二十九、満願
永井さんの瞳が、遠くからでもゆっくりと潤んでいくのが分かった。彼は息を呑み、静かにパネルを見つめたまま、しばらくの間、一歩も動こうとしなかった。永井さんの表情には、驚きと喜び、そしてどこか安堵のような感情が混じっていた。
「……しかしなぜ、この作品が…………? あれはたしか、東京の下宿先に置いてきたはずだったのに、いったいだれが…………」
永井さんが動き出した途端、後ろにいた私は大きくバランスを崩し、ガタン、とポールの先の文机に真正面からぶつかった。
――そうしてまた、在りし日の記憶が頭に、流れ込んできた。
――それは、1946年11月のことだった。当時病に伏せっていた永井さんのもとへ、一度だけ、太宰治が気まぐれにお見舞いに来たことがあった。永井さんの病状はそのころすでに回復の兆しもないほど悪化していたため、かわりに奥さんが出迎える。
つらい現実を無理に受け止めるためだったのか……酒に酔った太宰治は、袂からおうように何かを取り出した。
「自分では、きっと持て余してしまうだろうから」
短く告げると、彼は千鳥足で、挨拶もそこそこに帰ってしまった。
小包みを開く。手渡されたものに、永井さんが、夢半ばで挫折した作家だったことを知っていた家族たちは、みんな揃って目を丸くした。
『永井修二 著 物書き失格』
それは、立派に製本された、この世にたった一冊だけの書籍だったのだ。
太宰治は、永井さんの家族に彼の夢を託した――その事実が、永井さんに少なからず生じていた彼に対するわだかまりを、まるごと取り払ってくれるような気がした。
「…………永井さんは、家族に恵まれたんですね」
凡人の彼が一つだけ太宰治に勝っているものがあるとすれば。それは……家族愛に違いないだろう。彼は家族を愛し、家族もまた、健気な彼を愛した。
「人も街も変わってゆく……しかし想いは、永久不滅だというのですか」
妻から我が子、我が子からその先の代へと、今まで大事に守り継がれてきた、永井さんの想いのしるし。
もう、我慢の限界だったのだろう。彼の目もとからは、堰を切ったように涙が流れ出てきて、ついぞ止まることはなかった。
「ええ、そうですよ」と、いつかの時のように、沖田さんは永井さんの肩にポンと手を置いた。
「現に、こんなにもたくさんの人が、あなたというひとりの作家を知ろうとしてくれているんだから。――きっともう、大丈夫ですね」
沖田さんが、ふわりとほほ笑む。
私は、静かに目を伏せて別れの合図を待った。ずっと知りたかったことを知れたのだから、彼がこの世に思い残すことはもうないはずだ。
永井さんは、いま一度私たちを真剣なまなざしで見つめ、まだ涙の滲む声で、感極まったように告げた。
「貴方がたには、たいへんお世話になりました。本当に、なんと感謝したらよいのか……このご恩はきっと、来世でも忘れることはないでしょう」
「いえいえ。それはこの時代に選ばれた、永井さん――あなたの実力ですよ。僕らはただ、未練解消のお手伝いを引き受けたまでですから。……ねえ、トラちゃん?」
うう、と思いながらも、私はなんとか、作品を見て感じたことを正直に絞り出す。
「月と太陽の比喩、あれ、なんか、こう……よくわからないけど、現代人には、まあ……それなりに、刺さる気がします」
「……って、ちょっとトラちゃん! そこはお世辞でも、おもしろかったです、って言うところですよ!」こんなふうに、若干焦った様子の沖田さんに耳打ちされたけど、私はとぼけて、耳が遠くなったフリをする。だって‘‘文豪‘‘の永井さんならきっと、私の発言の意味するところを、隅々まで考察してくれるだろうから。
しだいに、以前神崎さんや早紀さんを見送った時と同じような、淡い光が霧散していく。
「ありがとう、本当に、ありがとう……」
悔いはないといったふうに、満足そうに笑った永井さんが成仏しかけた、その時だった。
――その声は我が友、永井君ではないか
聞き覚えのある、男性の声だった。
まさか、と、みんなで一斉に顔を見合わせる。
「ふふ、久しぶり。ずいぶん遅かったじゃないか」
その、まさかだった。写真の中から出てきたのは。
「太宰君、もしやきみは、太宰君なのか……?」うれしさと懐かしさに打震える、旧友の存在を確認するような、永井さんの声音。
あっけにとられたままの、私と沖田さん。しばらく沈黙が続くも、ニヒルに笑った口もとが、すべてを物語っていた。
「太宰君……っ!」感動のあまり抱き着かんばかりの勢いで、永井さんは彼に駆け寄る。
「ああ、私の作品を家族に届けに来てくれたのは、きみだったんだね」
「なんだ、ばれていたのか。配達人は秘密だと、あれほど釘を刺しておいたのに」
「ううん、いいんだ。こうしてまた、きみと巡り合うことができたんだから…………ありがとう、太宰君。あの日、ひとりぼっちだった私に、小説という名の、人生の友を教えてくれて。創作の辛さも、楽しさも、達成感も。今となっては、私の大切な一部だ。胸を張って、そう言える」
だから、と、消え入りそうな声で永井さんが続けた。
「始まりも、終わりも――きみで良かった」
「…………男と心中するのは、趣味じゃないんだけれどね」
太宰治……いや、津島修二は、やれやれとため息を吐きつつ、まんざらでもなさそうに、目の前の、もうひとりの修二に手を差し伸べる。
すると、瞬く間に、ふたりを祝福するかのように、夢のように儚く、美しい桃色の吹雪が舞い踊り始めた。
私たちが気づいた時にはもう、学生の姿になっていたふたりは――校庭を埋め尽くす、桜の雨の中へと溶けていった。
***
永井さんを見送り文学館を後にした私たちは、外のベンチに並んで腰かけた。
「……太宰治の魂は、しゃんばらには行かずに、ずっとあの写真に残ってたっていうんですか」
私の問いかけに、沖田さんは首を傾げる。
「さあ」本気で分からないのか、それとも純粋に興味がないのか、沖田さんから返ってきた答えは、すがすがしいほど簡潔なものだった。
「夢か現か、あるいはただの残留思念だったのかもしれませんが…………まっ、終わり良ければすべて良しですよ。トラちゃん!」
まあ、沖田さんとこれ以上哲学みたいな話を続けても、時間の無駄というか意味がなさそうだったので、私は両ひざに顔をうずめて会話を強制終了させることにした。幽霊なんだから、別にベンチに土足で上がったって文句は言われないだろう。
「……相変わらずテキトーですよね、沖田さんって」
誰にも聞こえないよう、地面に声を落とす。
沖田さんは、遠征で蓄積された疲労感を取り除くかのように、んー、と大きく伸びをした。
「やっぱり、仙台の空気は美味しいなあ」
そんなこと言っちゃって。
――とっくの昔に、死んでるくせに。
それでも、斜陽の差し込んだ沖田さんの横顔は、やけに生き生きして見えた。
〜あとがき〜
太宰治は、かつて魯迅をテーマにした小説を書くために、仙台を訪れたことがあったそうです。また、本編で彼が永井さんを訪ねた1946年の11月については、上京途中に仙台に下車し、河北新報社の面々とともに飲屋街でお酒を飲んだ、というエピソードを偶然見つけたため、その時期に合わせてみました!




