が男性だと知り、私は正直嫌な気持ちになった。父のこともあってか、男の人は苦手だったし、怖い印象もあったから。
だけど偶然顔を合わせたお隣さんに、穏やかな表情で会釈された時、初対面だったのになぜか安心できた。そのうち自然と挨拶を交わすようになり、会えば一緒に学校へ通う仲になったが、卒業間近な橘さんとこうやって会うのは久しぶりだった。
「はい。でも少しすっきりしました」
「俺もそろそろ片づけなきゃな」
そんな橘さんは、もうすぐここからいなくなる。このマンションの私の隣の部屋から、遠い街の実家へ戻って、そこで就職することが決まっていた。
他愛もないおしゃべりをしながら歩いていると、すぐに学校に着いてしまった。すると門のそばに立っていた女の人が、こちらに向かって駆け寄ってきた。
「おはよう、健」
橘さんを健と呼ぶその人は、橘さんと同じ四年生で橘さんの彼女の美玲さんだ。
「おはよ、和花ちゃん」
「おはようございます」
美玲さんは私にも声をかけてくれ、にっこりと微笑んで言う。
「ここから見てたら、あなたたち本物の兄妹みたいだったよ。お似合いね」
なんて答えたらいいのかわからない私の前で、美玲さんは橘さんに向かって手を伸ばす。
「さ、行こう、健。じゃあまたね、和花ちゃん」
美玲さんは橘さんの腕を組むと、それを引っ張るようにして歩き出す。
「それじゃあ、また」
振り返った橘さんと目が合った。私は小さく微笑んで手を振る。
周りの学生たちが、そんなふたりの姿を見ていた。
美玲さんは、この大学ではちょっとした有名人だったから。
美人で、成績も優秀。去年の学園祭で「ミス○○」に選ばれて、超有名な大手企業に就職も決まっているという。そんな彼女の隣で、いつも穏やかに微笑んでいる橘さん。ふたりは誰もが羨むカップルだった。
しばらくその場でぼんやり立ちつくしていると、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を確認したら、そこには一週間ぶりの、勇人からのメッセージが入っていた。
「おっせーよ。和花」
急いで教室の中へ駆け込む。すると一番後ろの席に座っていた勇人が、不機嫌そうに私を見上げた。
「ごめんなさい」
そう言って私は勇人の隣に腰かける。
「しょうがねぇなぁ。ほんとトロいんだから、お前は」
勇人の手が伸びて、私の頭をくしゃっとかきまぜる。久しぶりに感じる勇人のぬくもり。
「なぁ、和花。今日お前んち行ってもいい?」
私の頭に手を乗せたまま、勇人が顔をのぞきこむ。黙り込んだ私の耳元で、勇人の声がもう一度聞こえた。
「いいだろ? 和花」
「うん……」
満足そうに笑った勇人が、私から離れて立ち上がる。
「じゃ、あとで」
「え、ちょっと、待って」
講義も受けずに出て行こうとする勇人を呼び止める。
「あのっ……一週間も連絡とれないで……どこか行ってたの?」
「あ? 旅行だよ、旅行。お前に言ってなかったっけ?」
誰と? どこに? 聞きたいことはたくさんあるのに、私はそれを聞くことができない。
「じゃ、あとで行くからな」
それだけ言うと勇人は背中を向けて、私の前からいなくなった。
同級生の勇人とは、友達の紹介で知り合った。私のことを見かけた勇人が、私を気に入ってくれたらしい。
「俺と付き合ってよ、和花ちゃん。いいだろ?」
知り合って、勇人から強引にそう言われるまで、さほど時間はかからなかった。
内気で、自分に自信が持てずにいた私は、勇人の声にただうなずいていた。嬉しかったのだ。こんな私でも、必要としてくれる人がいるということに。
だけど、男の人と付き合ったことのなかった私と、女の子に慣れている勇人との間には、最初から微妙な溝を感じていた。
だからこそ私は、勇人に嫌われないよう、勇人の言うことを素直に聞いて、何でも従うようにした。
最初のうち、そんな私に満足していた勇人だったけれど、次第に物足りないと感じ始めたのかもしれない。
最近になり、勇人は私以外の女の子と遊ぶようになって、必要な時だけ私を誘う。
私の部屋で、私の身体を抱きたい時だけ、私を誘うのだ。
「敦也のヤツ、彼女にスマホ盗み見されて。それで浮気がバレて、あいつら別れたんだって。敦也もバカだけど、その女もサイテーだよな。人のスマホ、勝手に見るとかねーし」
ベッドの上でスマホをいじりながら、勇人が言う。私は黙ってその話を聞いている。
