南洋株高騰(なんようかぶ こうとう)
藤林友保と野村孫大夫は、市場に悟られないよう、慎重に『南洋社』の株価を上げていった。
二人は、ある心理的節目を目指している。それは『二文子』だった。
二文子とは、当時の貸金の利率のことで、月の利息が元本の二割、という意味だ。
十貫借りたら、翌月には十二貫を返済しなければならない、ということだ。当時は単利だったので、十貫を一年借りたら、利息十四貫と合わせて、二十四貫を返済しなければならない。
現代から見ると随分と高い利率だが、当時の貸金の利率としては、二文子が最も安い利率だった。
何故、二文子が心理的節目だったのか。それは細川勝元の守護債の利率が二文子だったからである。
もし、南洋社株が月二割以上の上昇を続けたら、勝元の守護債よりも南洋株の方が有利になる。京都での戦は止まっている。記名債の方が安全ではあったが、守護債は、利息はともかく、元本がいつ戻ってくるか、わからない。
では、その南洋社株券の売れ行きはどうなっているか。
応仁三年(西暦一四六九年)四月には、三百株程の南洋株が購入された。細川の守護債と交換されたのは、その半分程であった。五十枚、五千貫の守護債が南洋社のものになった。八月の利払いが七千貫程減ったことになる。
「売り細川守護債十枚、買い、南洋社株三十一枚」という掛け声がかかる。南洋社はこれに応じた。額面十貫の南洋株が三十二貫強で取引されたことになる。
「買い、南洋株十枚、銭三十二貫五百文でどうだ」これも成立した。
細川勝元は『新株の発行額は、買い取った守護債の額面価格の総額をこえないようにせよ』と言った。であるのに、南洋株は守護債との交換以外にも、銭などとの交換もなされている。
もともとが、新貿易船を建造する、といって新株を募集しているのであるから、これは当然なのだが、なぜ、それが出来るのか。
話を簡単にするために、南洋株の時価を三十貫としよう。
守護債三枚は、三百貫相当の債権であるから、南洋株十枚と交換される。『時価』で交換されるからだ。
南洋社は三百貫の守護債を手に入れるから、細川勝元の指示どおりに、三百貫相当の新株を発行できる。
南洋株の額面は十貫であるから、三十枚の新株が発行できることになる。
新たに発行した三十枚の新株を、先ほどと同一の交換率で、守護債九枚と交換する。
守護債九枚、九百貫を手に入れるから、つぎには九十枚の新株が発行できることになる。
九十枚の新株は、二十七枚の守護債になり、二百七十枚の新株が発行できる……。
と、雪だるま式に新株が発行できることになる。守護債と交換しきれない新株が銭や紙幣などと取引される。
これは危険なので、交換した守護債の額面と、新規発行株券の額面額を同額にすることもできるが、これでは守護債と交換することしかできないので、新株発行の意味が無い。
そこで細川勝元は取引できるのは、市場に出ている守護債一万枚を上限とせよ、としたのだった。
しかし、上の計算は、株の時価を三十貫に固定した場合である。株の時価が上がっていったらどうなるであろうか。
やはり、極端な例で考えると理解しやすい。南洋株の時価が百貫に上がったとしよう。
守護債三枚は、南洋株三枚と交換される。どちらも三百貫だ。
南洋社は三百貫の守護債を手に入れるから、三百貫相当、三十枚の新株を発行する。
三十枚の南洋株は守護債三十枚と交換される。
南洋社三十枚、三千貫の守護債を手に入れるから、さらに額面十貫の新株を三百枚発行できる。
三巡目には、守護債三百枚が手に入り、なんと三千枚もの新株を発行できるようになる。
額面三十貫の時には、守護債と新株を三巡させたると、二百七十枚の新株になった。時価百貫の場合には、その十倍もの新株が発行できることになるのである。
加えて、株価が三倍以上になっている、ということは、その時市場は相当熱狂しているはずである。
これが藤林友保と野村孫大夫が仕掛けた罠であった。
五月の末、やはり南洋社は、莫大な売上、利益、預金額を記した報告書を片田村取引所に提出、公示した。
六月上旬、南洋社株が、藤林達が想定した心理的節目を超えて上昇しはじめる。五月末の報告書公示から十日程で、南洋社の株価が二割以上もあがったのだ。
これは、守護債を持っているより利回りが良い。
京都の土倉・問丸などが片田村に走り、保有する守護債を一斉に南洋社株券と交換した。
彼らの行動は、さらに南洋株価の上昇を促す。市場が狂乱しはじめる。




