二十六、古びた井戸の先には
景色という景色が、まるで絵の具で塗りつぶされたみたいに真っ暗だった。
どこだ、ここは……。
「もし、そこのお主…………」
かろうじて耳に入ってくるノイズのような声音に、私は思わず顔をしかめた。
「お主だ、お主の脳内に直接語りかけておる……」
ーーわたしに? ねむいし、なんなの……。
「彷徨える哀れな亡者よ……お主は…………」
いちいち仰々しくてもったいぶった物言いに、だんだん腹が立ってくる。さっきからなんなんだ、せっかく人が気持ちよく寝てたってのに……文句の一つでも言ってやろうとして、
「お主は……」
カッ、と目を見開くと。
「地獄行きだああああ!」
耳をつんざくような、ものすごい大声とともに。
「ぅぎゃーーーッ!!!」
視界全体を埋め尽くすように現れた、ド迫力の、世にも恐ろしい顔つきをした……そう、閻魔大王に、私は思いっきり腰を抜かしていた。
「ぶっ、あはははは! 像ですよトラちゃん、ただの像!」
「あああ沖田氏、どうかそのへんで……」
私は、今置かれた状況を理解しようと、死にもの狂いで頭を回転させる。とっさに掴んだ石碑の感触。そして、背後に鎮座する古びた井戸……少しずつ、少しずつだけど、意識がはっきりしてくるようだった。
前を向けば、お腹をよじらせて大笑いする沖田さんに、目に見えてオロオロしている永井さん……
私は一切の迷いをかなぐり捨て、沖田さんに右アッパーをお見舞いした。
***
聞けば、どういう仕組みなのかは分からないけど、どうやら私たちは、しゃんばらの薄暗い比良坂から、この古びた井戸を経由して、地上にぽーんと投げ出されたらしい。
拗ねた子どものように、さっきから殴られたところが痛いアピールをしながら、沖田さんが唇を尖らせる。
「まさかトラちゃんに、引っかき傷を作られる日が来るなんて……」
そんなふうに、よよ……と可哀想に泣く演技をしてみせても、私には全くもって通用しない。
「自業自得でしょ。沖田さんこそ、いい加減反省したらどうなんですか」
沖田さんが少し気絶している間、観光客らしき若い女性が持っていたパンフレットを、永井さんと盗み見たことで、今いる場所が京都であることは、とりあえず理解した。理解はしたけど……なんで、なんでよりにもよって西日本なんだ。私の認識が間違ってなければ、というか文明が崩壊してなければ、目的地の宮城って東日本だったはずなんですけど……。
あまつさえ、生きていた頃とほとんど変わらない、行き交う人々と景色の様子に、私は肩をすくめてみせた。
さっきの女性が大事そうに鞄に付けていたキーホルダーだって、現在進行形でブームを巻き起こしているうさぎ形のぬいぐるみに違いない。あの印象的な重たいまぶたと鋭い牙には、ひどく見覚えがあった。
「六道珍皇寺。かの有名な、小野 篁にゆかりのあるお寺、でしたか」
永井さんは突然、思案するように顎を撫でた。
「いやはや、ここが冥界の出入り口とは……事実は小説より奇なり、とはよく云ったものです」
「それってどういう……」
「小野篁には、様々な伝説が残されておりますゆえ」
私が聞くと、永井さんは嬉々として、自分の持つありったけの知識を披露し始めた。
「それから、小生のよく知るところでは……夜な夜な井戸を通っては、現世と地獄を行ったり来たりし、閻魔大王の補佐を務めていたという……」
永井大先生の講義に半分眠掛けしていたところで、「ご名答!」……ようやく沖田さんの横入り、という名の助け船が入った。
ぱちぱち拍手しながら、文字通り感心したように、沖田さんは言う。
「さっすが、永井さん! 文筆家の名は伊達じゃないや!」
永井さんは気恥ずかしそうに、それでいてどこか悲しそうに、唇を噛んでいた。
まあ、オノノタカムラ(?)伝説が絡んでいるにせよ、しゃんばらからのワープ先が一択に絞られているなら、さすがにコスパが悪すぎるような気がしてならない、というのが正直なところではあるけど。