「和花はそんなことしねーよな?」
勇人が私の顔をちらりと見る。
「……うん」
満足げに笑うと、勇人はベッドから降りて服を羽織った。
「帰るの?」
「飲みに誘われたから行ってくる」
「今から?」
私は壁にかかった時計の針を見上げる。「誰と?」その言葉が喉元まで込み上げてくる。
「じゃ、またな」
「あ……勇人……」
ドアを開けようとした勇人が、振り返って私を見た。面倒くさそうな顔つきで。
「何?」
私は毛布を身体に巻きつけて、首を横に振る。
「何でもない」
ふっと鼻で笑った勇人が、私のもとへ戻って来た。そして唇に軽くキスをして、また背中を向ける。
私はひとり残されたベッドの上から、閉まるドアの音を聞いた。
勇人はきっと、別の女の子のところへ行くのだろう。
それをわかっていて私は止めない。
私はまだ、勇人に必要とされているから。
「おはよう、和花ちゃん」
ドアを開けてはっとした。隣の部屋の橘さんが私の前に立っている。
「……おはようございます」
「どうしたの? なんかぼうっとしてる」
「いえ、べつに」
私は部屋の鍵をかける。カシャンと冷たい金属音が冷え切った廊下に響く。
もしかして橘さん、私のことを待っていてくれたのだろうか。
そんなことを考えながら、橘さんと一緒にマンションを出た。どんよりと曇った空が私たちの上に広がっている。
「今日も寒いね」
「そうですね」
もうすぐ学校は休みに入る。そう言えば、橘さんの引っ越しはいつなんだろう。
私はちらりと、隣を歩く橘さんを見上げる。
勇人とは違う背丈。勇人とは違う歩幅。勇人とは違う声。勇人とは違う匂い。
「どうかした?」
目が合って、私はあわてて目をそらす。
「い、いえっ。なんでもないです」
あっという間に学校の門が見えてきた。門の前に立っていた美玲さんが、私たちに向かって手を振った。
講義が終わる頃、気温がぐんと下がっていた。空からは冷たい雨が落ちてきそうだった。
私はそんな空を見上げて白い息を吐く。そして今日、何度も何度も確認したスマホの画面を見つめる。
やっぱり勇人からのメッセージはない。私は思い切って、勇人にメッセージを送る。
『今日、会えない?』
既読の文字が現れたあと、すぐに短い返事が返ってきた。
『無理』
なんとなくわかっていた。わかっていたけど、その文字を見ると切なくなる。
スーパーで買い物をして家へ向かった。
両手に袋をぶら下げて階段をのぼったら、隣の部屋のドアを開けようとしている橘さんと目が合った。
「あれ、今帰り?」
「はい。橘さんも?」
橘さんはうなずいてから、小さく笑う。
「すごい荷物だね」
「あ、寒いから、お鍋でも作ろうかと……」
「へぇー、鍋か。いいね。でも一人分作るのも面倒だしなぁ」
そんな彼の笑顔を見ながら、私はぎゅっと両手の袋を握りしめた。
「じゃあまた」
ドアの向こうに消えそうになる橘さんに、声をかける。
「あの、よかったら……一緒に食べません? 鍋」
言ったあと、すぐに後悔した。橘さんも少し驚いたような顔をしている。何を言ってるんだろう、私は。橘さんを困らせてしまった。
「ごめんなさい。美玲さんに怒られちゃいますね」
「そんなことはないけど。でもさ……和花ちゃんの彼氏はどうなの?」
ゆっくりと私は視線を上げる。橘さんが私を見ている。
「ほら、いつも部屋に来てる茶髪の彼」
知ってたんだ。勇人のこと。勇人と部屋に入る時、橘さんにばったり会ったことはなかったけれど。
「彼は……大丈夫です。そういうの気にしない人だし……べつに鍋食べるだけですから」
なにも、悪いことをするわけじゃない。それにきっと勇人のほうが、もっと悪いことしてる。
しばらく黙り込んだあと、橘さんは「そうだね」と言って小さく笑った。
橘さんを部屋に呼んで、一緒に鍋を作った。橘さんは私よりも、全然料理が上手で驚いた。
「四年間も自炊してるし、高校の時は料理屋でバイトしてたんだよ」
「そうだったんですか」
彼は手際よく野菜を切って、それを鍋に入れて私に笑いかけた。
「いただきます」
橘さんと向かい合って座って鍋を囲む。部屋の中はあたたかく、窓は白く曇っていた。
「なんだか作ってもらっちゃって、すみません」
「いや、俺のほうこそ。人の家でずうずうしかったよね」
「そんなことないです」
顔を見合わせてふふっと笑う。
どうしてだろう。橘さんといると、なんだかすごく心が落ち着く。
