アルディン印刷所
前回、ジュール・ミシュレという19世紀のフランスの歴史家を紹介した。名文家である。なので、せっかくだから、すこし彼の文を引用してみよう。
引用元は「フランス史-Ⅲ、16世紀ルネサンス、ジュール・ミシュレ、大野一道他訳、藤原書店、2010年9月30日初版第一刷」である。
「人類にとって新しい時代となるこれらのきわめて重要な年代を記しておこう。
ウェルギリウスは一四七〇年に、ホメロスは一四八八年に、アリストテレスは一四九八年に、プラトンは一五一二年に、それぞれ印刷された。
ペトラルカは、自分がまだ理解できないホメロスを写本で見てうれし泣きをし、それに触って口づけをしたものだが、もし、それがヴェネツィアとフィレンツェの気品ある活字によって増刷され、……ヨーロッパ全体に流通するのを見たとしたら、彼の興奮はどれほどであったろうか」
これは「古典古代とエラスムス、エティエンヌ家」という章の冒頭である。当時のイタリアでギリシア・ローマの古典などが猛烈な勢いで印刷出版されたことを表現している。
ただし、これらの出版物は、ウェルギリウスはラテン語、他はギリシア語で印刷されている。誰もが読めるものではなかった。
ペトラルカは書かれている年代より百年以上前の人だ。
だから、もしペトラルカがこの印刷物が流通するのを見たとしたら、という想像を描いている。
ペトラルカは『人文主義の父』と呼ばれているように、最初期の人文主義者だった。ラテン語は出来たが、ギリシア語については、彼の著作『秘密』において、ギリシア語を習得できなかったことを悔やみ、『ホメロスを失ってしまった』と述べている。
ミシュレはそのことを『理解できないホメロス』と言っている。
それまでのヨーロッパには、本といえば聖書などキリスト教関連の本が大多数だった。そこに、印刷術により、古代の古典が奔流のように流れ込んだのだ。
『ヴェネツィアとフィレンツェの気品ある活字』というのは、イタリック体の事を言っている。『斜字体』、『斜体』ともいう。
ヴェネツィアのアルディン印刷所が活字化した字体だ。ジュール・ミシュレの挙げている例では、一四九八年のアリストテレスと、一五一二年のプラトンがアルディン印刷所から出版されている。
アルディン印刷所は、もう一つの工夫で知られている。『八折版』という。
全紙を三回折りたたんで本にする方法のことだ。両面で十六ページになる。
それまでのグーテンベルク聖書などは『四折版』といい、大型本だった。
全紙のサイズにもよるが、グーテンベルク聖書が縦四十センチ、横三十センチ程もある。容易に携帯できるようなものではない。
それに対してアルディン印刷所の『八折版』は縦十五センチ、横十センチほどになる。
つまり、『文庫本』を発明した、ということだ。
アルディン印刷所の創業者はアルドゥス・マヌティウスという男だ。オールド・パソコン少年は『アルダス』という会社があったことを覚えているかもしれない。『ページメーカー』というデスクトップ・パブリッシング用のソフトウェアを作っていた。TIFFという画像の形式をつくったのも『アルダス』だ。この会社名はアルディン印刷所の創業者の名前にちなんでいた。
現在はアドビ社に吸収されている。
出版技術が全ヨーロッパに拡がる。ドイツでもドイツ語の聖書が出版され、文字を知っていれば、誰でもが読めるようになった。
それまで、聖書は司祭が話して聞かせるものだったが、農夫も商人も読もうと思えば読めるものになった。
「聖書に免罪符なんてものは書かれてねえじゃねえか」
「おうっ、それどこか『ローマ教会』なんてのも、出てこないぞ」
「そうだ、出てくるのは『ローマにいる、神に愛され、召された聖徒』という言葉だけだ」
「イエス・キリストも使徒も質素に暮らしていたみたいじゃないか。教皇とは大違いだ」
ということになる。
一昨年、一五〇四年の収穫期、ドイツ南部、スイスとの国境付近の村シュテューリンゲンから『ドイツ農民戦争』が始まる。サヴォナローラの檄文に刺激されたため、この物語では史実より二十年早い。
この地域を支配していたルプフェン伯爵の夫人が、辛い収穫を終えた農民達に、さらなる要求をした。
「糸巻の芯に使うことにしたので、カタツムリの殻を大量に集めてきなさい」
当時糸巻の芯に使うのは、木片や小石である。本当にこのようなことを言ったのか、にわかには信じられない。
しかし、当時の記録にはそのように残っているのだ。
『あまりに理不尽な要求』だったことを強調したかったのかもしれない。収穫で疲れ切っていた農民達が怒りに震えた。数日のうちに一二〇〇人の農民が集まり、旗を揚げることにした。
八月二十四日に『福音同胞団』が結成される。『福音』とは聖書のことである。新教のもとに結集した集団だ。
運動は、数週間のうちにドイツ南西部に拡がる。シュヴァルツヴァルト、ボーデン湖、シュヴァーベン高原、ドナウ川上流、そしてバイエルンとチロルにも達した。
翌年の二月、おもな運動の代表者がバイエルンのメミンゲンに集まり、『十二か条』と呼ばれた要求を掲げた。
一、共同体(農民や市民)による聖職者の選出と罷免
二、十分の一税の共同体による運用
三、農奴制の廃止(当時は領主から農民に対して際限のない労働要求があった)
四、狩猟や釣魚の自由(これらは領主の権利であった)
五、森林の共同地としての利用(同上、燃料の薪などは領主から購入しなければならない)
等々である。
二番についてだけ説明をしておこう。十分の一税とはカトリック教会に納める税のことだが、これを教会に納めず、共同体で使途を決めるという事だ。
使途については、まず一で決める聖職者(新教の牧師)への報酬。当然カトリックの司祭の事ではない。そして、余ったら村の貧しい人々に分け与えると、具体的に書かれている。
この『十二か条』は、その後わずか二か月のあいだに、印刷機により、当時としては驚異的な二万五千部前後が印刷され、ドイツ各地に配布された。




