二十五、地獄の釜の蓋が開くとき
…………なんだったの、いまの。
知らない景色、知らない人間。軽いめまいのようなものに頭をおさえ、私はとっさにその場にうずくまる。
「トラちゃん、どうしましたか?」
「や、いえ……たいした、ものでは」
ないと思いますーー言葉とは裏腹に、低く情けないうめき声が、口から洩れてゆく。
この感じ……身に覚えがある、と思った。記憶の果ての木造校舎。たとえば、教室に入る前とか、廊下で同級生とすれ違った時とか。
何度か、こんな症状になったことがあった。
"トラウマ"なんて言葉、軽々しく使ってやりたくなかったのにな。どうして私の心は、死んだ後でも、こんなに脆くて女々しいんだろう。
無理に立ち上がろうとするも、案の定、ぐらりとよろめいてしまった。
ただ、全てを見透かしたかのような深く青い瞳が、静かに私を突き刺してくる。
すると、沖田さんはかがんで、その広い肩を私に差し出した。少し窮屈そうに膝を曲げる仕草から、小柄な私でも掴まりやすいように配慮してくれているのが分かる。
ーーダサいな、私。
あの沖田さんにここまでさせるなんてさ。
「トラちゃん、無理は禁物ですよ」
「いや、でも……」
それでも。体全体を這うような不快感にいよいよ耐えきれなくなってきて、普段の私なら弱みを見せるなんて真っ平ごめんだったと思うけど、
「……ほんの一瞬だけ、ほんとにちょっとだけ、借りますから。肩」
「うん。お安い御用ですとも」
どこか、満足そうな沖田さん。
しぶしぶ首に手を回したら、衣擦れの音がする。不本意ながらも、とりあえず今だけは、この厚意ってやつにあやかってみることにした。
蓮見湖の向こう側からコタローが、まろ眉を八の字にして、心配そうに駆け寄ってくるのが見えた。
「トラ! 大丈夫? どこか痛むの?」
鼻をピーピー鳴らしては、私の顔を上目遣いで覗き込む健気な狐。献身的なその姿に、この痛みも少しだけ和らぐ気がした。
「ううん。さっきよりは平気」
「ほんとう? 帰ったら、総司にあったかいお湯を出してもらおうね」
舌っ足らずなその言葉に、私は小さく頷いた。
***
沖田さんからの一言がよっぽどショックだったのか、口を半開きにさせたままの永井さんに、沖田さんは、私たちには聞こえないくらいの音量で囁いていた。
「どうするかは、あなた次第です……でも」
沖田さんは、そこで言葉を切り、にっこり笑ってこう続ける。
「永井さんさえよければ、僕が用人棒になって差し上げますよ」
「小生は……」
「ああ、答えを急くつもりはありませんよ。覚悟が決まったら、明朝、屯所前まで来てください」
どこまでも相手を試すような、好奇に満ちた鋭い視線。それを察知しているのかいないのか、永井さんは結局最後まで、一点を見つめるばかりで何も言わなかった。
***
蓮見湖から撤退し、夜も深みを増した頃。私の体調(というか、現象?)は、ほとんど回復しきっていた。
座布団に座ってゆっくり寛いでいる沖田さんに、確認するように私は言う。
「永井さんの未練って、やっぱり解消したほうがいいやつなんですか?」
前に永井さんは、「どうしても知りたいことがあった」って言ってたんだから、それを自覚するだけで怨霊化はせずに万々歳、というわけにはいかないのだろうか。
……それに。
私は、蓮見湖から拾ってきた『埋もれた名作展』のチケットをひらひらさせる。
宮城県仙台市ーー
「これ。どこからどう見ても、現世の住所ですよね? どうやって行くんですか?」
生きていた頃、私は一度も、幽霊なんて見たことも、なんなら誰かが幽霊を見た、という噂すら聞いたことがなかった。っていうか、霊体の私たちが、お金を払って電車や新幹線に乗るというのもおかしな話だし。
頭で両手を組んだ沖田さんと、バチっと目が合う。
その口角は、よくぞ聞いてくれました!と言わんばかりに持ち上げられていた。
「それはねぇ……ふふっ。地獄の釜の蓋を開いてしまえばいいんです!」
「地獄? え、はぁ?」
想像のななめ上をいく返答に、思いっきり顔がひくつく。
地獄。地獄ってまさか、エンマさまがどうたらっていうアレ、だろうか。
それってつまりーーどういうことだ⁇
言ってやりたいことは山ほどあったのに、鼻歌まじりの沖田さんに、ほらほら明日に備えて早く寝ないと、と適当に流されてしまったのだからどうしようもない。
私に分かったのは、この人はまた何か訳の分からないことを企んでいる、それだけだった。
