富子の夢 (とみこ の ゆめ)
明応二年(一四九三年)の三月半ばの頃。現代の暦で言えば四月の上旬になる。
大和川沿いに桜が咲く道を、馬に乗った使者が駆ける。目的地は、大和盆地の西、龍田大社あたりに置かれているはずの、越智家栄の陣である。
使者の背中越しに、新緑前の信貴山が望まれる。右手、北の方から流れてくる竜田川が大和川に合流する橋のところに、家栄の兵が立っていた。
用向きを伝えると、通してくれる。
「なに、伊勢から使者が参ったと」握り飯を食べていた越智家栄が、そういって、飯粒を飲み込む。
「なんの用じゃろ」そういって、手に付いた糊を手水桶の水で洗い、袖で水を拭く。
陣幕をかわして、会所に入ると、なるほど使者らしき男が立っていた。その男が渡した書には、細川政元が、清晃を室町幕府将軍に擁立するつもりだ、と書かれていた。
「尋尊さんが言っていたのは、このことだったのか」家栄が唸る。
「これで、この戦は、勝ったぞ。おい、その方、古市を呼んで来い。それと別に、そうだ、お前、此の事を大乗院の尋尊に知らせてやれ。十市にもだ。やつ、戦が早くおさまれば、喜ぶだろう」
家栄が、小躍りしそうなほどに、喜ぶ。
古市と呼んでいるのは、家栄と同じ義就党の武将、古市澄胤の事だ。『応仁の乱』と、その後の大和での戦いで、家栄と肩を並べて戦ってきた。
家栄の連絡を受けた尋尊さんは、『大乗院寺社雑事記』の明応二年三月十一日条に、以下のように書いた。
『昨日勢州代官三上、越智方に下向、鏡現院(香厳院のことか?)殿新しく将軍になるべくの由申す、云々(うんぬん)。越智、古市、喜悦是非なし』
勢州とは伊勢貞宗のことで、鏡現院は、清晃が院主をしいていた、天龍寺の塔頭、香厳院のことだと思われる。
それからさらに一カ月程、日野富子、細川政元、伊勢貞宗の陰謀が続く。
最後に王手を指す。
細川政元が、姉の洞松院を、河内征伐に出征して堺布陣していた赤松正則に嫁がせた。日野富子が『めし殿』と呼んだ尼僧である。
敵将をゴボウ抜きにしたことになる。四月二十日のことである。
『めし殿』は、歴史的には洞松院と呼ばれる。容姿が劣っていたと言われており、他家に嫁ぐことなく尼僧となった。
石庭で有名な龍安寺に静かに住んでいた。
その『めし殿』が三十を過ぎた歳にもなって、政則の元に輿入れすることになる。当時の初婚としては高齢である。
彼女の婚姻を知った、軽薄な京雀は、次のような落首を京に貼った。
『天人と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな』
しかし、『めし殿』は聡明な女性であったらしい。明応五年(一四九六年)に政則が亡くなった後、二十年以上ものあいだ、赤松の領国、播磨、備前、美作を経営した。
この期間、三国における所領安堵や諸役免除の許可は『めし殿』が発給していたことが記録に残っている。
それらの文書には、洞松院を表す『つほね』という署名が残されており、『洞松院尼印判状』と呼ばれている。『つほね』は局の事だろう。
『めし殿』輿入れの日の夜。日野富子が夢を見た。
自分が空から『源氏物語』の舞台を見下ろしている夢だった。
宇治十帖の総角帖だろうか。宇治川近くの別荘で、薫、匂宮、大君、中君それぞれが悩む。
光亡きあとの闇に漂う薫りや匂ひのように、あてもなく、どこかに流れていく。
いつの世も、人はあのように悩み、さまようのであろうか。富子が思う。せつなくて、目が覚める。
「春の夜の、夢の浮橋途絶えして、峰に分かるる横雲の空」定家の歌を心の中で唱え、起き上がる。夜も明け始める頃だろう。
塗籠から、おずおずと出て来て、半蔀を少し開けると東の山際が、わずかに明るくなっている。
彼女が夢に見ていた総角帖の一節を思い出す。『明けにける光につきてぞ、壁の中のきりぎりす這ひ出でたまへる』
『夜が明けるに従い、コオロギが壁の隙間から這い出てくる』くらいの意味だ。薫に言い寄られて避難した大君が隠れ場所から出てくる様を描写している。
塗籠から出て来た自身の様子に似ている、と思った。
“私は、『甥殺し』になってしまうのかしら”
そして、翌日の四月二十二日、政元が政権転覆の火蓋を切る。




