城塞都市
レオナルド・ダ・ヴィンチが市街の北側を守る城壁の上に立って街の外を見ていた。
ここは辺境の城塞都市だった。だが、その名が明かされるのは、もう少し後のことになる。
レオナルドの右側は崖になっていて、その上にイスラム教徒が建設した四角い城塞が立っている。
彼の左側には北の城壁が延びているが、工事中だ。
元々は中世の背の高い城壁が建っていた。十五メートルほどの高さがあり、壁厚は薄い。
しかし、この形の城塞は、大型化が進む大砲で崩されてしまうことがわかっている。最近はイタリア式の、背が低く厚い城壁に作り替えられるようになっていた。
目の前の城壁も改良中で、彼の立つ東端が低く厚い、西側に進むと、途中から背が高く、壁厚が薄くなっていた。
「なるほど、こうなっておるのか」レオナルドが独り言をいった。なにが、“なるほど”なのかは、よくわからない。
東から風が吹いてきて、レオナルドの白い髯をなびかせる。このあたりは、東風が強いと要塞の守備隊長が言っていた。
レオナルドが市街の南側に置かれた宿所に戻った。
「ただいま帰りました」
「おぉ、レオナルド殿か、市街の北側はどうでありましたか」レオナルドに同行してきた名義司教が言った。
名義司教とは、司教の叙階は受けているが、教区を持っていない司教のことを言う。
例えばエルサレムはキリスト教会としては、キリスト教の教区であるべき所だ。しかし、実際の所はオスマン帝国の支配下にあり、教区として徴税をしたり布教したりすることができない。このようなところを教区として指定される司教のことを名義司教という。
教区を持っていないが、キリスト教世界での権威はある。
しかも、かれはスペイン人だった。スペイン国内を通行するのに、これほど頼もしい同伴者はいない。
そのつもりでアレクサンデル六世が、レオナルドの調査に同行させた。
「北側は、少し高くなっているようですな。あそこまで水を運ぶとしたら、少し工夫が必要です」
「工夫といいますと」
「まず、この城塞都市全体について、お話ししましょう」
「お願いします」司教が言った。彼は土木とか治水に関する知識がない。
「この街の利水で、最も重要なのは、南部の貯水槽です。あそこに雨水を貯めて、利用します」
「昨日見学に行った地下神殿のようなところですな」
「そうです。あそこに、水を貯め、水道を北にある市街に延ばして利用しています」
「そう言っていましたな」
「市街は南北に細長くなっています。そして中央部分が最も低く、そこより北に行くと少しずつ高くなっています」
「なので、市街北部の住民は屋根に降った雨水を貯めて使ったり、市街中央部の貯水槽に水を汲みに行っていて、不便だといっておりましたな」
「そうです」
「で、どのような工事を行うのですか」
「三つの手を打てば、かなり改善するでしょう」
「三つとは、なんです」
「一つ目は、貯水槽に入る水を増やすことです。二つ目は貯水槽を大型にすることです。そして、三番目は町の中心部の貯水槽に風力揚水機を設置して、北部に水を回すことです。この三つで、かなり上水事情が改善されるでしょう」
「なるほど、わかりやすいですね」
「話すのは簡単ですが、実現するのは大変です。今回は、この方式を採用した場合、どれほどの費用がかかるものか、概算を出すまでとします」
「よろしいでしょう。それを猊下がスペイン王に伝える、というわけですな」
「そうです」
「概算を出すため、街区の傾きや、貯水槽から市街中央、市街北端までの長さなどを計らなければなりません。守備隊長に頼んでロープや錘など、測量に必要なものを用意させてください」
「それはいいのですが、具体的にどのようにするものか、私が理解しておかなければなりません」
「そこで、貯水槽を拡げる、というのはわかりやすいですが、貯水槽にいれる水を増やすにはどうするつもりですか」
「貯水槽に流れ込む水は、北側の山から来ています。山の斜面に幾つか導水のための溝をほってやればいいでしょう」
「なるほど、では風力揚水機、というのはどのようなものでしょう」司教が尋ねた。
「ここは辺境ですから、簡単な風車を作ることにします。壊れにくく修理しやすいものです」
「どのようなものでしょう」
「この地は、東風が吹くことが多いと聞いています」
「守備隊長も、そういっていましたな」
「地面に垂直に高い柱を建てます。この柱が回転軸になります」レオナルドが紙に木炭で絵を描き始めた。
「はい」
「この軸に六枚程の帆をはります。すると、このような円筒形になります」
「なりますな」
「次に円筒外側、北半分を土壁で覆ってしまいます」
「せっかく作ったのに覆うのですか」
「半分だけです。こうすれば、東風か、西風が吹いた時に回転します」
「それで、半分覆うのですか。南風や北風の時には使えませんね」
「風の吹いている時だけ水を汲んでくれればいいのです。北側にも貯水槽を置きますから」
「なるほど、常に動いている必要はないということですか」
レオナルドが説明しているのはペルシャ由来の風車で、イベリア半島にはイスラム教徒が持ち込んでいる。
「承知しました」スペイン人の司教が言えば、隊長は用意してくれるだろう。
それから一週間、レオナルドは守備隊長が貸してくれた道具と兵を使って測量をした。多くの図面やメモが出来た。
「これくらいでいいでしょう」レオナルドが言った。
「どれくらいかかるものなのですか」
「期間ですか、金額ですか」
「金額です」
「さあ、それはこれらのメモから計算してみなければわかりません。少し時間がかかります」
「そうなのですか」
「ここに来る道中で申し上げた通り、私はこのあとフランスに向かわなければなりません」
「それは聞いています」
「ナントまで海路で行きます。その船の中で計算を行い、概算額を算出いたします。そしてナントでこれも海路でローマまで送ります」
「大丈夫でしょうか」
「ナントの司教宛ての手紙を書いてください。そうすれば向こうで手配してくれるでしょう」
「わかりました」
「それと、これをお渡しします。大事に持っていてください」そう言ってレオナルドが紙片を取り出し、司教に渡した。
紙にはアルファベットと数字が横一文字に並んでいた。重複する文字はないが、通常のABCという順番ではなかった。
そして、その下に七という数字が書いてある。
「『置換暗号』の鍵です」
「鍵ですか」
「七は、七つずらす、という意味です。例えばAと書いてあればアルファベットを七つずらしてHという文字になります」
「なるほど、昔からよく使われている暗号ですね」
「それだけでは、簡単に見破られてしまいます」
「特徴的な文字の並びがあると、七という数字がわかってしまいそうですね」
「そうです。たとえばラテン語でetはよく出てきますが、アルファベット順だとKAになります。KAが頻繁に出てくれば、七文字ずらしだとわかってしまいます。アルファベット順ではなく、ここに描いた文字列上でずらしてください」
「なるほど、わかりました」
「この暗号規則に従って報告書を作成しますので、大丈夫です。途中で誰かの手に渡っても解読できません」
「そうですね。安心しました。これで猊下に報告できます」
そして、二人が別れた。司教はローマへ、レオナルドは海峡を渡って西に向かう。




