十二表法 (じゅうにひょうほう)
十二表法についてだが、レオナルドの時代にはこの法文は失われているので、筆者が語らなければならない。
ローマが丘の上に散在する集落から都市国家になったのは、紀元前七五三年のことだという。ロームルスという王が現れ、王国となった。
ローマは隣のサビニ人にローマに来て住むことをすすめる。サビニ人が移住した。このときローマはサビニを併合したのではなく、サビニ人にローマ人と同等の市民権が与えられたという。
ローマは、その誕生の時からローマだった。
ロームルスが嵐の中で行方不明になると、ローマ人は二代目の王をたてる。この時もローマ人は変わったことをする。
ロームルスの最後に不審な点があるので、ローマ人の誰が王になっても疑惑を生みそうだった。
そこで市外に住んでいたサビニ人を王にむかえる。ローマとサビニが合併するとき、交互に王を出す約束があったともいわれている。
三代目の王はローマ南東のアルバ・ロンガという国を征服した。アルバ・ロンガの王は殺されたが、市民はサビニと同様にローマ市民権を与えられる。貴族はローマの貴族となり元老院の議席も与えられる。この時にローマに合流したのがカエサルを輩出するユリウス一門だ。
四代目の王はテベレ川の河口にあたるオスティアを征服し、ローマが海に出る道を作るとともに塩を手に入れた。
五代目から七代目は北の強国エトルリアの人だったという。
七代目をタルクィニウス・スペルブスという。この人は夏目漱石の「吾輩は猫である」に登場する。
『七代目樽金』もしくは『タークイン・ゼ・プラウド』のことだ。
エトルリア人王が三代続いたローマでは、政治を変えなければいけないと思ったのだろうか、『七代目樽金』を追放して共和政国家を作ってしまった。
紀元前五〇九年のことだ。この時のローマの領土はローマ市周辺とテベレ川河口のオスティアで、まだまったくの弱小国家だった。
以後は、相次ぐ戦争の時代になる。戦争の主体は重装歩兵だった。この歩兵は平民出身者だったので、彼らの影響力が増していく。
そして、共和国成立から約六十年後の紀元前四五〇年に平民の要求で、成文法である十二表法が成立し、一般に公開される。
十二表法の本文は残されていないが、古文書類で引用されているものをまとめると、だいたい以下のようになる。
第一・第二表は裁判の手続きについてだ。
・裁判に出頭を求められた者は出頭しなければならない。
・手続きを踏んだ後、それでも出頭しなければ、訴えた者は彼を捕えることができる。
・裁判の当事者達が合意に達した時には、それを宣言すること。
・合意に達していない場合には午前中に当事者が主張を述べ、午後に法務官が判決を下す。
等々、紛争は裁判で解決することを述べている。
第三表は判決の執行について書かれている。
・債務を認めた者、または弁済すべきであるという判決を受けた者は、三十日以内に支払わなければならない。
第四表は家長の権利と義務について書かれているが、現代人から見るとショッキングな条がある。
キケロが彼の著作『法律について』の中で語っている。
cito necatus tamquam ex XII tabulis insignis ad deformitatem puer
「著しい身体的欠陥を持つ子は、まるで十二表法の教えに従って、速やかに殺された」(と、キケロは述べている)
(Cicero, de leg., 3, 8, 19).
「de leg.3,8,19」とは『法律について』第三巻八章十九節という意味だ。条文は、想像するに、『明らかに醜い子は殺さなければならない』のようなものだったろう。
これは当時のローマの状態を考慮しなければならない。恐らく福祉に向ける予算など無い時代のことだ。
悲しいが父親としての義務になったのだろう。
父親に関しては、このような物もある。
「父親が息子を奴隷として三度売った場合、息子は父親から自由になる」とんでもない父親がいたのだろうか。
第五表は「後見と相続」、第六表は「取得と占有の権利」だ。
・相続人のいない人が遺言なく死去した場合、父方の親族で、血縁の近い者が相続する。
などである。なお十二表法においては、女性は未成年者と同様の後見制度下に置かれていたと考えられている。
第七表は土地の権利や取引についてだ。
・土地の境界紛争は第三者により解決されなければならない。
・道路の幅は直線部分で二.四メートル、曲線部分は四.八メートルなければならない。
・樹木が隣人の土地に張り出した場合、樹木の所有者が切り取ること。
・木から隣人の土地に落ちた果実は、元の木の所有者の物になる。
第八表は不法行為と損害賠償だ。
・他人に障害が残るような怪我を負わせ、和解していない場合には、同程度の復讐が許される。
・夜盗を働いた者、殺人をなした者は死刑である。
第九表は公の事柄に関することだ。
・賄賂の禁止。
・市民の敵国への引き渡しの禁止。
・有罪判決を受けていない者の処刑の禁止。
などだ。
第十表は神聖に関わることだ。
・市内で死体を焼いたり、埋葬したりしてはいけない。
・火葬の時、金を燃やしてはならない。ただし金歯を除く。
日本語Wikipediaの『十二表法』の記事の第十表のところには、こんなことが書いてある。
「王冠を入手し、それを頭に載せても罪にはならない」
どんな愉快な事件があったら、こんな条文が出来るのだろう、と思ったが、どうも王冠窃盗事件とかそういうものではないようだ。
典拠としているのは、以下の文だ。
qui coronam parit ipse pecuniave eius honoris virtutisve ergo datur ei ...
「自ら冠を得た者、またはその名誉や勇気のために金銭をもって(冠が)彼に贈られる者~」
(Cicero, De Legibus 2, 24, 60; Plin., Naturalis Historia 21, 3, 7)
やはりキケロの『法律について』からの引用、またはプリニウスの『博物誌』からの引用だ。
『博物誌』の引用をもう少し続けると「~この権利もまた、十二表法に由来するものである」となる。
古代ローマには功績を挙げた人物に冠を授与する習慣があった。
それを法的に正当化した条文なのだろう。十二表法が、単なる刑法・民法に関するものだけではなく、名誉・功績・報奨授与にまでも言及している、ということなのだ。
「国家は、徳と名誉に対してのみ冠を与える。報奨は功績に根拠をもたなければならない」
である。
第十一、十二表は後から付け加えられた補足だ。古代の限界が見られるものもある。
・貴族と平民の婚姻を禁止する。
などが、それだ。ただし、この条は五年後に廃止されている。
『十二表法』には、隣の土地に延びた枝の果実の所有権などの些末な物もある。けれども、正義とは、公正とは、法治とは、さらには徳や名誉などについても、古代の限界はあるものの、語っている。




