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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
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フィレンツェ 1

 現代はグーグル・マップやストリートビューがある。便利な時代だ。それらを横目で見ながら読んでみても楽しいかもしれない。

 また、『Firenze 16th century map』と検索するとブラウン大学による、当時のフィレンツェの地図なんかも出てくる。



 翌朝、シンガとアゴスティーノ・ニフォがヤコブの店を出発する。メディチ家のカレッジ別荘までは四キロメートル程なので、徒歩でもいける。

「帰りも私が一緒ですから、シンガは大丈夫ですよ」アゴスティーノがヤコブに言った。今日もヤコブの商店に泊まるつもりらしい。この時代キリスト教徒がユダヤ教徒の家に泊まるのはめずらしい。しかしアゴスティーノはあまり気にしていないようだった。イスラム教徒の学者、イブン・ルシュドの注釈本を出版するような若者だったので宗教的には寛容だったのかもしれない。


 今日も晴れている。二人はアルノ川の南、サンフレディアーノ地区から出発して川沿いの『ソデリーニ通り』を歩いている。もし、まっすぐカレッジ別荘に行くのであれば、カッタイア橋かサンタ・トリニタ橋を渡ってアルノ川の北岸に渡るのがはやい。この二橋は、当時からアルノ川に架っている。

 しかし、せっかくフィレンツェに来たのだから、中心部を通って行こう、そうアゴスティーノが言った。

 黒のローブに四角い学者帽を被ったアゴスティーノは、一目で学者とわかる。道行く人々が、彼の進む道を開け、お辞儀をして通り過ぎていった。

「この学者スタイルの服を流行はやらせたのも、マルシリオ・フィチーノなんだよ」アゴスティーノがシンガに言った。


 サンタ・トリニタ橋のたもとで右に折れて川から離れる。すぐに左に曲がってサン・イアポコの路地を進む。この路地の石畳は中世の時から変わっていないのだろう。石の形が不規則だ。

両側に三階から五階建ての建物が並び、圧迫感がある。左手に教会のアーチがあった。

 しばらく行くと、ヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)の南の端につく。フィレンツェといえば、この橋を思い出す人も、多いだろう。

小さな三角形の交差点になっている。一応『ロッシ広場』という名前が付いているが、けっして広くはない。


広場の手前に立つと、現代ならば、正面に『ヴェザーリの回廊』が立ちはだかるが、シンガ達の時代には、まだ建設されていない。

『ヴェザーリの回廊』は、一五六五年に建設されることになっている。ブラウン大学の十六世紀の地図には回廊があるので、これ以降の古地図であろう。


後にフィレンツェに復帰するメディチ家は、フィレンツェ中心部が手狭になっていたので、アルノ川南側に放棄されていた、現在のピッティ宮殿を手に入れて住居とする。

南岸のピッティ宮殿から、政治の中心である北岸のヴェッキオ宮殿まで、市民にわずらわされずに行けるように、この『ヴェザーリの回廊』を作らせた。


 なので、北のヴェッキオ宮殿から、ウフィツィ美術館、アルノ川北岸、ヴェッキオ橋、南のピッティ宮殿と、地上に降りず、雨にぬれずに行き来することができる。


 この回廊が橋の東側を通っているため、ヴェッキオ橋の東西に連なる商店街の高さが、東側だけ回廊分高くなっているというわけだ。

 現在、ヴェッキオ橋にならぶ商店は、宝石店やアクセサリーの店ばかりだ。シンガの時代には肉屋やら、なんやらが並んでいたのだが、回廊が出来た時に悪臭を嫌われて追い出された。


 橋の石畳は、規則的な形をしている。後にきなおされたのだろう。橋の真ん中まで来ると、現代ならば、ベンヴェヌート・チェッリーニの胸像があるが、当時はまだ、生まれていない。

 チェッリーニは金細工師として有名な男だ。かなり色っぽい作品をたくさんつくったので、西洋で『私はチェッリーニが好きだ』というと、『私は変態へんたいさんだ』と同じ意味になるので気をつけなければいけない。

 それは、ともかくとして、なかなか豪快な人生を送った男らしい。そのせいでもないだろうが、胸像の周りにはちょうどいい鉄格子があるので、一時期『南京錠テロ』にあったという。現在は『愛の鍵テロ』は禁止されている。


 ヴェッキオ橋の北岸まで進み、右をみると、ヴェザーリ回廊を支えるアーチのところに「PONTE VECCHIO」と、橋の銘板めいばんがあり、その左にはもう一枚の金属板が打たれていて、ダンテの神曲の一節がかかれている。天国編第十六歌の一節で、フィレンツェの橋に言及している部分だ。

 ダンテもフィレンツェ出身である。

 二枚の金属板の間をくぐる。


 観光コースであれば、回廊の下を東に進んでウフィツィ広場に出て、両側に並ぶイタリアの英雄の像をながめるところだが、途中で左の路地に入る。


『ジェオルゴフィリ通り』という路地だ。こっちの方が、シンガとアゴスティーノが見た街の風景に近い。

 路地に折れてすぐに、左に延びる『ジロラミ通り』がある。通りの上に住居や通路を載せるアーチがあるので、まるでトンネルのようだ。

 中世の城塞都市は狭い所に人が密集して住むので、このようになる。


『ジェオルゴフィリ通り』を突き当りまで歩き、左に曲がると『ランベルテスカ通り』になり、またすぐに右の路地にはいる。ここの路地はさらに狭く、幅二.五メートル程しかない『キアッソ・ディ・バロンチェリ』だ。石畳は後の物だが、正真正銘の中世の小路である。


 小路を進むと広い広場に出る。シニョーリア広場だ。フィレンツェでもっとも重要な広場だろう。右手にはヴェッキオ宮殿と、その塔が建っている。長年フィレンツェの政庁であり、現在でも市庁舎として使われている


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