大航海 (だい こうかい)
クニヨン港を出発した『金剛』達は、次にシンガプラに向かう。シンガプラは、ジョホール水道でマレー半島と切り離された島だ。
付近の海賊を退治した褒賞として、マラッカ王国から片田商店が租借している。
シンガプラは、ほぼ平坦な島だったが、中央南部にブキティマという丘陵がある。そこから土砂を運び出して、島の周囲の湿地を埋め立て、畑にしている。バナナ、ゴム、サトウキビ、コショウなどが植えられていた。
住民のほとんどは日本人だ。なので、十隻の輸送船が日本の米、味噌、醤油、酒などを運んでくると、みな喜んだ。
「『えのき』、これが無線で言った調味料だ」そう言って片田が赤いラベルを張った瓶を『えのき』に渡す。『えのき』が透明な瓶の中を見る。
「なんか、食材というより、実験の試薬みたいね。これ、食べられるの」
「ああ、食べられる。ただ、味が強いので、始めは少しずつ試した方がいいだろう」
「わかったわ、やってみる。ありがとう」
米などを降ろした後には、東南アジア産の香辛料を舶載する。クローブ、ナツメグ、メース、シナモンなどだ。
シンガプラは石炭の集積場になっていたので、石炭も積んだ。
出航した翌日、『えのき』から無線が入る。蒸したバナナに化学調味料と醤油をかけたら、美味しかったそうだ。どんな味がするんだろう、と片田が思う。
次いで、マラッカ、パサイ、アチェを訪ねた。ここから先はインド洋のベンガル湾だ。まっすぐに西に向かい、インド亜大陸西岸のコーチ(現在のコチ)に入港する。
このあたりはマラバール地方といって、コショウの大産地だった。アラブ人、中国人、東南アジア人の商人が集まる。ユダヤ人の集落すらあった。現代でも JEW TOWN と呼ばれる通りや、シナゴーグが残っている。
二十世紀中ごろにイスラエルが建国してからは、ほとんどのユダヤ人はイスラエルに去ったという。シナゴーグは運営されているそうだが、礼拝をはすでにおこなわれていないという。
現地の人々が言うには、中国人の活動範囲は、このコーチまでだそうだ。ここまでなら、一年で中国に帰れるが、これより先に行くと二年以上海の上で過ごすことになる。
なので、ここで商品を積んで帰るのが、効率がよいという。
同様に、アラブ商人もコーチより東にはあまりいかないらしい。理由は中国人と同じだ。
と、いうことで、コーチや、その北のカリカット(現在のコジコード)、ゴアの港が栄えることになる。
これらの港は、のちにヴァスコ・ダ・ガマが登場したときに、再度物語の舞台になる。
ペルシャ湾やアデン湾の港も訪ねてみたいところだが、ここからはまっすぐケープタウンの石炭集積場を目指すことになる。アフリカ南端の喜望峰付近は、船の難所だった。
喜望峰の南には『吠える四十度線』と呼ばれる偏西風帯がある。しかも、このあたりでは風は頻繁に向きを変える。また南アフリカ東岸を南下するモザンビーク海流と、大西洋側から北上するベンゲラ海流が衝突し渦や、『うねり』が発生し、視界が悪くなることもある。
ヴァスコ・ダ・ガマの第一回航海では、南アフリカ西海岸、喜望峰のすぐ北にあるセント・ヘレナ湾から岬を回り、東海岸のディアスの到達点の湾にたどりつくまで、二十一日を要している。この間は千キロメートルほどであるから、時速四キロ、歩くほどの速度で進んだということだ。
一方で、彼の帰路では、八日で岬を通過している。まるで、運任せである。
いくら帆船ではない、といっても喜望峰を回るには危険が伴った。なので、慎重に進まなければならない。
無事、ケープタウンの集積所にたどり着く。さっそく堺に無線で到着を知らせようとしたが、ここまでくると昼間は電波が届かないことが多かった。
ケープタウンの石炭集積所は、地元の住民に定期的に商品を渡すことにより借地していた。縫い針、釣針、糸、布、ナイフ、鉈などが喜ばれた。
十人程の駐在員が住む住居兼事務所があり、高い無線アンテナが立っている。その脇に露天積みされた石炭の山が出来ていた。
これらの石炭はイングランドからカーボベルデ経由で、はるばると運ばれていた。喜望峰周辺が難所であったため、この集積所は、航海者から喜ばれた。
インド洋から喜望峰を経て、大西洋に出ると、景色はがらりと変わる。インド洋では海はあくまでも青く、透明度が高かった。十メートルから、ところによっては三十メートルもの深さでも海底がみえることがあった。そして、右手に見える陸地には緑が豊富だった。
ところが喜望峰を回ると海の色は灰色がかった青に変わり、透明度が低下し、海水は濁っている。そして右手に見える陸地は砂漠だった。
この砂漠は沿岸を流れる寒流の影響によるものだ。
気の滅入るような砂漠は南緯十度くらいまで延々と続く。そして、いつのまにか熱帯雨林に代わってしまう。
『金剛』達は、その後プリンシペ島、カーボベルデ島と辿り、イングランドのオルダニー島に到着した。三十五日間、平均時速十四ノット、およそ二万キロメートルの旅だった。




