第八章 王子と執事と罠 その三
真夏のように蒸し暑く、ハーシェリクは目を覚ました。
だが視界は目が開いているのに一向に晴れない。むしろ煙が立ち込めるように曇ったままだ。否、例えでなく部屋は煙で充満していた。
「まさか火事!?」
一瞬、恐慌状態に陥りそうになったハーシェリクだが、パニックになるとそれを通り越し冷静になる。
これは前世の訓練の賜物だ。自分の住む地域は防災訓練に盛んな地区で、小学生の時の避難訓練では不真面目な生徒には、校長先生のガチの説教が飛んできたのも今ではいい思い出である。
いつも穏やかな校長先生が、
「今回が本当の火災だったら半分の生徒は死んでいた。訓練でできないのに本番できるわけがないだろう!」
と校庭に並んだ生徒達を叱り飛ばし、最初から訓練をやり直しをさせた。
避難時間が目標に届かなければやり直し。無駄なおしゃべりを発見すれば全員でやり直し。数をこなしていき無駄なおしゃべりもなくなり、軍隊並みに整列する生徒に校長先生は満足げな笑みを浮かべて言った。
「さすがは我が校の生徒達だ。きっと本番でも君達なら誰ひとり欠けることはないだろう。」
おかげで私が通っていた小学校は、避難訓練だけは今でも真面目にやっている。
低学年が無駄口を叩こうものなら高学年が注意し、低学年はきちんと整列する高学年を見習う。皆が協力して避難訓練を姿は、母校で歴々と受け継がれていった。
その時に培った経験で冷静さを取り戻したハーシェリクは、すぐに地面に這いつくばる。
火災時、煙は部屋の上部に留まり下に新鮮な空気があるのだ。煙を吸い込んで意識を失うことだけは避けたい。
ハーシェリクは地べたを這いずり扉へと向かう。
やっとたどりついた先の扉は、なにかに固定されているのかびくと動かなかった。
(まさか、嵌められた?)
誰が、という疑問は思い浮かばなかった。
ここで誰が自分を狙うか、簡単に予想が出来た。あのグリム伯爵の可能性が一番高いからだ。
ハーシェリクは這いつくばりながら懐中時計をみる。時間はまだ深夜を回っていない。
(証拠集めが気づかれた? ……いや、それにしては対応が早すぎる。)
それに王城に易々侵入を果たすクロがミスをしたとは考えにくい。
(絶体絶命、万事休すってカンジ?)
すでに火の手は部屋の中に侵入している。窓から逃げようにも、三階からは一人では不可能。
「この部屋からでるなよ。」
思い出したのは彼の言葉。
彼はそう言った。だからハーシェリクは腹を決める。
まだ燃えていない毛布を取りに戻り、懐中時計の魔力を使って水を創る。
なにかあった時の為に、懐中時計でできる魔法をある程度覚えておいてよかった、と自分を褒める。
水を創る魔法は飲むには今一つだし、浮遊魔力で行う魔法は火事を沈下できるほどの水を創ることはできない。だが、毛布を濡らすくらいはできた。
ハーシェリクは濡らした毛布を被り、まだ部屋で燃えていない、燃えるものが少ない場所に匍匐前進で進む。
(クロ、待っているから。)
ハーシェリクはそう決めると、濡れた毛布を口に当てできる限り身を縮めて待つ。
しかし炎の魔の手は、彼のすぐ側にまで迫っていた。
クロが別邸の異変に気が付いたのは、証拠なる書類をいくつも発見してからだった。
彼が忍び込んだ書斎には、証拠書類が山のようにあった。
その中でもハーシェリクが指示したものを選りすぐり、ジャケットの内ポケットにしまう。警備も手薄、結界も張っていないこの屋敷への侵入は思った以上に簡単な仕事だった。そして戻ろうと窓を見た時、別邸のある丘が紅く明るく周囲を照らしていた。
その異変を認識した瞬間、クロはすぐに行動を起こす。
彼は窓を開け放つとためらいなく飛んだ。そしてすぐ近くの樹の枝につかまり、鉄棒の逆上がりのごとく回転し枝の上に立つと、いつの間にか持たれていたナイフを樹の幹に突き刺し飛び降りた。
ナイフを刺したおかげで落下速度は緩やかになり、音もなく地面に降り立つと同時に彼は丘の別邸に向かって駆け出す。木々の間を縫って進んでいるのというのに彼の素早さは衰えることがなかった。
一瞬、風切音が響いた。
クロはその微かな音を聞き逃さす、反射的に木の背後に隠れる。次の瞬間、木の幹には続けざま二本の矢が突き立てられた。
「これを避けるなんて、さすが『影の牙』様だ。」
「……誰だ?」
クロは隠れた木から、声の主を見つけるため周囲に視線を走らせる。
(なぜ俺を『影の牙』だと知っている?)