私はちらりとふたりを見やる。
伝説うんぬんかんぬんより……
「京都から仙台って、新幹線乗り換えなくちゃならないですか!」
「ええっ、そうなんですか?」
「はてーー小生、浮世のことには疎く」
この、原始人1、2号め……!私は心の中で、盛大にツッコんでみせる。
京都から宮城に行くには、まず東海道新幹線に乗り、いったん東京に着いたら東北新幹線に乗り換えなければならない。そんなの、現代人なら誰もが知っている常識じゃないか。
ああでもきっとこれが、ジェネレーションギャップというやつなんだ。なんかもう色々わけが分からなくなってきて、私はひとりで、そう解釈するしかなかった。
***
隙あらば、はんなりした舞妓さんに声をかけようとしたり、露店に入って観光めいたことをしたりしようとする永井さんを全力で阻止しながら東大路通を歩くのは、もう気疲れとかの次元を軽く超えていた。
早いとこ永井さんの未練を解消しなきゃならないのに。あっちでひとりぼっちで留守番しているコタローに一刻も早く会いたいし。
それに。
ーーなんかこの感覚、気持ち悪い。
常にふわっとした浮遊感があって、なんとなく輪郭もあやふやで、あんまり地に足がついている感覚もない。
世間ではすでに真夏だというのに、薄ら寒さを覚えた私が二の腕をさすると、沖田さんがこっそり、トラちゃんトラちゃん、と手招きしているのが見えた。
彼は私の側で、いたずらに囁く。
「今すぐにでも帰りたいって思うでしょう?……しゃんばらに」
もちろん、反論する気なんてみじんも起きなかった。
無言を肯定と捉えたのか、沖田さんはどこか満足そうに、おかしそうに喉を鳴らす。
「うふふっーートラちゃんもだんだん、幽霊らしくなってきましたねえ」
「……冗談じゃない」私の呟きは、蝉時雨のバックコーラスにかき消される。
陽光が差してなお、陶器のように白いその肌は、まさに病人然としていた。
***
やっとこさ新幹線のホームにたどり着いた私たちは、次の便が来るのを待っていた。
私はぼーっとあたりを見回してみる。生きていた頃とほとんど変わらない景色に、なんとなく肩透かしを食らったような……そうでないなら苛立ちのような、行き場のないやるせなさが湧き上がってくる心地がした。てっきり浦島太郎みたいに、私がしゃんばらにいる間、こっちではすでに何百年もの時が経過しているものだと思っていた。
どれほどすごいマジックでも、一度種明かしをされてしまえば、驚くべき速さで有象無象に成り下がってしまう。そんな単純なこと、とっくの昔に知っているはずだった。
私はくるりと向き直る。感傷に浸る私のことなんてお構いなしといったふうにはしゃぐふたりに、修学旅行気分かよ、という毒づきを添えて。
新選組コスの沖田さんと、文豪コスの永井さん。朝の改札口という現実的な風景からかけ離れたふたりの姿は、はたから見れば映画村帰りの男子高校生そのものだ。
せわしないサラリーマンたちの雑踏が、私たちの体を当たり前のようにすり抜けてゆく。
ーーここから半日、無賃乗車するってのか。
胸をよぎる、ほんの少しの罪悪感。
……あーあ。これで私も、犯罪者の仲間入りか。何度も深いため息をつきながら、彼らの背中に続き、ローファーの爪先を、白線の先へと滑り込ませたのだった。
あとがき
小野篁は延暦二十一年に生まれた、文武両道のすぐれた役人です。彼には数々の不思議な伝説がありますが、今日でもよく知られるのが、本作でも出てきた、六道珍皇寺の井戸を通り、地獄で閻魔大王の補佐を務めていた、というものでしょうか。
たとえば、源氏物語の作者・紫式部が、作り物の話で世間を騒がせたという罪で地獄に堕ちてしまったところを、小野篁がなんとか閻魔大王を説得して、ふたりの間を取り持った言い伝えなんかがあります。
その話にちなんでなのか、京都市北区の、小野篁のものと言われるお墓の隣には、紫式部のものだと言われるお墓が立っているそうです……!




