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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
643/648

イザベラ・デステの彩色肖像画

 レオナルド・ダ・ヴィンチの目の前に、六枚の古い羊皮紙と、同じ枚数の新しい羊皮紙がある。二組の羊皮紙の大きさは、ほぼ同じだった。


 古い羊皮紙は、アレクサンデル六世がベレンガーリオから預かったテンプル騎士団の借用書だ。

 レオナルドは借用書の複製を作っていた。


 本物の借用書と新しい羊皮紙を重ね、所々針で目立たないように穴を開ける。

 新しい羊皮紙に開けられた穴を手掛かりに、古い借用書に書かれた文字を写していった。

 書体もそっくりに真似た。


 王の署名のところは、特に念入りに写す。


 そして最後に、借用書の下にげられているペンダント・シールというワックス印を写す。


 実際のワックスを使うのではなく、借用書の右下の隅に絵の具を使って描いた。表と裏を横に並べて置いている。

 フランス国王のワックス印なので、紐は赤と緑の絹で出来ていた。ワックスは緑色だ。陰影は、表が玉座に座る国王像、裏が百合ユリ紋章だった。

 実際にワックスを使って作ることもできるが、それをしてしまうと、偽造罪とされることがある。重罪である。


 レオナルドが両者を見比べて、満足する。


 そして、右上に以下のように書いた。


Copia veri et originalis instrumenti

<真正な原文書の写しである>


 このような文書の複製は、中世ヨーロッパにおいてよく行われた。公証人による真正性の証明や、裁判の場で多用されている。


 ただ、ワックス印の模写と書体の模倣もほうの部分は、レオナルド独自のものだった。


当時の通常の複製文書では、書体など気にせずに、書かれていることを正確に書き写すだけだ。

そして、正しいワックス印があることを、文章で書いているだけだった。


Sigillum appensum in originali

<原本には封印が吊り下げられている>


 とか、


Sigillum in originali visum est

<原本に封印が確認された>


である。

 このような手間をかけているのは、教皇の持っている借用書が本物であることを強調している。

 ここまでやれば、実物を見なくとも、フランス王は借用書が本物であると確認できるだろう。

 ダメ押しというやつだ。


 同じように七枚の複製を作る。あとは教皇に渡すだけだった。教皇庁図書館司書が仰々(ぎょうぎょう)しく、


Transumptum fideliter ex originali,

mandato Sanctae Sedis,

asservato in Bibliotheca Apostolica

<聖座(教皇)の命により、使徒図書館に保管される原本から忠実に写された複写>


と、書き加えることになっている。


 教皇は、この七枚の複製をフランス国王に渡すつもりだ。レオナルドによる署名とワックス印の模写でフランス国王が借用書の実在を認めれば、それでよし。

 信じないのであれば、一度に一枚か二枚ずつ原本をフランス国王に見せる。これを繰り返そうとしている。

 一度にすべての原本をフランス国内に持ち込むと、フランス王に奪われてしまう恐れがあった。

 フランス国王ルイ十二世の側からみると、教皇がそのように小出しにしてくるのであれば、それだけ時間が稼げる。




「やぁ、ずいぶんと上手に出来ましたね。羊皮紙が古びていなければ区別がつきません」イングランド人のロバート・ドゥ・ラ・ポールがレオナルドに言った。

「そうか。まあ、暇つぶしだがな」

 レオナルドが謙遜けんそんしながら言った。

「暇つぶしで、これですか。たいしたものですね」



「ところで、そろそろローマを去ろうと思う」

「そうですか。教皇がフランス国王に借用書を突き付けたので、お役目が終わった、ということですね」

「そうじゃ。あとはわしがいなくても、自然に話が進んでいくであろう」

「そうでしょうね」


「ついては、これを預かってほしい」そういって白い麻布を掛けた板をロバートに差し出した。

「これは、あれですか」

「そうじゃ、やっと描きあがった」

「拝見してもよろしいでしょうか」

「むろんじゃ」そういってレオナルドが麻布を取り除いた。


 レオナルドは通常ポプラ板に直接描くことが多かったが、この絵画は板に帆布キャンバスを貼り、その上に描かれていた。

 ヴェネツィア風のこしらえだ。


 そこには、暗い背景の中に右を向いた若い女性が描かれていた。彩色されたマントヴァ公爵夫人、イザベラ・デステの肖像画だった。


「すばらしいです。侯爵夫人にそっくりです。お美しい」ロバートが言った。

「そうか、夫人の気に入ってもらえるであろうか」

「そりゃあ、もちろん。間違いなく喜ばれると思います」

「なら、よかった。夫人に届けてほしい」

「いいですが、レオナルド様がご自身で行かれた方がよろしいのでは」

「わしは、行かなければならないところがある」


「と、申されますと。なにか新しいお仕事ですか」

「そうじゃ。ローマ滞在の礼として、教皇に一つ約束をした」

「約束ですか」

「うむ。詳しくは言えぬが、スペインの、ある場所の上水設備の調査だ」

「今の教皇様がアラゴン出身だからですか」

「そうじゃ。こちらから申し出た。わしは絵も描くが、土木工事や治水の方が得意なのでな」

「そうですか。それは教皇様もお喜びになるでしょう。承知しました。この肖像画は、私が責任をもって、届けさせていただきます」

「頼む」


 数日後、レオナルド・ダ・ヴィンチがスペインに向けて旅立っていった。


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