表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
455/648

大砲と城壁 (たいほう と じょうへき)

 コロンブスがラ・イザベラ植民地を放棄して、スペインに帰国している頃、彼の母国、イタリア(このころはイタリアという国はなかったけれど)が戦乱に巻き込まれることになる。


『イタリア戦争』という。十五世紀末から十六世紀半ばまで、六十年余り断続的に戦った戦争である。軍事史的には画期的な戦争なのだけれど、なにしろこの時代の西洋史といえば、『大航海時代、ルネッサンス、宗教改革、以上』となってしまうので、影が薄い。


 何が軍事史的に画期的だったのかというと、西洋の戦争で小銃を含めた砲が多用されることになり、その結果、城などの要塞の形が変わってしまったほど画期的だった。なので、今日はその話をする。


 火薬は中国で『とう』の時代(七世紀~十世紀)に発明されたらしい。それが『そう』、『げん』と受け継がれ、日本人は元寇げんこうのときに、初めて『てつはう』という爆発兵器を見て驚いたそうだ。


 この頃の火薬を用いた兵器は、まだ、あまり有効な兵器ではなかったらしい。元寇でも、日本人は驚いたそうだが、戦局せんきょくを左右するほどではなかったらしい。




 火薬を用いた兵器が歴史を変えた最初の戦争は、オスマン帝国によるコンスタンチノープル包囲戦だといわれている(一四五三年)。

 ハンガリー人のウルバンという技師が『ウルバン砲』という、当時としてはとんでもない大砲を作り、コンスタンチノープルの城壁を打ち破った。

『ウルバン砲』は砲身が八メートルもあり、発射する石の弾丸は直径七十五センチメートル、重さ五百キログラムという巨大なものだった。それを一.六キロメートル先の城壁に向けて発射したという

 重さ五百キロというと、昭和の軽自動車程の重さである。それを東京駅前に置いたウルバン砲で発射して、皇居を越えて半蔵門はんぞうもんあたりに落とす威力があるということになる。このように例えると、どれほどとんでもない砲だったか、実感できるだろう。


 ただ、欠点もあった。まず、命中精度はまったく期待できなかった。『撃てば、コンスタンチノープルのどこかには当たる』という程度だった。また発射速度も悪い。再装填さいそうてんに三時間もかかる。

 最後に、信頼性にも欠けていた。時々砲身が破裂する。この砲を発明したウルバンと、その助手は、砲身の破裂で落命したとされている。

 この後、同じ砲を造ろう、という者が現れなかったのも納得できる。




 それでも、もっと小規模な砲は量産された。同時期に終戦したイングランドとフランスによる『百年戦争』(一三三七~一四五三年)では、その末期に、フランスが大砲を多数戦場に持ち出し、イングランドに勝利している。

 イングランドが誇る長弓隊に、フランスの大砲が勝利した。




イタリア半島南部にナポリ王国という国があった。当時はアラゴンの影響下にあり、国王のフェルディナンド一世は、カトリック両王の一人、イサベラの夫フェルナンドと従兄弟いとこであった。

一四九四年、ナポリ王フェルディナンド一世が亡くなり、アルフォンソ二世が即位した 。このときフランスのシャルル八世が、ナポリ王国の王位継承権を主張して、イタリアに侵入し、『第一次イタリア戦争』が始まる。

 

 シャルルは、この戦争に、牽引けんいん可能な車輪付きの砲架を備えた大砲を多数持ち込んだ。


 この時代のイタリアの城は、中世風の高い城壁を持っていた。当時の城壁が、現在でも残っている。イタリア、パドヴァ県のチッタデッラという町が、当時の城壁を保存している。

 高さ三十メートル、幅二メートルの城壁だ。


 このような城壁は、シャルルの砲によって、容易に突き崩された。一四九四年十月にナポリに侵入したシャルルの軍は翌年二月にナポリ王国の土を踏む。そして五月にはナポリ王国全土を手に納めた。


 ナポリの海岸にあるヌオーヴォ城で、シャルルが南欧なんおうの風景をでてニヤついているころ。

 イタリア半島の東側の根本に位置するヴェネツィアが動いた。ナポリを追われたアルフォンソ二世は同年十二月に死去していた。まだ四十七歳だった、憤死ふんしだったのかもしれない。

ヴェネツィアがアルフォンソの子、フェルディナンド二世をかついで同盟を呼びかける。ローマ教皇と神聖ローマ帝国が賛同する。

 さらにアラゴン国王でもあるスペインのフェルナンドが参戦し、シチリアからナポリに侵入した。北方に退却しようとするシャルルとフランス軍に、ヴェネツィア軍、教皇軍、フィレンツェ軍が立ちふさがる。

フランス軍はイタリアを逃げ回り、本国に帰って行った。


 イタリア中を騒がせたフランスのシャルル八世は、三年後に天井から延びた鴨居かもいに頭を打ち付けて、あっけなく死んでしまう。後を継いだのはルイ十二世だ。このルイも翌年イタリアに攻め込む。『第二次イタリア戦争』である。

 フランスはこの後も、なんどもイタリアを攻撃する。おそらくイタリアの富と文化が目的だろう。


 この『第二次イタリア戦争』の時、『イタリア式築城術』というものが現れた。フランスの大砲に対抗するためだった。

 最初に築城術の効果が表れたのは一五〇〇年のピサの包囲戦だった。シャルルの侵入から、わずかに四年である。

 ピサの中世式防壁が崩壊しはじめたとき、防衛隊が背後に土塁を築く。土塁は中世式城壁よりも砲弾に強かった。

 さらに一五〇九年、パドヴァの町が包囲される。パドヴァは中世式城壁を低く抑え、その前の堀を広くした。

 ここでもフランスの攻撃は失敗する。


 このようにして、次第に城壁と城から、土塁と堀をもち、星の形をした近代的な要塞に進歩していった。

 このような近代要塞を星形ほしがた要塞と呼ぶ。日本で見ることが出来るのは五稜郭ごりょうかくである。


 チッタデッラと五稜郭を見比べて欲しい。同じ防衛施設でありながら、大砲の出現で、これほど形が変わってしまったのである。


 イタリア戦争は、当初はフランスによるナポリ領土の獲得、という動機で始まるが、やがてフランスとスペイン・オーストリアのハプルブルクの戦いという様相を呈するようになった。

 大砲も、火薬も高価であった。そのため、戦争の終結の仕方でも画期的となる。一五五七年、スペインとフランスが、相次いで破産して、『イタリア戦争』は終結することになった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
以前、誰かに言われました 「神聖?ローマ?帝国?」
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