***
仮眠から目を覚ました私は、布団に包まれたままのコタローに気づかれないよう(下手に起こしたりなんかした日には、利き手をガブっと噛まれるし)床を軋ませないように、そうっと下へ向かった。
「おはようございます、トラちゃん」
快活な声に、私はピタ、と足を止めた。
「……おお! 今日は寝癖が付いてないみたいですねえ」
この、からかいまじりの遠慮ない笑いかたを、私はよく知っている。
見上げればーー珍しく私より先に起きていた沖田さん。と、その隣にいる人影……の正体に、思わず目を見開いてしまった。
「えっと……永井さん? 今日はまだ開店前なんですけど……」
「ああ、これはこれは、失礼しました。小生としたことがーー」
永井さんは慌てて、一礼する。私もつられて、ぺこりと頭を下げるしかなかった。
「なんと永井さん、僕が起きた時にはもう玄関先にいらしたんですよ」
どんだけ早起きしたんだ、という率直な疑問は置いておいて。
視線を落とす。沖田さんが手にしているほおずきの提灯は、たしか部屋にあったやつだ……嫌な予感に、私はぶんぶん、首を振る。
清々しいほど無邪気な笑顔が、私たちに向けられた。
「さぁて。役者も揃ったようなので、そろそろ出発しましょうか!」
それはまるで、最初から約束していたみたいな口ぶりだった。
沖田さんの先導に続いて、私は重いローファーを引き摺る。なんか幸先悪いな、と思う。屯所を出ると、不気味なくらいに霧が濃く出ていた。
しばらく歩くと、じめっとして薄暗い洞窟に到着した。ちょっと角度があるから、比良坂だなんて言われているらしいここは、沖田さんと私が液体人間に出会したところでもあり、私が初めてしゃんばらに来た時に下った坂でもある。
どこまでも伸びる長い坂道。無限とも思える長い時間を、私たちは無言で上り続ける。
沖田さんはともかく、そろそろ、私と後ろの永井さんの体力は限界に近づいてきていた。
ぜい、ぜいと息を切らしながら、私は沖田さんに文句を垂れる。
「おきた、さんっ……! まだ、なんですかあっ」
いかんせん、視界が悪い。この暗い空間では、ほおずきの灯りだけが頼りだ。沖田さんはくるりとこちらを振り向いたかと思ったら、「もうちょっとの辛抱です♡」と言ったーーくそ、スパルタめ。期待しなきゃよかった。
目の前には、いまだ出口の見えない、気の遠くなるような坂道が待っている。スキップを踏むふりをしたら、ちょっとは気が楽になったりしないだろうか。永井さんなんてもう、顔面蒼白だし。
体力"オバケ"ならぬ体力弱者の私たちをよそに、余裕そうな沖田さんはなんのこれしきとずんずん進む。
出口、なのかはまだ分からないけど、みちしるべになっている小さな穴までの距離がさすがに遠すぎやしないか。
うげー、と顔を歪める私を見て、沖田さんはふっと口元をやわらげてみせた。
怪訝に思って耳を澄ましてみると、「まあ、ここらでも良いかーー」と言っているのが聞こえた。ピンポン玉サイズの小さな穴に、沖田さんは提灯の光を浴びせる。
少し、間を置いてから。沖田さんの風鈴みたいな声が、静寂に響き渡った。
「ふるふる揺れる鬼灯よ、この御霊を現世に運びたまえ」
刹那。地面が渦を巻き、空間が歪み出した。私の視界は揺らぎ、ふと、身体が浮くような感覚に襲われる。
もはや叫び声を上げる間もなく、私たちの周囲は一瞬で、わあっーーと、強い光に飲み込まれてしまった。
でも、どうしてだろう。心臓が締め付けられる恐怖と、未知への興奮、のようなものが、私の奥深くで交錯している。
もう、前後には沖田さんも永井さんもいなかった。そこには重力も時間も存在しておらず、ただ、果てしない虚空があるのみだった。
あとがき
こんにちは!目玉木です。まず、長い間更新ができておらず、本当に申し訳ありませんでした。実はこの休載期間、リアルが忙しかったのももちろんあるのですが(夏休みはバイト!バイト!バイト!でした……トホホ……)、それ以上に、資料を読み漁ったり、時代劇を見返したりと、私なりに、沖田総司さがしに明け暮れていたのです。そのおかげでと言ったらなんですが……やはり、やるなら全力で!と、より一層、彼に対する想いが強まったような気がします。みなさんにパワーアップした『しゃんみれ』をお届けできるよう、真心を込めて物語を紡いでいきますので、これからもどうか、温かい目で見守っていただけますと幸いです。




