第15話
「サンディ。いや、ディア?」
「はいっ」
軽く咳払いをしたブレントに名前を呼ばれ、サンディアナは思わず背筋を伸ばした。
「俺は今日一日、少なくとも帰宅するまでは君の恋人だ。そうでしたね?」
「うっ。そ、そうね」
ブレントにじろっと恨めしそうな目で睨まれ、サンディアナは急いでこくこくと頷いた。
彼から意識してるのかなどと言われ、完全に揶揄われているものだと思い込んでしまったが、なんのことはない。ブレントはずっと設定どおり、【学生時代からサンディアナ先輩に恋焦がれ、ようやく交際にこぎつけた、独占欲と結婚願望の強い男】という、完璧な恋人役を演じ続けているだけだったのだ。
(うわぁ。恥ずかしい)
火照ったままの頬に手を当てて、(ブレントが真実を混ぜながら話すのが悪い)と、心の隅で文句を言っておく。完全に八つ当たりだから、本人には言えないけれど。
さっき押し倒されたことにはショックを受けたが、サンディアナ以上に驚いた顔をしているブレントを見たせいで、逆に冷静になった。あれは手を引かれた瞬間転びそうになったサンディアナがケガをしないよう、ブレントがとっさに気づかった結果の事故なのだ。
(あの距離と見慣れない角度でのブレントの顔は、破壊力がすごすぎるのよ!)
学生のころに、女子で回し読みをしていたロマンス小説を思い出す。
友達同士できゃっきゃと盛り上がっていた床ドンは、リアルだと心臓に悪いことがよく分かった。
ブレントはブレントで、サンディアナがドギマギしてしまったのが申し訳ないほど、ショックを受けた顔をしていた。
ぎゅっと目を閉じて、喉の奥でうなり声のようなものを上げるブレントが気の毒になってしまったくらいだ。まさかサンディアナ相手に、こんなとんでもない体勢になることなど夢にも思わなかったに違いない。
こんな場面を誰かに見られたら、むしろブレントのほうがショックで立ち直れなそうな気がする。
そんなことを考えているサンディアナの心臓だって大変なことになっていたけれど、経験値はともかく、自分のほうが年上なのだからと必死に気持ちを切り替えた。頬に集まる熱を逃がしきることができなかったのが残念だけど。
(ブレントと違って、私はこういう経験をしたことが一度もないんだもの。仕方ないじゃない)
彼が呟いた「寝ぼけた」の一言で胸に鋭い痛みが走るが、それでもすべてが腑に落ちた。彼が誤解だと慌てたのは、これが恋人役の延長。つまり、ただのお芝居だったからだ。
(そうよね。寝ぼけてたのよね)
もちろん、ブレント以外の人がそんなことを言ったって信じるわけがない。言い訳、もしくは、こちらが気を使わないよう気遣ってくれたと考えるはず。
しかしブレントに近しい人は、寝不足が続いたときの彼を知っている。サンディアナも実際、学生時代に寝不足が続いた後のブレントを見たことがあったのだ。
あれは秋の学生交流会直前だった。
ヴィオラと共に学生会室に入ったサンディアナは、部屋の隅で机に突っ伏すようにして眠っているブレントを見て驚いた。しかし、先に一人で作業をしていたアベルが唇に人差し指を当て、静かにするようにと微笑んだ。
「疲れてるようだから、少し寝かせておこう」――と。
思い返せば当時、ブレントがアベルの代役をすることが多いことにサンディアナは気づいていた。試験や行事なども立て続けにあり、サンディアナとしては、ブレントの顔を見る機会がいつもより多いことをひそかに喜んでいたが、ブレント自身は一人二役の生活で相当疲れていたのだろう。
スースーと規則正しい寝息をたてるブレントは、少し幼くて可愛い。そんなことをヴィオラと笑って話しながら二人で頷いた。
しばらく無言で書類整理をしていると、ハッとしたように目を覚ましたブレントが「すみません、手伝います」と作業に混ざった。
書類を分け、整理し、彼の担当の報告もする、しっかりした普段のブレントだった。
しかし、整理された書類をヴィオラが先生のところへ持って行くために退室すると、突然ブレントが不思議そうな顔でアベルとサンディアナを見比べた。
