レオナルド・ダ・ヴィンチ
翌朝、イザベラ・デステがレオナルド・ダ・ヴィンチを呼ぶ。彼がイザベラの書斎に入ると、イザベラと、もう一人男がいた。
「おはようございます。侯爵夫人」レオナルドが朝の挨拶をする。
「おはよう、レオナルド。こちらはロバート・ドゥ・ラ・ポールさんです」イザベラがそう言って男を紹介する。
「ロバート、とおっしゃると、イングランドのお方ですか」
「はい、そうです。普段はローマに駐在しているのですが、時々、マントヴァ侯爵夫人のお招きをいただきます」
二人の挨拶が終わると、イザベラが尋ねる。
「素描の複製は、出来ましたか」
「はい、こちらに」レオナルドがイザベラに複製を差し出す。
「もう一つは、私の部屋のチェストに納めてございますので、出来るようになったら、いつでも肖像画にとりかかれます」レオナルドがやる気になっている。
イザベラが嬉しそうに素描をながめ、笑う。
「どうです、ロバート」そう言って得意そうに見せた。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ殿のお描きになったもの、ということであれば、素描でもたいしたものでございます」ロバートがそれに答える。
「そうでしょ。いつかこの素描から肖像画を作っていただきたいものと思っています」
「それは、よろしいでしょう」
「でね、肖像画を作る条件に、空を飛ぶ機械を見せることにしたのよ。ね。」
「はぁ」そういって、ロバートが苦笑いする。
レオナルドは目を輝かせた。
「いつですか」
「もうすぐですよ。城の外に出かけましょう」
三人が馬車に乗り、サン・ジョルジョ城の城門をくぐる。馬車は城を廻るインフェリオーレ湖沿いの道をのどかに走った。
南下して湖から流れ出る川のほとりに出て馬車を降りる。そして待った。
マントヴァはヴェネツィアから西に百五十キロメートル程離れた、イタリアの内陸部にある侯国だった。
ヴェネツィア沖の巡洋艦から飛び立った銀丸がポー川に沿って西に飛行する。
操縦席の三十分砂時計が半分ほど落ちている。すでに一回返しているから、飛行開始から四十五分程経ったことになる。
高度五百メートルで時速二百キロメートルの速度で飛んでいる。
“そろそろ、眼下の川が南を向くはずだ。そこから北に旋回すると、正面に湖が見える。その南岸に着水することになっている”銀丸が、そう思った。
正面を流れるポー川が左に曲がっているところが見えた。曲がり角に大きな丸い島がある。“あれだな”。そう思って右を見る。確かに湖が見えた。
飛行艇を右に旋回させ、エンジン回転数を下げて降下を始める。
湖の南西端あたりの桟橋脇に馬車が見えた。馬車の脇に三人が立っていて、大柄な男が手を振っている。
“あれがロバートさんかな”銀丸が思った。接近して、通り過ぎざまに確認する。確かにロバートさんだ。
機首を北東に向け、旋回しながら戻り、着水して桟橋につけた。
「おはようございます、ロバートさん」銀丸が下手な英語で言った。
「おはよう。ギンマル」
「遊覧飛行をするのは、若い女性が一名、と聞いていましたが」
「すまない、一人増えた。大丈夫かな」
「予備のガソリン缶を積んできましたから、一人ぐらいなら大丈夫です」
「それはよかった、こちらがマントヴァ侯爵夫人で、もう一人はレオナルド・ダ・ヴィンチさんという」
「はじめまして、侯爵夫人様」銀丸が英語で言い、ロバートがラテン語で通訳する。
「はじめまして、イザベラ・デステといいます。イザベラでいいわよ」破格な申し出だった。彼女も空に憑りつかれているらしい。
「わしはレオナルドじゃ」改めて自己紹介したのは、白いひげを顔より長く伸ばした初老の男だった。体つきはがっしりしている。
そして、自己紹介しながら、注意深い目で飛行艇を隅々まで観察する。
「一人ずつしか、乗れません。どちらが先に乗られますか」銀丸が前席からガソリン缶を下ろして、桟橋に置いた。
「侯爵夫人様からどうぞ」
「あら、ありがとう。レオナルド」
イザベラがスカートを纏めて、前席に乗り込んだ。
「では、湖を一周します。それでいいですか」
「おねがいします」
飛行艇がエンジン回転数を上げ、離陸していった。
「おおっ。本当に飛び立った」レオナルドが歓声を上げる。飛行艇はたちまち小さくなり、左旋回しながら上昇していった。
「なんということだ。本当に人間が飛べるではないか。しかし翼は羽ばたいていないな。翼の上の回転する物の力で飛んでいるようだ。どうなっている」
「さあ、帰ってきたら尋ねてみたらいかがでしょう」ロバートが言った。
「彼はラテン語がわかるのか」
「いえ、私が通訳するしかないでしょう」
「あの若者の国では、空を飛ぶ機械があたりまえなのか」
「さあ、どうでしょう」
「彼が降ろした、この缶はなんだ。なにか液体が入っている」
「知りません」
「どうやって、知り合った」
「あるとき、彼等がイングランドに来たのです。それ以来、わが国は彼等とアジアの胡椒などを取引しています」
「何故、侯爵夫人が、空飛ぶ機械の事を知ったのだ」
「ああ、それですか。人文主義者の会合で話が出たのです。彼等、『片田商店』というのですが、人文主義者と関係を深めようとしています。彼らの考え方と人文主義者の考え方の相性がいいのです」
「人文主義者、か」




