ヴェネツィアの密使
戦艦『比叡』から陸戦隊(海兵隊)が上陸する。現在の、フォート・コチの岸のところだ。
石出の藤次郎が新米少尉として、陸戦隊の三個分隊を率いている。まったくの新米なので、まだ小隊を率いているというよりは、『比叡』との連絡係のようなものだ。実際に小隊を統率しているのはベテランの小隊軍曹、散田の護丸だった。
コチンの片田商店から通訳が参加している。
「小隊停止」護丸が命令する。商館手前の道路の所だ。商館の門からポルトガル商館員が次々と出てくる。
ポルトガル商館のリーダーと思われる男が藤次郎達に話しかけてくる。
ポルトガル語から、アラビア語、コチン現地のタミル語を経由して日本語に翻訳された。
「小隊長、お願いします」小隊軍曹の護丸が促す。
「お前が商館の責任者か、降伏するか」護丸が尋ねる。
「ああ、降伏する。武器は持っていないだろ」
「名前を言え」
「ディオゴ・フェルナンデス・コレイアだ。ところで、なんでこんなことをする」
「ポルトガル人がカレクトを砲撃したからだ」
「それが、お前達に何の関係がある。見たところ、このあたりの人間ではなさそうだが」
「我々もインド洋で交易をしている。荒らされるわけにはいかない」
「なるほど」
「ところで、これで全員か」
「さて」そういって、ディオゴが振り返り、背後を見る。ポルトガル人達が集まって来ていた。何人かがケガを負っている。重症者も数名いた。しかし、人数はそろっている。死者はいないようだった。
「そうだな、全員、いや、イタリア人が二人いない。今回の航海で来た宝石細工職人達だ。たしかジョアン・マリアとペロ・アントニオとか言ったな」
「その二人を除いた全員が集まっているのか」
「ああ、いないのは、その二人だけだ。瓦礫に埋まっちまったかな。探してくるか」
「いや、それは我々の方で行うのでいい」
この二人のイタリア人は、瓦礫で圧死したのではなく、騒動に乗じて逃げ出しただけだった。
彼らは宝石細工職人などではない。実際のところは大砲鋳造の技術者だった。カレクト王国にポルトガル艦を撃退し得る沿岸砲の技術を伝えるために、身分を隠してはるばるヴァスコの航海に参加していた。
ヴェネツィア側も必死だった。そして、これは恐らく実話だ。彼らの名前まで残されている。
「今回の航海で、ポルトガルはアラビア湾に常駐する艦隊を送ってきていると聞いているが、ポルトガル艦隊はどこへ行った」藤次郎が尋ねる。
「それだ。いまいましい、ビセンテとブラスのソドラ兄弟のやつら、コチンとカナノールの商館の防衛を放棄して、イスラム商船を狩りにいっちまったんだ。そのおかげで、こんなありさまだ」
「と、いうことは、艦隊の行先を知らないというのだな」藤次郎が困惑する。
「そうだ」
「心当たりはないか」護丸が藤次郎を助ける。
「そうだな、このあたりで一番豊かなのは、紅海入口のアデンだと聞いている。よく俺達の間で噂になっていた。おおかた、アデンあたりにでも行ったんじゃないか」
「そうか、噂になっていたのか」
「俺達はどうなる」ディオゴが尋ねる。小隊軍曹の護丸が、藤次郎の方を見る。
「殺しはしない、それは安心しろ。しばらくの間、少し不自由になるかもしれないが、母国にも帰れるだろう」藤次郎が答える。これは、彼の役目だった。
降伏したポルトガル商館員達は、捕虜として『比叡』に連れていかれた。ポルトガル商館が無くなったことで、カレクトがコチンを攻撃する理由もなくなった。
『比叡』がカレクト艦隊の旗艦に寄せた。カレクト艦隊の指揮官が『比叡』を訪問したいといってくる。ポルトガル商館攻撃前とは違っていた。
乗艦してきた指揮官が、すばらしい艦だ、と『比叡』をしきりに褒める。この艦であれば、ポルトガルの艦隊に勝てるだろう。ぜひ、再度カレクトを訪問してほしい。そう言った。
