暗号 (あんごう)
中世末期のこの時期でも、暗号はしきりに使われていた。通信の秘密があったわけでもないし、道中は物騒だった。
むしろ、今より暗号の必要性は切実だったかもしれない。
暗号を用いるには、それを復号する方法を受ける側が知っていなければならない。
それは、例えば換字法であれば、アルファベットの三つずつずらして、a ならば d、 c ならば f などと文字を変えて書く。三つずらすという方法を解読者が知っていなければならない。
コードを使うのであれば、相手方に辞書が必要である。「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」だったらニイタカヤマノボレが、『攻撃を開始せよ』という意味であるという辞書が必要だということだ。
あるいは鍵を使う方法もあるが、それも相手が鍵を持っていなければならない。
鍵というのは、例えば換字法だったら、『三つずらす』の三が鍵である。
この数字を変えることで、いつも『三つ』ずらす暗号よりも、強固な暗号になる。
いずれにしても、どの様に暗号化したのか、ということを受け手が知らなければ、解読は困難になる。
また、それが暗号であるという事を知らなければ解読はより一層困難になるだろう。
例えば、この話を持ち出してきたベレンガーリオ・サウネイロはポルトガル人であるが、フランス風に名乗るならば、ベランジェ・ソニエールになる。おそらく気付いていた読者は少ないはずだ。そこに何かがあると知らされていないからだ。
「彼には、そのような準備をする余裕はなかったにちがいない」ベレンガーリオ・サウネイロが言った。
「まあ、そうだろうな」
「だとすると、一見すると分からないが、何らかの先入観を持って観察すればわかるようにしておくしかない」
「先入観とは、なんだ」片田が問う。
「つまり、時祷書の中から出て来た、ただの紙にしか見えない者には、けっして分からない」
「これがジャック・ド・モレーの時祷書で、テンプル騎士団の悲劇のことを知らなければ分からない、ということかな」これは、シンガ。
「そのとおりだ。テンプル騎士団が奇襲を受けて、一網打尽にされる。その時に、最も重要だと思われる物を持ち出して隠であろう。それを知らなければ解けない謎だということだ」
「最も大事な物って、なんだろう」
「聖杯や、聖なる槍とか、そういったものか」ジロラモが尋ねる。
「違うだろう、騎士団再起のために最も必要なのは金だ。聖遺物も金にはなるだろうが、そんなものを持っていたかどうか、それはわからんな」
「では、重要なものについて書かれているというつもりで、もう一度読んでみようではないか」
四人が先ほどの文章をもう一度見直す。
or dit li Belli
Dieu rotibil
tu or bileid
Roi debilut
Rennes li Chastel
1 et 2 3
「なにか、駄洒落のようなものかな」シンガが言う。
「それは、いい思い付きかもしれないぞ」ベレンガーリオが笑う。
「これはどうだろう、上の四つの文章には、bil または bel という文字が入っている」
「その通りじゃ bil とは何だと思う」
「そうだね、billet だったら『文書』っていう意味だね。 billet d’amour ならば恋文だ。騎士団は銀行もやってたっけ、 billet de dette ならば借用書だね」
「単に un billet でも借用証書として通用する」ベレンガーリオが補足する。
「いざ、というときに借用書を持って逃げるかなぁ」シンガが言った。
「他にも何か気付くことはないか」
「そうだなぁ、最後の文の先頭は Roi だけど、他の三つの文にも r,o,i が含まれているね。『王様』という意味だ。繋げると billet du Roi、『王様の借用書』になるけど」
「それじゃ」ベレンガーリオが言った。
「それじゃ、って。王様の借用書を持って逃げたのか」片田が尋ねる。
「当時フランスは頻繁に戦争をしていた。戦費のための借金じゃ。莫大な金額の借用書にちがいない」
片田が日露戦争の時の外債や、今次大戦の戦債のことを思い出す。国家が戦争をするには気の遠くなるような戦費が必要だった。
「ほんの、数枚の紙が莫大な額の証書であるとすれば、純金や宝石を持ち出すよりはよいかもしれん」ジロラモ・サヴォナローラが言う。
「しかし、それは貸し手であるテンプル騎士団が法人として存在していれば有効だが、騎士団は消滅したんだろう」片田が異を挟む。
「そうじゃ、なので今その借用書を手に入れても、存続する法人であるフランス王国に請求することはできない」ベレンガーリオが認めた。
「では、なぜこの島に来たのですか」
「それについては、借用書を入手した時に説明する」




