ジョアン・フェヘイロ
近衛兵に導かれ、ジョアン・フェヘイロがリベイラ宮殿の奥へ向かう。まだ建築中であったが、それでも王室一家の居住部分などは完成していた。
小礼拝所から伸びる廊下を抜け、小さなドアを開けると、中は王室専用の祈祷室だった。右手奥に祭壇があり、香炉と蠟燭台が置かれている。
近衛兵は、ここで待つように、と言って出ていった。
背後の高窓から日光が斜めに指している。祭壇は東を向いているのだろう。乳香と木の香りがする。
祭壇の両脇に地球儀と天球儀があり、奥には、金箔を張られた四角い聖遺物箱がある。
ジョアンがこの部屋に入ったのは、初めてではない。国王と密談するときには、この部屋を使う。まだ建設中なので、密談に適した部屋が無かった。
ジョアンが祭壇を眺めていると、左手の扉が開き、ジョアン一世王が現れた。
「無事に帰って来たか、フェヘイロ。なによりじゃ」マヌエルが言った。
「再び御尊顔を拝したてまつること、幸いであります」
「堅苦しい事はよい、普通に話せ」
ジョアン・フェヘイロは、イングランド人の父と、ポルトガル人の母の間の子で、イングランドで生まれ育った。
そして、父の仕事を継ぎ、自前の商船で商売をしている。
最近の主な積荷はオルダニー島の尿素だった。これをポルトガルに運ぶ。尿素一に対して草木灰五を混ぜて肥料とすると、麦、ブドウ、オリーブなんでも良く育つ。
ポルトガルからイングランドにはワインやオリーブオイルを運ぶ。
あるとき、ポルトガル入港時に運悪くスパイ容疑をかけられた。ポルトガルの造船所の近くに持ち船を停泊させてしまったので、疑われた。
この造船所は、王宮のあったコメルシオ広場の西側にあり、通りにその名を残しているだけではなく、当時のドック跡も残されている。
Ribeira das Naus とはポルトガル語で、『ナオ帆船の川岸』という意味だ。また、一本奥に入った通りを『アルセナル通り』という。これは「造船所通り」、あるいは「兵器廠通り」という意味になる。
取り調べを受けている時に、マヌエル王の目に留まった。英語とポルトガル語が話せて、オルダニー島に出入りしているのならば、商売の片手間に、向こうの様子を調べて、王に直接報告してくれないか。そうするならば、嫌疑を解き、今までどおり商売をさせるが、と言った。
ジョアン・フェヘイロは、私は政治向きや国際情勢のことには興味がない。関心があるのは商売だけだ。なので、向こうで見聞きしたことを話すだけでよいのであれば、と承諾した。
イングランドでの本名はジョン・スミスという。スミスもフェヘイロも同じ『鍛冶屋』という意味だ。
「で、今回はどうだった」
「はい、まずカタダというのは、国名ではありませんでした」
「では、カタダは何者だ」
「商店の名前です。商店とは、ポルトガル語ではカーサのことです」
「エスタードではないということだな」
「はい」
「商人が軍艦を持っているのか」
「そのあたりは、どのようになっているか、わかりません」
「よかろう、でオルダニー島に軍艦は何隻ある」
「三隻です、大きいのが一隻と、中ぐらいのが二隻です。中ぐらいといっても、最も大きいナオくらいの大きさです」
「それは大きいな。で、戦闘しているところを見たことはあるか」
「ありません」
海戦というのは、海上で行われる。なので地上戦と異なり一般人が見ることは少なく、また戦跡も残りにくい。
たとえば日露戦争の日本海海戦でも、一般人でこの海戦を目撃しているのは沖ノ島の佐藤市五郎など、数名に過ぎないであろう。
「島の様子はどうだ」
「以前にも、少しお話しましたが、オルダニー島は東西に三.五海里ほどの小さな島です。その島の北側に大きな湾、南側に小さな湾があります」
そういって、前回より詳細なオルダニー島の地図を取り出して、マヌエル王に見せる。
ヴェネツィア産の上質な紙に書かれていた。王の目に触れる物である、国産の安紙を使う訳にはいかない。繊細な透かし模様が入っており、一流工房の製品であることを示している。表面には膠が引かれており、インクが滲まない。
「うむ、覚えておる。北の湾が、商船が入るところであると言っていたな」
「はい、そうです。そしてカタダ商店の軍船は南の湾を基地としているようです」
「行ってみたのか」
「島の東側三分の一は、自由に出入りすることは出来ません。私もまだ入れていません」
「そうか」
「しかし、北の湾は自由に出入りできます。境界の所には柵が建てられています。柵の向こうには、幾つも倉庫が建てられていて、一部の倉庫は煙突から黒い煙が出ています」
この当時のファクトリーは、工場という意味で使われていない。商館とか、取引所などのことである。
「何をしておるんじゃろう」
「さて、わかりません」
「その、カタダの領地に入ることはできないのか」
「なにか、理由がなければ入れません。例えば、文豪のエラスムスは時々出入りしているといわれています」
「あの人文主義者のことか」
「はい」
「なんの用事があるというのじゃ」
「それも、わかりません」
「この地図は」
「置いてまいります。そのつもりで持ってまいりました。しかし、測量をしたわけではないので、方向や距離は不正確であることをご承知おきください」
「わかった。下がってよい」そういって鈴を鳴らす。
ジョアン・フェヘイロを祈祷室まで導いてきた近衛兵が入って来て、ジョアンを連れて出ていった。




