元旦特別号(がんたん とくべつごう)
『うなぎや』の出現は、野洲弾正忠の警戒心に強く響いた。彼は取引所に出す南洋券の数を絞ることにした。日に一枚しか出さない。これは当日取引価格を確定することが目的だった。
そうする一方で弟の藤吉を介して、細川守護債の所有者と秘密裡に接触し、守護債と南洋株の交換に応じていった。交換率は、確定された当日取引価格とした。
片田村の取引所では、『うなぎや』のミニ債券に大量の『買い』が掲示される。それに引かれて、『うなぎや』が南洋株に買いの札を建てる。買札の価格が上がって七十貫になるが、弾正忠は、日に一枚の新株しか市場に提供しない。まったく新株を出さない日も増えていった。
「なんだよう。南洋社、株出す気、ないのか」
「京都の土倉や問丸の連中は、市場外で細川守護債と交換しているというぞ」
「それ、不公平じゃねぇか」
そんな時、交換所に南洋株を売りに出してくる者がいた。
藍屋だった。
初期に三十貫から四十貫程で購入していた南洋株を市場に出し始めた。『うなぎや』も、投資家も、これに飛びついた。市場に商品が出て来たので、停滞していた南洋株が再び上昇しはじめる。
これは、藍屋与兵衛が野洲弾正忠に持ち掛けた話だった。藍屋が保有する南洋株を『うさぎや』に代わって市場に出し、当日取引価格を確定する。そうすれば『うさぎや』は新株を市場に出さなくともよい。
毎日大量の新株を守護債と交換していた野洲弾正忠にとっては、藍屋の申し出は、心理的にありがたかった。
市場に放たれた株券は、南洋社代表の弾正忠にしてみれば、野に放たれた猛獣の群れのようなものである。資金を調達する方法としては重宝であるが、一方で経営に意見もしてくる。大量の南洋株を持つ『うなぎや』などは株主会議で何を言い出すかわかったものではない。
幸い、南洋株式の保有比率では、市場外で守護債と取引された投票権のない株式が増えてきている。投票権のない株式の票は会社側が持つ。
数か月が過ぎ、年末が近づいてきた。このころには南洋株の時価は百貫に近づいていた。野洲弾正忠の守護債引受はほぼ終わった。弾正忠は正月を京都の自宅で迎えることにして、片田村を離れ、上洛した。
「『うさぎや』、たいした仕事だ、八割方の守護債がそちのところに引き受けられたではないか」毎日片田村から来る弾正忠の報告に接していた薬師寺元長が弾正忠を褒める。
「はい、ほとんどの守護債は回収することができました。あと残っているもので主なところは藍屋様がお持ちの十万貫程、それが最大でしょう」
この数か月の心労が祟ったのか、弾正忠はやつれていた。
「ご苦労じゃった。これで守護債の利払い、もとい期待利益払いの心配をせずに済むようになった」
「お褒めの言葉、有難く存じます」南洋社において、弾正忠は社長、元長は副社長ではあったが、弾正忠は細川家出入りの商人という立場でもあった。
「うむ、うむ、殿がの、これをそちに褒美として取らすと申しておった」そう言って元長が一振りの日本刀を弾正忠に渡す。
「これは」
「なんでも伝・長谷部国重だそうだ。銘は無いがの」
「もったいないことでございます」
「それから、これはわしからじゃ」そういって、金襴の小さな巾着を差し出した。
「なかには砂金が入っておる。それで正月ゆっくりと休まれよ」
「は、備後守様、かたじけのうございます」
年が明けて、応仁四年(西暦一四七〇年)元旦。
野洲弾正忠は、戦災を免れた堀川二条の彼の屋敷でくつろいでいた。木綿の綿入れを羽織り、朝から静かに酒を舐めている。脇に置いた火鉢で干鯵を温めて肴にした。
<昨年は大変な年だったが、それも明けた。今年は良い年になるであろう>
なんにしろ、武蔵守様の窮地を救ったのであるから、覚えもめでたいにちがいない。
弾正忠の口元が緩む。
何者かが、廊下を駆けてくる音がする。
<元旦から騒がしい>
『うさぎや』の番頭が彼の部屋の板戸を開けて、紙を差し出す。
「こ、こっ、これをご覧になってください」
「なんだ、元旦早々、騒々しいではないか」
「なんだ、洛陽新報か、これがどうした」
渡された洛陽新報元旦特別号の大きな見出しを見る。
『南洋社は虚業会社なのか』
……これは、どういうことだ。




