マヌエル王
「黙って入港させて、大丈夫なんでしょうか」コチンに入港するアルブケルケの艦隊をやりすごしたとき、巡洋艦『妙高』の甲板長が艦長に言った。
「おとなしく交易をするだけならば、攻撃してはならないことになっている」
「でも、コチンの商館が襲われるかもしれません」
「見張りは二十四時間立てているし、いざとなったら、裏口に舫っている『船外機付き』で逃げてくるだろう。大丈夫だ」
「そうでしょうか」
アルブケルケの艦隊には、現地のインドの産物を購入する元手があったらしい。第二回、第三回の航海で運んだインド洋産品で、ヨーロッパ中の金銀を集めていたからだろう。
そして、商売をして、要塞建設の指図をして、技術者を残し、おとなしくヨーロッパに帰って行った。
一五〇三年九月、ガマが二回目のインド航海を終え、リスボンに帰着する。この時の報告はアルブケルケの航海に生かすことはできなかった。アルブケルケは同年三月に出発しているからだ。
にもかかわらず、アルブケルケはコチンの確保が最重要であると認識し、同地の要塞建設を申し出た。
この先見の明により、一五〇六年の第八回インド遠征に加わり、第二代のインド総督になる。
ポルトガルの艦隊は、だいたい春にリスボンを出港して、翌年の夏か秋に帰国する。この航海を律しているのは、インド洋の季節風である。
大西洋においては、北大西洋が時計回り、南大西洋が反時計回りの風が吹いていて、季節を問わず、ほぼ一定している。なので、アフリカ南端に行くだけならば、季節を問わず出発できる。
しかし、アラビア海においてはそうではない。アフリカからインドに行くことができる西風が吹くのは、六月から九月にかけての期間で、逆にインドからアフリカに行く東風は十月から一月の間だった。
なので、七月か八月あたりにアフリカ東海岸に達していなければならない。このため、リスボン出発が春になるのである。
そして、十二月か一月にインドを出発すれば、八月か九月頃にリスボンに帰ることができる。
まとめると、ポルトガルは毎年春に船団を出発させて、一年半の航海で帰国するという仕組みになる。
なので、前回の船団の教訓が生かせるのは、次の船団ではなく、翌翌年の船団ということになり、少々面倒である。
そこで、繰り返しになるが、歴史上のポルトガルによる遠征を整理しておこう。アラビア数字は、それぞれポルトガル発、インド着、インド発、ポルトガル着の年月である。
インド到着、リスボン帰着は艦隊が分散してしまう場合があるので、代表的な月を記した。
第1回 ガマ 1497.7 - 1498.5 - 1498.10 - 1499.8
第2回 カブラル 1500.3 – 1500.9 – 1501.1 – 1501.7
第3回 ノヴァ 1501.4 – 1501.8 – 1502.1 – 1502.9
第4回 ガマ 1502.2 – 1502.9 – 1502.12 1503.9
第5回 アルブケルケ 1503.3 – 1503.10 – 1504.2 – 1504.7 コチンに要塞
第6回 アルベルガリア 1504.4 – 1504.9 – 1505.1 – 1505.6
第7回 アルメイダ 1505.3 – 1505.9 – 1506.1 – 1506.5~12 初代インド総督
第8回 クーニャ 1506.4 - アルブケルケ同行、第二代インド総督。
1510.2 アルブケルケ、ゴア占領
1511.7 アルブケルケ、マラッカ占領
物語は第五回航海のあたりにいる。史実においては、ガマの最初のインド到着から、わずか十数年でこれらのことがなされたのである。
第四回目の航海を終えたガマは、以下のことを指摘している。
・マラバール海岸地方最強の王国、カレクトは脅迫を含む説得には応じない。
・カナノールとコチンはポルトガルに友好的で、交易にも応じる。
・カレクトはカナノール、コチンを攻撃し、ポルトガルのインド大陸での足場を奪うであろう。
・カナノール、コチンを軍事的に支援するために同地にポルトガルの常設駐屯地が必要。
などである。
一五〇四年の第六回インド航海は、これらを前提に組み立てられた。もちろん、ガマの帰還から半年の猶予しかなかったので、完全ではない。ガマの意見が充分に反映されるのは第七回のアルメイダの航海からである。
それでも、第六回はナオ級九隻、カラベル四隻、乗組員千二百人の規模だった。この艦隊の目的は、カナノールとコチンのポルトガル商館防衛だったため、戦闘兵を多く乗せた。
この時、ポルトガル商館が『比叡』によって廃墟となっている。そのことをポルトガルはまだ知らない。アルブケルケが帰って来ていないからだ。
片田商店側は、無線で知っていた。
一五〇四年四月にアルベルガリアが出発して、五カ月。九月十六日にアルブケルケの艦隊が帰って来た。彼の帰路は惨憺たるものだった。
彼が率いて来た六隻に、コチンに残されていた三隻を加えてインドを出発したのだが、アラビア海で早くも艦隊が散り散りになり、アルブケルケの旗艦ともう一隻の二隻だけになってしまう。
なんとか喜望峰を越えたが、そのあと南大西洋の赤道無風帯に入ってしまった。水と食料が欠乏し、ほとんどの乗組員が死んでしまう。二隻とも生存者が十名以下になってしまったといわれている。
それでも、ギニア行のポルトガル船に遭遇し、カーボベルデまで護送してもらった。
ここで物資と乗組員を補充し、なんとかポルトガルに帰り着いた。
インド洋で別れてしまった他の船で、後にポルトガルまでたどり着いたのは、一隻だけだった。
アルブケルケがポルトガルのマヌエル王に報告する。
「で、カタダという国の軍艦三隻によって、アラビア海に残しておいたポルトガル軍艦四隻が拿捕されたというのだな」マヌエル王が尋ねる。
「はい、艦は拿捕され、乗組員はコチンの王によって保護されていました」
「どのようにやられたのか、聞いておるか。アラビア海閉塞艦隊の生存者はいないのだからな」彼らを乗せた、舵を修理した三隻は、いずれもアラビア海で行方不明になっていた。
「カタダの船は、帆を張らなくとも、どの方向にも自由に航走できるのだそうです」
「帆が無くとも、と言ったか。で、風上にも走れるのか」
「はい、そのように言っていました」
「で、そのような船に、どうやってやられた」
「水上を高速で走って来る小舟に爆発物が載せてあり、それが舵に命中して航行できなくなったそうです」
「小舟か」
「はい、逃げようとして旋回しても、後を追ってくるそうです。悪魔の仕業です」無線操縦のことであろう。
「で、その小舟は、何艘走って来たのか」
「それが、四艘だけだそうです」
「たった四艘の小舟に、四隻の軍艦がやられたというのか」
「そのようです。それも、あっという間のことだったそうです」
「あっというま、か」
「ほかにもあります。彼らの軍船は、船腹に片舷で三十門程の大砲を備えて、一斉に発射できるそうです」
「船腹に大砲だと、船が沈まないのか」
「それは、わかりません。その、たった一回の一斉射撃で、わが方のカラベルの三分の一が吹き飛んだそうです」
「スペインに送った密偵が、そのようなことを言っていたな。コロンブスが、それにやられたという。同じカタダ国の船かもしれん」
マヌエル王が考え込んだ。彼は今、アルベルガリアを指揮官とした十三隻の艦隊をインドに送っている。彼らはカタダ国の軍艦に勝てるであろうか。それがわかるのは一年後になるはずだった。
しかし、マヌエル王は、それよりも早く、アルベルガリア艦隊の消息を知ることになる。




