カレクト王国
シンガ達がフィレンツェでサヴォナローラを救出している頃、ヴァスコ・ダ・ガマはアラビア海でインドに向けて航海していた。
一四九八年四月二十二日にアフリカ東海岸のマリンディを出発し、ほとんど陸地を見ることなく、五月十七日にインド亜大陸西岸にたどり着く。二十六日の連続航海だった。
彼等の雇ったインド人の水先案内人は優秀だった。
地名の表記には揺れがある。特に昨今は、なるべく現地の人々が呼ぶ名称で記述するようになってきた。キエフをキーウと呼び変えるようなものだ。
彼らがたどり着いたのは、当時の呼び方(hist)ではカレクト、現在の名前は現地語(ind,wiki)でコーリコード、グーグル・マップ(gm)ではコジコード、英語(eng)ではカリカットである。
日本ではカリカットと覚えている人も多いだろう。この物語では当時の呼び方でカレクトと呼ぶことにする。
同様に、カレクトより南にあり、最初のポルトガル植民地となるコチン(hist)も、コーチ(wiki)、コチ(gm)、コーチンなどと呼ばれる。日本人はコーチンと呼んでいたと思う。
片田商店はコチンに支店があった。以前コーチと書いたことがあるが、以後は歴史的名称のコチンとする。
ヴァスコ達は、沿岸を南下し、付近の重要なランドマーク、『デリ山』(エスヒマラ山(gm))を望見し、位置を特定した。
さらに南下し、カレクトよりわずかに北のカプア港に接近して、水先案内人とポルトガル人囚人を上陸させた。
この囚人は本国の牢獄から連れてきた者で、偵察などの危険な任務を行わせる。
二人がカリカットに到着すると、モンサイデというチュニス出身の港湾官吏が面接を行った。チュニスとはアフリカ北岸の都市で、貝紫を採取するユダヤ人達が住むジェルバ島の近くだ。
西方から来たのなら、西方出身の官吏が担当するのがよいだろう、ということかもしれない。
モンサイデは地中海岸出身なので、ヴェネツィアやジェノバという貿易都市も、フランス、カスティーリヤ、アラゴン、ポルトガルという国のことも知っている。それぞれの力関係もだ。
モンサイデからすると、もっともインドに到着しそうもないポルトガル人が来たという事が驚きだった。
彼が二人をもてなし、艦隊に返す。その時、モンサイデ自身も同行してヴァスコ・ダ・ガマに面会した。
モンサイデがサン・ガブリエル号の上甲板でヴァスコにスペイン語で、こう話した。
「君たちは幸運な冒険をした。ここには、ルビーも、エメラルドも、山ほどある。豊かな土地に導いてくれた神に感謝しなければならない」
スペイン語話者が丁寧に簡単な言葉で話せば、ポルトガル人は理解できるという。両者の文法も単語も似ているうえに、スペイン語の発音がはっきりとして聞き取りやすいのだそうだ。
しかし、その逆は難しいらしい。ポルトガル語の発音が濁っていて、スペイン語話者には聞き取りにくいのだそうだ。
ヴァスコが、感極まってモンサイデに尋ねる
「君は、キリスト教徒なのか」
しかし、モンサイデの答えは期待外れだった。
「いや、私は北アフリカのチュニス出身のイスラム教徒だ。しかし私は祖国にいる時、ポルトガルの商人や船乗りと仕事したことがある。みな、いいやつだった」
モンサイデがポルトガル人に語った。
カレクトは正直公正な港として栄えている。港には高価な商品が溢れるほどにある。商人は到着したら船をカレクトの港に入れて、すぐに商品を倉庫にすべて預ける。港の役人は船が持ってきた交易品を倉庫できちんと管理する。商品が売れれば、売上金額から一定の手数料を支払う。売れなければ手数料は取らない。購入したい品があれば自由に購入してよい。そして出航する際には港の使用料を払って出航すればいい。それだけだ。
なので、イスラムの大商人がたくさんこの港にやってきて商売をしている。
ヴァスコ達にとっては、「イスラムの大商人がたくさん」というところが、ちょっとがっかりだった。
モンサイデの話に勇気づけられ、五月二十二日にヴァスコが艦隊をカレクトの沖に移動させた。
