火の試練
正規の手続きを踏んではいないが、教皇の破門状はフィレンツェの五つの教会に届いている。
一方で、ローマはその後数か月、表向きまったく動かなかった。
八月に枢機卿の一人がフィレンツェ政府に向けて秘密裡に打診した。
「逃亡したビエロ・メディチから没収した財産を使って、破門の撤回を願い出たらいいのではないか」
事態を解決したいフィレンツェ市がその気になる。しかし、サヴォナローラがそれを断った。
「私の破門のことですが、撤回状をカネで買おうとすることのほうが、なおさら破門に値する行為だと思います」
撤回状の代金は五千ドゥカートであったという。
そして、年が明けて一四九八年の二月。また四旬節のはじまりの季節になった。
教皇がフィレンツェに通達を送った。
「フィレンツェが同盟に加わらなければ、破門撤回の問題を話すことはできない」
「純粋な信仰の問題に、世俗政治を介入させてはならない」とサヴォナローラがフィレンツェ政府に答える。そして、これに反発した。二月二十一日、破門状を受けて以来自粛していた説教を再開したのだ。その説教のなかで教皇について、このように言った。
「もし猊下(教皇のこと)が『わたしには権力がある』と言われたら、答えるが良い。『それは嘘だ、あなたにはもう案内人(神)がいないのだから、屑鉄のようなものだ』と」
この説教の内容はすぐにローマに伝えられ、教皇がフィレンツェ大使を呼び出し、厳重な抗議をした。
この抗議は猛烈なものであったらしい。サヴォナローラの一回目の説教には多数が集まっていたが、抗議後には説教の聴衆は少なくなった。
二月二十五日。
教皇アレクサンデル六世がフィレンツェ大使を呼び出し、最後通牒を突き付ける。
「あの坊主を黙らせろ、さもなくばフィレンツェ全市を聖務停止にする」
ちょうどヴァスコ・ダ・ガマ達がモザンビークに向けて出発した頃のことである。
二月二十七日、フィレンツェでは昨年と同様のカーニバルが行われた。行列が街中を練り歩き政庁前広間に置かれたピラミッドに火がともされる。
前回の摘発をまぬがれた、悪魔と呼ばれる物が燃やされる。
昨年と違い、広場の周囲で反対派がしきりに祭りを妨害しようと試みていた。
三月九日、教皇はその矛先を変えた。
「私が彼の活動を非難したことはない。彼はキリスト教会に忠実に活動している。しかし、彼は破門に従わない、無効である、無罪放免を願うくらいなら神に祈って地獄へ送ってもらうと言っている。私が非難するのは、その点だ」
三月十四日、教書を受けたフィレンツェが各区より二十五名の代表を出して審議会を開いた。その時の議事録が残っているらしい。
「これは、フィレンツェをフランスとの同盟から引き抜こうという策謀だ」
「サヴォナローラを教皇の元に送ろう。さもないと聖務停止命令がでて、経済が破綻するだろう」
「教会への課税、ピサの返還、サヴォナローラの無罪放免、我々は教皇に要求ばかりしている。それなのに、教皇に歯向かっていいのか」
「聖務停止になれば商売に関わる。説教が聞けなくとも、それほど不都合はない」
「外国に言われて、我らの師を断罪するなど、とんでもないことだ」
等々、いろいろな意見が出た。サヴォナローラに好意的な発言は八件、反対は十七件で、結論が出なかった。
三月十七日に、こんどは十九名が出席して再度審議会がおこなわれる。今度は結論が出た。
「サヴォナローラの説教を禁止し、教皇のその他の要求については無視する」
というのが、彼等の出した結論だった。
同じころローマでも教皇が今後の方針を示した。
期限つきでサヴォナローラの引き渡しを要求する。守らなければフィレンツェの聖務を停止する。加えてローマ在住のすべてのフィレンツェ商人を逮捕して財産を没収する。
これを聞いたローマ在住のフィレンツェ大使は、事情をフィレンツェに送るとともに大使辞任を願い出た。
フィレンツェ政府内部で、反サヴォナローラ派に転ずるものが出てきた。
三月二十五日。
反サヴォナローラ派のフランチェスコ・ディ・プリアという説教師が、その説教中このようなことを言った。
「サヴォナローラの考えが正しいと思うものは、誰でもいいから、私と一緒に『火の試練』を受けようではないか」
『火の試練』とは『火渡り』とも言う。燃やした薪の上をはだしで歩く。不正な者は焼け死ぬが、正しい者は無事に火をくぐりぬけると信じられていた。
サヴォナローラ本人は相手にしなかったが、サン・マルコ修道院のドメニコ・ダ・ペーシャという修道士が受けて立った。
『火の試練』は四月七日に行われることが決まった。反サヴォナローラ派はドメニコが焼死することを期待し、サヴォナローラ派は、彼による奇跡を望んだ。
広場には長さ三十メートルの炎の回廊が設けられていた。サヴォナローラを先頭に彼を支持する者達が二百五十人、合唱しながら広場に入って来る。
ところが、相手のディ・プリアが現れない。
彼は政庁内で役人相手にごねていた。やれドメニコの緋色のマントには魔法がかけられている、ドメニコが持つ木の十字架に仕掛けがある、等々であった。
ディ・プリアは見事に、まる一日ごね続け、日が暮れてしまう。フィレンツェ市民は期待し、退屈し、空腹でもあり、そして怒った。
反サヴォナローラの尖兵である『憤怒派』達は、その夜暗躍した。
翌日は日曜日だった。サン・マルコ修道院の修道士が大聖堂で説教する予定になっていた。その修道士が説教壇に立つと憤怒派が妨害を始める。
修道士は投石を避けながら、北の修道院目指して逃げていった。それを追うように、暴徒がサン・マルコ広場に集まり、修道院に投石を始める。
修道院からも、屋根瓦の破片が広場に集まる暴徒に向かって投げ降ろされた。
「坊主たちめ、とんでもない連中だ」そう言いながら、屋根に向かって石を投げ返す。
「おい、いまフィレンツェ政庁がサン・マルコの攻撃を布告したそうだぞ」これは、デマである。
「本当かよ、おい。それなら用意した大砲を持ち出せ」ゴロゴロと音をたてて投石砲が広場に持ち出される。
「撃つぞ」轟音が響く。修道院の壁に穴が開く。轟音と壁が崩れる音が収まると修道院の鐘が鋭く連打される音が響く。これは政庁に救助を求めている鐘だ。
広場に火薬の臭いが充満した。
ここまでの混乱になってしまうと。政庁は黙っているわけにはいかない。急いでサヴォナローラの拘束状を作成して、政務官にサン・マルコ広場まで持っていかせた。
広場で官吏が拘束状を読み上げ、修道院側に渡す。
「見ていなさい、わたしが死んでも、主の御業の進行には、なんの支障もないでしょう」ジロラモ・サヴォナローラは修道士達にそう言い置いて、官吏に曳かれていった。
この拘束が、治安紊乱の首謀者としての拘束なのか、それともサヴォナローラ保護を目的としたものか、この時はまだ政庁内でも意見が一致していなかった。
ヴァスコ・ダ・ガマはモンバサで風を待っていた。