ふたりでふーふーと息をかけながら、あたたかい鍋を食べた。
橘さんには田舎の実家に、私と同じ年の妹がいるそうだ。
「和花ちゃんを見てると、なんとなく妹のことを思い出すんだ」
「よかったですね。もうすぐ会えるじゃないですか」
「別に。俺が帰っても、きっとウザがられるだけだよ。和花ちゃんみたいに素直な子だったら、喜んでくれるかもしれないけど」
橘さんにとって私は、会えない妹さんの代わりなんだ。
「そろそろ帰らなきゃ」
壁の時計を見上げて橘さんが言った。
「片づけるよ」
「あ、大丈夫です。このままで」
そう言って私は立ち上がる。
「今日は付き合ってもらって、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ。楽しかった」
楽しかった――その言葉が胸に沁みこむ。
「あの……」
立ち上がった橘さんに向かって私はつぶやく。
「実は今日、誕生日だったんです」
「え?」
「それでひとり鍋は、さすがにちょっと寂しくて……」
冗談っぽく言ったつもりだったのに、橘さんは顔をしかめた。
「彼、一緒にいてくれないの?」
「記念日とかそういうの、全然気にしない人なので」
そうだ。勇人はそういう人だ。それをわかっていて、私は付き合っている。
ドアを出て行く橘さんを見送った。出て行く時、彼は一言私に「誕生日おめでとう」と言ってくれた。
『今日は会える?』
スマホの中で勇人を待つ。一日中待つ。そして一日の講義が終わる頃、やっとメッセージが送られてきた。
『無理』
昨日と同じ返事。私はため息をついて席を立つ。
大学の建物から外へ出ると強い風が吹いた。私はマフラーを鼻のあたりまで押し上げる。
白く煙った景色の中に、勇人と知らない女の子の背中が見えた。
私は咄嗟にそのあとを追いかけた。ふたりは大学の敷地内を出て、繁華街を抜け、ホテルの建ち並ぶ路地を歩いて行き、ホテルの入り口前で止まった。
私は深く息を吸い込む。心臓が痛いほど高鳴っている。そして寄り添い合うようにして、中へ入ろうとするふたりに声をかけた。
「勇人!」
振り返った勇人が私を見て、驚いた顔をする。
「お前……何してるんだよ」
一瞬、さすがに勇人もあわてたようだったけれど、すぐに開き直った口調で言った。
「は? まさかお前、おれたちのあとついてきたわけ? マジかよ」
そう言って勇人は、私に冷たい視線を向ける。
「こんなことしないと思ってたのに。お前だけは」
胸がずきんと痛んで、声が出なくなる。
「行くぞ」
勇人が声をかけたのは私ではなく、その女の子だった。私を無視した勇人は、今来た道を早足で引き返す。女の子はちらりと私を見てから、勇人のことを追いかける。
ホテルの前にぽつんと残された私の上から、冷たい雨が落ちてきた。
びしょ濡れになってマンションに帰ると、私は部屋の真ん中で立ち尽くした。しばらくそうやって呆然としたあと、近くの物をつかんで、ゴミ袋の中に押し込んだ。
本も食器も服も化粧品も、手当たり次第に何もかも。
涙なんか出なかった。ただ歯を食いしばって、目の前の物をつかんではゴミ袋に放り投げた。
ガラスのグラスに手が触れて、床に落ちた。ガシャンと砕けた破片を見たら、どうしようもない気持ちがあふれた。
目の前のグラスをひったくり、次々と床に投げつける。音を立ててそれは砕け、私の足元にバラバラと散らばる。しゃがんで手を伸ばしたら、チクリと指先が痛んで、じんわりと赤い血が浮き上がった。
「和花ちゃん? 橘だけど。大きな音がしたけど大丈夫?」
聞き慣れた声と、ドアを叩く音が聞こえる。私はゆらりと身体を起こし、ドアの鍵に手をかける。一瞬躊躇したあと、カシャンと冷たい音を立てて、鍵は開いた。
「和花ちゃん」
橘さんはびしょ濡れでボロボロの私を見て、驚いた顔をしていた。
「何かあったの? そんなに濡れて……それに血が出てるじゃないか」
「……大丈夫です」
部屋をのぞきこんだ橘さんが「ちょっと失礼」とつぶやいて、中へ入り込む。
そこは泥棒にでも入られたかのようにぐちゃぐちゃに荒れ果て、床にはガラスの破片が散らばっていた。
「大丈夫じゃないだろ?」
「大丈夫です。物を捨ててただけです」
橘さんが私を見る。
「もう捨てるんです。何もかも」
「和花ちゃん……」
今まで出なかった涙がつうっと頬を伝わった。そう言えば勇人と付き合い始めて一度も、私は涙を流したことがなかった。
「無理するなよ……」