ヴァスコがモンサイデを介して、カレクト国王に使者を派遣した。選ばれたのは水先案内人と通訳のフェルナン・マルティンスの二人だ。
「ポルトガル国王が貴国と友好関係を築きたく、使節をおくりました。国王のお許しがあれば、訪問させていただきたい」
カレクト国王が快諾した。
「しかし、カレクトの町には、多数のイスラム教徒がいるのだろう、上陸して大丈夫なのか、捕虜にされてしまうのではないか」ヴァスコの兄のパウロ・ダ・ガマが心配する。
「彼らは商人だ。そんな手荒なことはしないだろう」ヴァスコが言う。
「しかし、心配だ」
「国王の命は、カレクト王国までの道を開き、これと誼を通じることだ。そして、国王は私にそれを命じられた。私自身がいかなくて、どうする」
五月二十八日、ヴァスコはカレクトから四キロメートル程の沖に艦隊を置いて、投錨する。
そして十三名の部下を連れて、大型の艦載艇に乗ってカレクトに上陸する。
上陸したヴァスコは大歓迎をうけた、とされている。数千人もの市民が集まってきたらしい。ヴァスコに同行した記録者はこう書いている。
「道は私たちを見ようと待ち構える無数の群衆で溢れかえっていた。女たちもまた、家から子供を抱きかかえて出て来て、私たちの後を追ってきた……」
そして、その女達は首にたくさんの金と宝石を身につけ、腕には数えきれない腕輪、足には宝石を埋め込んだ飾りをはめていた。
ヴァスコ達は寺院と思われるところに連れていかれる。これはタリ寺院というヒンドゥー教徒の寺院だったと考えられているが、ヴァスコ達はキリスト教の寺院だと思った。
なぜならば周囲の壁には豊かな色彩の肖像画が描かれていたからだ。イスラムの寺院には聖人の肖像画はない。
香が焚かれ、聖職者らしき人物現れ、ヴァスコ達に聖水を授けた。
寺院から出ると、次は王宮だった。沿道は、あいかわらず足の踏み場もない程に人で溢れている。
なぜ、ヴァスコ達がこれほど歓迎されるのか。
ある歴史学者は、明の南海遠征の記憶によるのではないか、と推測する。明の遠征は明の繁栄を誇示することが目的だったため、気前が良かったはずだ。
そのような気前の良い外国人が、またあらわれたのではないか、そう思って大歓迎したのだろう、と。
ヴァスコ達が王宮にたどり着き、カレクト王と面会した。国王は寝椅子に横になったまま尋ねた。
「何が望みなのか」
ヨーロッパのキリスト教徒達は、古代ローマ時代以来、胡椒や絹、中国の陶磁器、香料などを求めてきた。そして、それらの代価としてアフリカの金、ドイツの銀を地中海の対岸に渡してきた。その金銀が、まわりまわって、このようなところに集められたのだろう。
そう思えるほど眩いばかりの宮廷だった。
認めたくはなかったが、リスボンの王宮がみすぼらしく思える程の繁栄ぶりだった。
内心を抑え、ヴァスコが用意した長口上を述べる。
「自分は多くの国々を所有し、周辺のいかなる国王よりも裕福なポルトガル王の使節であります」ハナから誇張だった。
「わが国王は六十年来、このあたりにキリスト教の王が住んでいると伝え聞き、このあたりに船を派遣してまいりました」
「なるほど」
「金銀を求めるために派遣したのではありません。そうしたものはわが国には豊富にあり、貴国でそれを手に入れる必要はありません。ただキリスト教の国王を発見するために努力してきたのであります。何人もの司令官が捜索し、そして虚しく失敗して帰国しました」
「それは、ご苦労な事だったな」
「しかし、このたび、それら度重なる苦労が報われ、私がやっとたどり着きました。わが国王から書簡を託されております。明日には、それをお届けいたしましょう。わが国王は陛下に対し、自分は陛下の友であり、兄弟であると伝えて欲しいと申しております」
「自分は心から貴殿を歓迎する。貴殿は友であり、兄弟である。貴殿に同行させてポルトガル、というのか、その国に使節を派遣しよう」
ヴァスコ・ダ・ガマ最高の栄誉の瞬間だった。インド航路を発見しただけではなく、同地のカレクト王国と国交を樹立したのだ。
しかし、この栄光は、翌日には無残なものになる。