警戒するクロを嘲笑うかのように、木の陰から現れたのは線の細いひょろりとした陰気な男だった。
確か裏ギルドにいた時に何度か会った気もするが、それもすれ違った程度で会話したことはなかった。
「不思議そうな顔をするなよ。裏じゃすでに有名だぜ? 『影の牙』が消えたってな。ほとんどのヤツはついにくたばったと思ってるし、まあ、俺もそう思っていたが……」
そういうと男はふん、と鼻を鳴らす。
「情報屋から買わなくちゃ第七王子の筆頭執事が『影の牙』と同一人物だ気が付かないだろう。どうやってうまく取り入ったんだか。」
その言葉は妬みの色が入っていたのだろう。裏でしか生きられない人間が、表舞台へと立ったのだ。
(ちっ、情報屋に口止めすべきだったか。)
クロは内心舌打ちをしたが、すぐに考えを改める。
情報屋は金さえあれば情報を売る。誰にでも公平に売る。相手が貴族であろうが一般市民だろうが犯罪者だろうが関係ないのだ。
「俺を追って、か?」
「いや、さすがに俺もそこまで暇じゃない。別依頼でお前を探して連れて来いってと言われてな。全くわからなかったから、情報屋から買ったんだ。ま、報告はさすがに本当の事を言ったら俺も依頼人もまずそうだったから、連れてこれないっで手打ちにしたがな。」
真実を言わないのは契約上どうなのかと思ったが、それで相手が折れたということは、相手も随分とヤバイことをやらそうとしたのか。
今のクロには関係ないが、吐き気のする話だった。
(とりあえず、戻ったら『影の牙』の痕跡を消さないといけないな。)
そうしないとハーシェリクに後々災いがかかると火を見るよりも明らかだった。
「で、今の雇い主はここの住民を脅かすように俺らを雇ったというわけ……さて、ここまで俺がしゃべった意味はなぜかわかるな?」
男はにやりと笑う。意味はクロもわかっていた。周囲には人の気配が複数ある。
(人数は十五、か。)
月光に照らされ彼らの武器が光る。
「雇い主はあの王子に消えてもらいたいそうだ。すでに別邸は火の海、後はあんたをここで足止めするか、殺してしまえば俺達には特別賞与がでる。ついでに『影の牙』を殺ったとなれば箔が付くってもんだ。」
自分の勝利を確信しているであろう男に、クロは感情のない瞳を向ける。それは彼が仕事をする時の顔だった。
「……お前達こそ勘違いするな。」
かつて『影の牙』と恐れられていた彼が、わざと相手の口上を聞いて囲まれるまで大人しくしていたのか。
それはただ一つ、情報が欲しかっただけだ。
こんな馬鹿なことをしたアホを突き止める為の。
「死人に口なしとよく言うだろう。」
情報を得たからには、彼らはもう用済みだった。
無表情からクロは嗤う。
その表情はハーシェリクに見せたことがない、残忍な笑みだった。