「あれ? 二人で何をしていたんですか? ヴィオラは?」
「えっ?」
驚くサンディアナにアベルが軽く頷くと、なんでもない口調で「ヴィオラなら、三十秒前までここで一緒に仕事をしてたね」と言って笑う。
それに戸惑ったような顔をしていたブレントは、たっぷり十秒ほど逡巡した後、首筋まで真っ赤になって突っ伏してしまったのだ。
「うわっ。寝ぼけた」
ブレントは寝不足が続くと、まれにこういうことがあるらしい。
あまりにも普通に見えるものだから普段はごまかしがきくらしいが、今回はアベルが側にいたせいか、たまたま気が抜けたらしい。
「絶対ここだけの秘密にしてください!」
ブレントの必至な形相に、サンディアナたちは彼の寝起きの悪さ(?)を秘密にすることを約束したのだった。
(可愛かったんだよね……)
ブレントの幼い顔や恥ずかしがる姿があまりに普段と違うものだから、そのギャップにやられてしまった自覚はある。
それまでは、彼の顔が見られれば楽しい気持ちになっていただけなのに、あの日から無意識に目で追いかけることが増え、なんでもない会話を反芻してしまったり、息ができないくらい胸が苦しくなることが増えてしまった。
何も気づいてなければ、さっさと告白してしまったかもしれない。
いや。気づかなかったとしても、その後すぐ、ブレントが学園外にできた恋人とデートしてるのを何度か目撃していたサンディアナに、気持ちを伝えることなどできなかったのだが。
何年たっても膨れてしまった想いを消すことができず、せめて表に出さないよう必死に隠し、仲のいい先輩であり友人である自分を演じてきたのに。うまくいっていたはずなのに……。
(ああああ、私のバカ!)
ブレントもしっかりサンディアナの言動は思い出したことだろう。
うっかり求婚までしたことに、内心慌てているであろう彼の顔を見たくなくて、サンディアナはポーカーフェイスを保ちつつ、しまっていた窓を大きく開けた。
そろそろ出発してもいい頃なのだが、ホームを見ると、伝言板係の青年が数人、小さな黒板を抱えて歩いているのが目に入る。
「また事故があったみたいですね。停車時間が一時間延長か」
後ろから覆いかぶさるようにして窓の外を見たブレントの声にギョッとし、再び頬が熱くなる。
「ブレント、距離が近い」
「そうですか? 恋人なら普通では?」
口調は普段通りなのに、意地でも恋人役は続行するつもりらしい。
(もしかしてこれは、うっかり告白しちゃった私のため?)
「ディア。せっかくですし、ホームにコーヒーでも買いに行きましょうか」
そう言って差し出された彼の手を見つめ、次いでブレントの顔を見つめる。
少し不機嫌そうにかすかに口をとがらせているけれど、声は優しい。いつものブレントだ。
「あのね、ブレント」
「はい」
「さっきの求婚だけど」
「すみません、あれは聞かなかったことにしてください」
サンディアナの発言にかぶせるよう、早口で言ったブレントの首筋が赤い。
「わかった」とサンディアナが頷くとホッとした顔をするので、やっぱりという気持ちと、寂しいような我儘な気持ちに蓋をした。勘違いした痛い女だと思われたくない。
「でもまだ偽装恋人を続けるの? あとは帰るだけよ?」
「ヴィオラと約束したでしょう。俺も完璧にやると約束したんで、半端は許せないんですよね」
「そ、そうなんだ」
「そうです。いいですか? 俺は今日一日、サンディアナの恋人です」
誠実な声とまっすぐな視線に、サンディアナは束の間ためらってから小さく頷いた。ブレントは今日だけ恋人として過ごしてくれるつもりなのだと気づいたのだ。
ブレントの歴代彼女の中には、十日ほどで別れた子もいる。
そこに一日だけの彼女が増えても、何の問題もないということだろう。
(こうやって区切りをつければ、明日からまた元通りになれるってことだよね?)
さすが経験値が違うと内心苦笑しつつ、サンディアナは余計な感情を全部しまい込んで微笑んだ。