金口三郎は『妙高』をアデンに、『那智』をグジャラード地方のディーブに派遣する。どちらも当時のアラビア海で繁栄している港だった。『比叡』はマラバール海岸防衛のために、コチン、カレクト、カナノールの間を遊弋する。
当時の船は帆船だ。貿易風を利用するしかない。西に行くための貿易風の季節は十月下旬から翌年三月末までだ。もし、ポルトガル艦隊がこの風を使って紅海の方に行ったのであれば、東に向かう貿易風が吹き始める五月下旬まで、マラバール海岸周辺に来ることは出来ない。
しかし、彼らが紅海方面に向かったのかどうか、それはわからなかった。
十日程が過ぎた。片田商店の艦船は蒸気タービン船だったので季節風に航海を制限されることはない。アデン港に向かった『妙高』から無線が来る。アデン沖で、海賊事件が多発していた、との知らせだった。
海賊艦隊は白地に赤十字の帆を持った、三本マストの、現地の人々が見たことの無い形の船だったという。まず、間違いなくポルトガル艦隊だろう。やはりアデンに行っていたのだ。
被害に遭った船の中にはカナノール船籍やコチン船籍の船もあった。彼らはポルトガルが発行した通行証を持っていたが、おかまいなしだった。
四月になった。ポルトガル艦隊はどこにいるのか。金口の三郎が考える。四月から五月のアラビア海は風向きが安定しない。嵐がおきることもある。航海には危険な時期だった。
しかし、五月下旬になれば、風は安定した西風になる。その時に、ポルトガル艦隊はマラバール海岸沖に居たいはずだ。なぜなら、アフリカ東海岸、紅海、アデン、ホルムズ、から、その時期に一斉にダウ船がマラバール海岸に来るからだ。
『比叡』のポルトガル人捕虜が言うには、彼らはアフリカのキルワ、マリンディを経てまっすぐにマラバールに来たという。そして、艦隊の主要な幹部は指揮官のビセンテ・ソドレと、その弟のブラス・ソドレ、それにペロ・デ・アタイデの三人だ。この三人が大型のナオ級の艦長をしている。
ビセンテとブラスは今回がはじめてのインド航海で、ペロはカブラルの航海に参加しているので二度目だ。
しかし、三人とも、アラビア半島南岸やホルムズの知識はない、とのことだった。
オルダニー島の片田や安宅丸と相談した金口三郎は、このあたりの沿岸を捜索することにした。
彼らも船乗りだ。未知の海岸線を探索したいに違いない、安宅丸はそう指摘した。
四月の下旬になった。彼らの想像は当たっていた。ポルトガル艦隊は現在のオマーン沖のクリアムリア諸島付近にいた。
六隻は諸島最大の島アルハラニヤ島の北岸にいた。嵐の季節だったので、島民が彼らに、島の南岸側に避難するようと勧めた。
ペロのナオと、より小型のカラベル三隻は島民の勧めに従ったが、ソドレ兄弟の二隻のナオは従わず、北側に停泊しつづけた。
なぜ島民の提案に従わなかったのか、よくわかっていない。
そして、四月三十日、大きな嵐が来てソドレ兄弟の二艦が難破する。兄のビセンテ・ソドレは嵐の中で命を落とす。弟のブラスは、嵐を生き延びたが、その後亡くなっている。
ブラスの死亡については、生き残ったペロ・デ・アタイデは言葉を濁した。なので、正確なことは記録に残っていない。
二人の座乗していたサン・ラファエル号とベラ・クルス号はアルハラニヤ島付近で、イスラム教徒から奪った財宝とともに沈んだ。
このうち兄のビセンテが乗っていたサン・ラファエル号は一九八八年にブルー・ウォーター・リカバリ社のディヴィッド・ミーンズによって発見されている(同社はこの船の名前をエスメラルダ号としている)
ともかくも、ソドレ兄弟が死亡してしまったので、ペロ・デ・アタイデが艦隊の指揮官になり、艦隊はマラバール海岸に戻ることにする。
本来の任務に復帰しよう、ということだ。




