フィレンツェ 2
フィレンツェは古代ローマの植民市が起源で、現在のレプッブリカ広場はフォーラムだったという。同広場を見下ろすアーチにそのことを称える碑文が刻まれている。劇場や闘技場なども置かれていたらしい。
植民市が置かれたのは紀元前五九年、カエサルによるとされている。退役軍人への土地貸与として植民市が建設されたのだそうだ。
現代の衛星写真でも当初の整然とした街路が見て取れる。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を北東隅、サンタ・トリニタ広場を南西隅とした長方形の領域がそれだ。
他にも、例えば、シニョーリア広場から東に二百メートル程行ったところに、トルタ通り、デ・ベンタッコルディ通り、ペルッツィ広場に囲まれた楕円形の地域がある。
ここは、古代のローマ闘技場の跡だといわれている。
古代西ローマ帝国の滅亡によりフィレンツェは一度衰退する。しかし時代と共によみがえり、やがて十一世紀までには植民市はアルノ川岸まで拡がり、その場所にシニョーリア広場が作られた。
城壁で囲まれたフィレンツェ市は、その後拡大を続けた。
現在アルノ川より北側は城壁が取り除かれ、道路になっているが、川より南側は城壁が良く残っている。
シンガ達が訪問したときには城壁に囲まれていた。
その場所は、北の『自由広場』から右回りに広い道路を進み、ゼッカ塔のところでアルノ川に出る。塔は城壁のところどころに置かれていた、そのなごりだ。
ゼッカ塔の対岸には『サン・ニッコロ門』がある、その近くから城壁が残っていて、山頂のベッルヴェデーレ要塞につながっている。要塞からはボーボリ庭園に沿って城壁が延び、南西の端であるロマーナ門で北に向かう。街の拡大に伴い、城壁は所々壊されているが、それでもアルノ川岸のサンタ・ローザ塔まで続いている。
ヤコブやシンガが上陸した場所だ。
アルノ川対岸の城壁は、サンタ・ローザ塔の向かい側にはない。対岸の城壁は、もう少し下流のヴィットーリア橋から続く道に沿って置かれていた。北東に向かって進み『バッソ要塞』に到る。要塞から、さらにまっすぐ行くと、出発点の『自由広場』だ。
この内側がシンガ達のフィレンツェだった。
路地からシニョーリア広場に出る。右手にヴェッキオ宮殿と、その塔があり、圧倒される。さらに右手を見ると、ロッジア・ディ・ランツィという開かれた回廊があった。
この場所は、集会や儀式の場として作られた。半屋外美術館のようになるのは、シンガ達が訪れてから半世紀後くらいからだ。
『ダビデ像』も『ネプチューンの噴水』も『コジモ一世の騎馬像』もなかった。今と比べると、ずいぶんとサッパリとしている。
ヴェッキオ宮殿は、宮殿でもあるが、行政の場でもあった。シンガは宮殿を正面から見ているが、その反対側では、現在『五百人広間』という広大な議場が建設中だった。
ビエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチが逃亡した後、フィレンツェの行政を指導したのはジロラモ・サヴォナローラだった。
サヴォナローラは、フィレンツェ市民の合議による民主的立法機関を構想し、その議場としてこの広間の建設を行った。
また、目の前に見える、ヴェッキオ宮殿から延びる塔はアルノルフォの塔という。十三世紀にこの塔を設計した建築家の名前をとっている。
シンガの位置から見ると、塔の上部にはノコギリ上の狭間を持つ見張り台がある。その下に窓が三つあり、さらにその下に小さな窓らしき窪くぼ)みが一つある。
この窪みの奥は、独房になっていて、数年後に教皇から破門されたジロラモ・サヴォナローラが、処刑までの間に閉じ込められることになる。
『五百人広間』については、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの興味深い話があるのだが、またの機会にしよう。
広場を過ぎて 『カルツァイウォーリ通り』に入る。現代では、この通りは観光客向けのショッピング街になっているが、この道も大幅に拡張されている。二人は靴職人の店が並ぶ細い路地を歩いている。
シンガの目から見ると、あまりに突然に大聖堂が現れる。ピサでも驚かされたが、あの時は遠くから、あらかじめ見えていた。
今回は狭い路地から突然現れる。
下から見た遠近法を意識しているのか、大聖堂のドームがやたらに大きい。シンガは見たことが無いだろうが、まるで奈良の大仏様のお顔のようだ。
ここも大聖堂と洗礼堂と鐘楼がセットになっている。どうも、この三つは三点セットになっているようだな、とシンガが思う。
シンガが見てきたピサの大聖堂は十一世紀半ばから十二世紀初頭にかけて建設され、十三世紀に改築されている。フィレンツェがライバル視しているシエナという街の大聖堂は、十三世紀から十四世紀初頭にかけて建設された。
フィレンツェも、負けちゃあいらんねぇ。
そう思ったのだろう。ローマ教会ではなく、フィレンツェ市民が資金を拠出して、大聖堂を建築することにした。
十三世紀の末、一二九六年に起工し、百四十年かけて、一四三六年に完成したという。
その名を、『あべのハルカス』、ではなく『花の聖母マリア大聖堂』(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)とした。
数週間後、一四九六年の四旬節には、サヴォナローラがこの大聖堂に数千人の聴衆を集めて、有名な『アモス書とゼカリヤ書の説教集』という説教をブチあげる予定だ。
大聖堂を抜けると、そのあたりはメディチ家ゆかりの土地だった。当時のフィレンツェ有力者は、それぞれ狭い地域に親戚が集合して住んでいた。一族同士の抗争などもあったらしい。
さらに『カミッロ・カヴール通り』まっすぐ行くとサン・マルコ修道院と、その前のサン・マルコ広場が広がる。このあたりまで来ると、建物も高くて五階止まりで、空が開けてくる。
このサン・マルコ修道院はドミニコ会に所属している。ドミニコ会のサヴォナローラは修道院長として、ここに起居していた。
サヴォナローラの末期には、この広場で大乱闘が起こる。修道院側は屋根の瓦を外し、広場の反対派に向かって投げつける。反対派の方は大砲を持ち出す。修道院の鐘は助けを求めてけたたましく連打される、という情景が広がるのだが、今日の所は、いたっておだやかである。
シンガとアゴスティーノ・ニフォの二人は、この広場で左に折れ、バッソ要塞の所で城壁外に出て、メディチ家のカレッジ別荘に向かった。