橘さんが私の手を取り、血の滲んだ指先を見つめる。
「見てられないんだよ……もう……」
私は両手を伸ばすと、そう言った橘さんの身体に抱きついた。
こんなことは、きっと間違っている。
橘さんは隣の部屋の住人で、美人で素敵な彼女がいて、私に親切にしてくれるのは、私を妹みたいに思っているからで。
それをわかっているのに――わかっているのに私は、彼の体温を求め、その唇に自分の唇を押し当てた。
「和花ちゃん……」
唇を離した橘さんが、私を見ている。すごくつらそうな顔をして。
私はそんな目を見ないように、彼の身体に顔をうずめる。
「……ごめんなさい」
つぶやいた私の身体を、橘さんの手が引き離した。潤んだ目でその顔を見上げると、彼の両手が私の頬を包み、深いキスをされた。
「橘さ……」
流されるように床の上に倒れ込んだ。息ができないほどのキスを交わし、私は彼の身体にしがみつく。
どちらともなく、夢中で身体を求め合った。勇人のことも、美玲さんのことも、理性も、罪悪感も……何もかもが私の頭から吹き飛んでゆく。
耳元で一度だけ、橘さんの声が聞こえた。
「ごめん……」
私の口からは、嗚咽のような声だけが漏れた。
「あのふたり、別れたらしいよ」
春のような陽射しの下、大学内のベンチに座る私の耳に、学生たちの声が聞こえる。
顔を上げると、会社の研修にでも行ってきたのか、黒いスーツ姿の美玲さんが、ひとりで颯爽と歩いていた。
「彼女が彼氏よりもいい会社に入っちゃうのって、なんか微妙だよね」
「彼、田舎に帰っちゃうんでしょ? 美玲さんのほうから『遠距離無理』って言ったらしいじゃん」
美玲さんと橘さんが別れたという噂は、聞きたくなくても耳に入ってきた。でもその理由を、はっきりとは誰も知らない。この私でさえも。
昨日、あの雨の夜以来、初めて橘さんに会った。
引っ越し業者が最後の荷物を持ち去ったあと、橘さんは何もなくなった隣の部屋で、ぼんやりと立ち尽くしていた。
「橘さん……」
開けっ放しだったドアの外から、声をかけたのは私だ。振り返った橘さんは、私の姿を見て、困ったような表情で少しだけ笑った。
「なんにもなくなっちゃったな……」
橘さんの声が、部屋の壁と天井に響く。私は一歩踏み出し、部屋の中へ足を踏み入れる。
隣の部屋に入ったのは、この日が初めてだった。
「もうずっと前から苦しかったんだ。彼女の存在が重すぎて……だけど別れることもできずに、ずるずると付き合って……結局彼女のことも和花ちゃんのことも傷つけた」
私は黙って橘さんの声を聞く。
「最低な男だな……俺は」
「だったら私も、最低な女です」
ほんの少し口元をゆるませた橘さんが、床に置いていたリュックを肩に掛け、私に言った。
「元気で」
部屋に薄い日差しが射し込んできた。春から遠く離れた街で社会人になる彼とは、もう会うこともないだろう。
「橘さんも……元気で」
私のすぐ横を、橘さんが通り過ぎる。かすかに感じた匂いに、あの雨の夜を思い出す。
私を抱いたあと、すべてを捨ててしまった彼。そんな彼に、私がついて行くことはなかった。
ふいに誰かがベンチに座った。見ると勇人が私の隣で前を向いている。
私も何も言わず前を見つめた。あたたかい日差しの中、明るい表情の学生たちが行き交っている。
「悪かったな。この前は」
ぶっきらぼうな口調で勇人が言った。そして頭をカリカリとかいたあと、その手で私の肩を抱く。
「なんか調子狂うんだよな。お前がいないと」
私は必要とされている。この人に。
そんな勇人に向かって、私は言う。
「今日、私の部屋に来る?」
少し驚いた表情を見せたあと、勇人が嬉しそうに答えた。
「あとで行く」
私はほんの少し微笑んで、また前を見つめる。
勇人には私が必要だ。そして私にも勇人が必要。
橘さんを捨てることはできても、私は勇人を捨てることができない。
去年、家の階段から父が転落した。命に別状はなかったが、打ち所が悪かったのか、不幸にもベッドに寝たきり生活になってしまった。母はそんな父に付きっ切りで世話をしている。
あの絶対的支配者だった父が、今は母に捨てられたら生きてゆけないのだ。
母を必要とする父。そんな父を支配している母。
もしかして父を階段から突き落したのは――なんて、ありえないことを想像する。
私は隣にいる勇人の指に、傷痕のついた指先を絡ませた。
「勇人……愛してる」
あなたのことは、一生離さない。




