味噌 (みそ)
『かぞえ』が『お櫃』から茶碗に飯を盛って、レオナルド・ダ・ヴィンチに手渡した。
「レオナルドさんも、だんだん、日本の食事に慣れて来たみたいですね」
「うむ。はじめは奇妙なものと思ったが、しだいに慣れてきた」そういって飯を掻き込む。ただし、箸は握りこぶしで持ち、二本まとめて、掻き込んでいる。天才といえども、箸を自由に使うためには、しばらく時間が必要だ。
『かぞえ』の食卓は、いつもだいたい決まっていた。白米の飯と味噌汁、焼き魚か刺身、それに漬物程度だった。あまり、食にこだわりはない。それよりも、テレタイプに向かって計算する方が楽しい。今日は鯵の刺身だった。
彼女たちが住む福良は漁港でもあったので、刺身が出てくるのが、他所とは少し違う。
「お国では、米を食べるのですか」『かぞえ』が尋ねる。
「米はありますが、食べ方はこちらと違う。魚介や野菜と一緒に味付けをした汁で炊き込むんじゃ。日本の飯はなにも入れずに炊くのだな」
「たまには、キノコなどを入れて味付けをして炊くこともありますけど、普通は米だけですね」
「この、サシミというやつ、うまいもんじゃ。魚を生で食べるとはな」
「お国では、生で食べないのですか」
「まったく食べないわけではないが、オリーブ・オイルと酢で漬ける」
「オリーブ・オイルですか、最近は店に出回るようになりました。今度その方法で作ってさしあげましょうか」
「おお、ぜひ頼む。しかし、このショウユか、これとワサビを付けて食べるのも、旨いもんじゃ」そういって、鯵の刺身に箸を突き刺す。
「それに、この、サシミの脇にあるものは、初めに見た時には驚いた。美しく添えられているではないか。これ師匠がやったのですか」
「ツマのことですか。そうですよ」刺身の脇にダイコンの千切りと海藻、大葉が添えられている。
「わしの国では食物の美観など、考えたことも無い。おもしろいことをするもんじゃ、と思った」
「まあ、そうかもしれませんね、そんなこと考えたことも無かったわ。どうせ盛り合わせるなら、きれいな方がいいでしょ」
「そのとおりです」そういいながら、箸を両方の手に持ち、片方で大葉を抑え、もう片方の箸で大葉を突き刺して食べる。
「少し辛いですが、バジルみたいですな」『かぞえ』はバジルを食べたことが無いので、適当に相槌を打つ。
「ショウユは、どうやって作っているのですか」
「醤油の作り方ですか、そうですね」そういって考え込む。
「大豆を煮て、擂り潰し、塩と麹を混ぜて、しばらく漬け込みます」
「ダイズとは、昨日の夜食べた煮豆のことですか」
「そうよ」
「どれくらい漬け込むのですか」
「そうね、十カ月くらいかかるわ」
「そんなに漬け込むのですか。腐りませんか」
「麹の働きが強いみたいなので、腐らないわ」麹が何に対して強いのか、よくわからないが、そう答えた。
「そうすると、そこの味噌汁に入っている味噌ができるのよ」
「なるほど、これもダイズですか」レオナルドが味噌汁の椀を箸で指して言った。
「味噌の樽の底に溜まっている汁が、醤油よ」
「そういうことですか」
「まあ、最近は醤油を作っている業者がいるので、味噌は家で作っても、醤油は店で買って来るわ。味噌樽の底の醤油は、ほんの少ししかとれないから」
「この味噌ですか、作り方を教えてください」
「えっ。なんで。いいですけど」
「いや、旨いもんだからです。豆と塩は、私の国にもあります。麹を持って帰れば、向こうで味噌と醤油がつくれるかもしれません」
イタリアは、古代ローマ帝国の時代には魚醤という発酵調味料を持っていたが、レオナルドの時代には、その文化は廃れてしまっていた。
彼が知っている調味料は、塩、塩漬豆のペースト、チーズ、ハーブくらいだった。
なので、新大陸からトマトが入ってきたとき、イタリア人はトマトの旨味に熱狂することになる。
トマトを知らないレオナルドが味噌と醤油に興味をもつのも、無理はない。
「味噌だけ作っても、鰹節と昆布が無いと、その味噌汁のようにはならないけど、あ、そうか。今だったら『あじ』が使えるわね」片田と茸丸が作った化学調味料のことである。
「では、明日作ってみましょうか。今は夏だけれど、麹を多めに入れれば作れるでしょう」
大葉が刺身の皿に乗っているということは、季節は夏だ。
「教えてくださるのですか、師匠」そういって、漬物代わりのダイコンの茎の『塩揉み』をうれしそうに齧った。
ダイコンやカブは、夏でもつくれないことはない。ただ根はナメクジの侵食を受け、葉は虫に空襲される。
それでも、根の中心や、茎くらいは食べられるので、ウリなどの夏野菜が出来るまでのつなぎとして重宝された。『かぞえ』の庭にも、ダイコンやカブが植えられている。
翌日、『かぞえ』の土間で味噌造りイベントが始まる。
『かぞえ』が前日に大豆を水に浸していた。午前中にレオナルドと麹屋に行き、麹を仕入れた。
「本当は、冬の寒い時期に仕込むのだけれど、今は暑いから二倍ほど麹をいれましょう。冬ならばこの半分でいいのよ。ちょっと味が変わってしまうかもしれないけど、まあいいでしょう」そう言った。
家に帰り、大豆を炊いた。レオナルドに『擂鉢』と『擂粉木』を渡す。
『かぞえ』がレオナルドの様子を見る。彼は和服の『着流し』だった。
「いいんだけど、その髪の毛と、長い白髯が問題ね。擂鉢に入っちゃうかも」
そういって、奥に何か取りに行った。
そして、奇妙な姿が出来上がった。
レオナルドが、茶道の師匠のような頭巾を被り、風呂敷で覆面をした。はみだした頭髪や髯を『かぞえ』が中に押し込む。
「これならば、いいでしょう」
「師匠、こんな姿でやるのですか」
「だって、しかたないわ、髪の毛とか、いろいろ入ったら味噌が失敗するかもしれないもの」『かぞえ』が吹き出しそうになるのを堪えて言った。
『かぞえ』が茹でて熱を冷ました大豆をレオナルドの擂鉢にいれる。
レオナルドが珍妙な姿で、擂鉢に入れられたダイズを擂り潰す。暑くなってきたのか、肌脱ぎになって、さらにダイズを擂る。
擂っては、一斗ほどもある樽に擂りあがった大豆を入れる。『かぞえ』が塩と麹をまぶして、捏ねる。
「師匠の手は、味噌に触れても、味噌が悪くならないのですか」
「私の手は、きれいだから大丈夫よ」
そういわれても、レオナルドは納得がいかない。が、口答えしてもしかたがない。
そしてまた大豆を擂る。捏ねる。
数刻が過ぎ、やっと一斗樽が一杯になった。レオナルドの両腕が、棒のようになる。
「これでいいでしょう。あとは、布巾で覆って、『落とし蓋』をして、出来上がりよ。なるべく空気に触れない方がいいの」
「わかりました。師匠」そう言って、レオナルドが頭巾を取り、風呂敷で汗を拭いた。




