ベクトル
「では、座標系がわかったところで、ベクトルというものについて話します」
あのベクトルである。ベクトルという言葉はドイツ語発音だ。英語ならベクター、イタリア語ならば、ヴェットーレ(vettore)というそうだが、レオナルド・ダ・ヴィンチの時代には、そんな言葉はなかっただろう。『運び手』とか『輸送者』というところから来ている。
「数字は量を表しますが、ベクトルは量と方向の二つを同時に表します。例えば座標系の上に矢印を描けば、これがベクトルになります。矢の長さが量で、矢の向いた方が方向です」
そういって、座標系上に矢印を描いた。
「この例だと座標の(2,1)から始まって(5,4)まで延びています。両者の座標の差を取って、(3,3)のベクトルと表現します」
「始まりを原点にすれば、座標そのものになるのかの」レオナルドが尋ねる。
「そのとおりです。その場合、点の位置をあらわすので、『位置ベクトル』といいます」
「これは、わかりやすいな」
「次は少し難しいですよ。速度ベクトルというものがあります」
「速度とは、なんだ」
「鳥が飛んだり、船が川を流れたり、そういうとき、動いている、といいますよね」
「鳥は速く動き、船はゆっくり動く」
「速い、遅いの程度を『速さ』といいます。数字が大きいほど速く動くとします」
「まあ、そうだな」
「いま、一秒間に一メートル動くことを、『秒速一メートル』と呼ぶことにします」
長さや、時間の単位については、既に習っている。
「よかろう」
「で、それがどっちの向きに動いているか、という問題が別にありますね」
「それはそうだ、右に動くのか、左に動くのか、飛行機ならば上にも動かなければならぬ」
「速さの程度と、どちらの方向に動くか、二つ合わせて『速度』といいます」
「なるほど、量と向き、両方あれば、ベクトルと呼べるな」
「そのとおりです」
「いま、原点から1秒あたり、二メートル、向きはx軸の向きに動くとします」
「よかろう、一秒目は(2,0)、二秒目は(4,0)じゃ」
「そうすると、ある速度で動く物体の将来の位置は、このように書くことが出来ます」
x(t)=v×t
「x(t)はt秒後の物体の位置で、vは速度です」
「xもvもベクトルなのか、つまり、x軸上だけでなく、斜めに動くものもこの式で表すことが出来るのか」
「そのとおりです」
「なるほど、xとyだけでなく、上下方向に、たとえばzという軸を置くこともできるのか」
「するどいですね、出来ます。そうすれば前後左右上下すべての方向の動きをベクトルで表現することができます」
「これは、便利な物じゃな」
「ところで、鳥でも、船でも、いつも一定の速度でうごくわけではありません」
「むろんじゃ、速くなったり、遅くなったり、それから、ん、これはちょっと難しいが、向きを変えることもある」
「そのとおりですね」
「う~む。わからん」
「『加速度』aというものを考えてみましょう」
「速度の変化具合ということか」
「そうです。難しそうですが、『位置』と『速度』の関係と同じように考えることが出来ます」
「すると、こうか」と、レオナルドが白い紙に式を書く。
v(t)=a×t
「そのとおりです。もし、最初に静止していたら、その式になります。よくできました」
「本当に、これで速度の変化を説明できるのか」
「できますよ」
前にも書いたが、レオナルドの数学は、幾何学中心の発想だ。その彼にしてみれば、数式でサラリと表現されて、これで正解です、といわれても気持ちが悪い。
「では、授業が終わったら、得意のコンパスを使って、いくつかの例について試してみてください。ちゃんとこの数式のとおりになりますよ」
「わかった、あとでやってみることにしよう」
「では、次はベクトルを操作してみましょう」
「操作するって、いじりまわしてみるということか」
「そうです。ベクトルは、二倍、三倍に延ばすことが出来ます」
「数字二つの組、両方に同じ数字を掛けるということだな。矢印が二倍、三倍に延びる」
「そうです、半分にしたり、マイナス一を掛けて逆向きにすることもできます」
「その、マイナスというのがなぁ、いまいちピンとこない」
レオナルドの時代、負の数という概念はあったが、普及してはいない。デカルトがxy座標を発案して以降から負数が普及する(『方法序説』一六三七年)。
「xy座標で反対向きの矢印って、考えればいいのよ」
「そういわれると、そうかもしれない」
「あと、大事なことだけど、ベクトル同士を足すこともできます」
「成分ごとに足す、ということだな」
「そう。そして、足す順番を入れ替えても結果は同じです。これを『交換法則』といいます」
「それは、あたりまえのようだが」
「『引き算』や『割り算』は交換法則が成り立ちませんよ」
「そういわれると、ぐうの音もでない。ところで、そうだな、足せるなら、掛けることもできるのか」このように発想が飛躍できるのが、レオナルドの長所だ。
「ベクトル同士の掛け算はできますが、二種類あります。内積と外積というのですが、これは、もう少し先に行ってから教えます」
「わかった」
「では、次の操作は回転です。原点を中心とした回転を考えてみましょう。いま(1,0)というベクトルがあるときに、これを四十五度左回りに回転させます。
「回転というと、このあいだやった三角関数を使うのか」
「そうです。ただ三角関数の公式は、煩雑なので、もっと簡単に出来る方法を教えます。回転行列です」
「今、(1,0)を左回りに四十五度回転させると、(√2/2, √2/2)になりますね」
「ああ、そうだ。ルート2なんぞとかいったら、ピタゴラ爺さん(ピタゴラスのこと)が頭から湯気を出して怒りそうだがな」
「これを、こう書きます」
「そして、このように計算します」
「このように数字が縦横に四つ並んだものを行列といいます。こんなふうに書くと決めると、このように略記できます」
X‘ = R(45)X
「これの便利なところは」いくらでも合成できることなの」
X‘=R(α)R(β)X
X‘=Rx(α)Ry(β)Rz(γ)X
「二番目の式は、三次元座標系で、RXはX軸回り、RYはY軸回り、RZはZ軸回りの回転ということよ。書き下すと、こうなるわ」
「これ、船の航海士が知ったら、驚くであろうな」
「そうでしょうね。位置天文計算が、各段に理解しやすくなるわ。直感的ですもの。ただし、順番を入れ替えると、別の回転になってしまうから、注意してね」
この回転行列は『じょん』に教わったものではない。片田の時代には高校数学で行列を教えていない。現代に戻った時の一九六〇年にも教えていなかった。
『かぞえ』が三角関数の『加法定理』をいじりまわしているうちに、独自に行列算法を見つけたのだった。
この『行列』は、3Dグラフィックスにも、生成AIにも使用されている、非常に利便性の高い道具なのだ。日本の高校では、一九七〇年代頃には行列を教えていた。しかしその後、高校数学で教えることをやめてしまった。最近復活の兆しがあるのは良い事だと思う。
「明日は微積分というものをやります。これでやっと力学を学ぶ準備ができたことになります」
最近のゲームの3DCGには四元数というものが使われているそうです。
これは複素数を拡張したもので、虚数を i,j,k の三つ定めています。
回転行列より優れた所があるので、最近多用されているようです。
興味のある人は調べてみてください。
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これを発明したのは、ハミルトニアンで有名なハミルトンさんです。
四元数は、その端緒は高校生でも思いつきそうなアイデアです。
けれど、中に分け入ってみると、非常に難しいのだそうです。
ハミルトンさんは、四元数にのめりこんでしまい、非業の死を遂げてしまいます。
なお、ChatGPTさんは、ベクトルはラテン語起源だと主張されています。




