琉球との交易権
寛正六年(西暦一四六五年)にも三隻の遣明船が送られている。この遣明船は、幕府、細川氏、大内氏がそれぞれ一艘ずつ用意し、加えて商人達が用意した、すこし小さな船が同行した。
遣明船貿易とはどのような規模だったのだろうか。
この時の、大内氏の遣明船第三号船は、豊前国門司の寺丸という船で千八百石だという。船のトン数というのは面倒な単位なのだか、ここでは、一トン=千キログラム=水千リットルとしておこう。
だとすると、一石は約百八十リットルだから、三二四トンくらいだろうか。
遠洋漁業のマグロ船くらいの大きさがある。片田の二千石級艦と同じ規模だった。
遣明船に使う船は、そのために建造されたものではなく、瀬戸内海貿易にあたっている貿易船を借りたのだそうだ。もともとは内海の瀬戸内海で航行するために造られている。
その船の賃借料、修理費、人件費、食料等々の費用が一艘あたり千五百貫程も必要であったという(一文七十五円として、一億円くらいだろう)。
この寛正の遣明船を送るにあたって、幕府船を派遣する足利義政は大内教弘に銭千貫の借金をしている。
では、千五百貫の費用を投じて、どれくらい儲かるのか。
これらの船が明から帰って来た時に、幕府なり細川氏なりに抽分銭という税金のようなものを支払っている。それが三千貫から五千貫だった。
抽分銭の額から、おそらく一隻あたり一万から二万貫程の利益が出たのではないかと推定されているそうだ。約十倍の利益である。
遣明船の場合、明から持ち帰る商品は、明の皇帝から贈られたものだったので、仕入原価は無かった(随伴している船は、明で商品を仕入れているから、こちらは無料ではない)。
それに対して琉球と貿易を行った場合には、仕入れの費用が発生する。それでも琉球からは明の商品が購入できるので、これの利益も大きい。
利益は大きいが、内海航行が主な用途である日本の二千石船は外海の荒波に耐え、黒潮に逆らって琉球まで行くには、心もとない。黒潮は秒速一~二メートル、時速で三~七キロメートル程の速度がある。
なお、明に行く場合には、黒潮を相手にしなくともよい。
間によこたわる対馬海流は秒速十センチ程度であり、しかも横切ればいいだけだ。
琉球は明のジャンク船を持っていたので、黒潮を遡って琉球に帰ることが出来る。
日本船では貿易できないため、細川勝元は琉球の王族や有力者と手を結び、彼らの所有するジャンク船を使って貿易を開始していた。彼らを動かす梃に使ったのは日本の鉄であった。
これは、慧眼だった。片田も感心した。勝元の南洋社のことだ。
片田の竜骨式輸送船が出来るまで、細川も大内も自前の船で琉球と貿易できないだろう、そうたかをくくっていた片田は、砲艦建造を優先させていた。
<『南洋』との貿易は、応仁の乱の後でいい>
『南洋』という言葉は、片田の時代の言葉で、西太平洋の島々やフィリピン、インドネシアなどを漠然と呼んだものだ。
現在、片田は堺にある琉球人貿易組合を通じて彼らと交易していた。勝元の後塵を拝する形だ。
「秋になって、戦が終わったら、貨物船に改装するのか」味噌屋の磯丸が言う。
「ああ、そうだ。うまくいったらな」片田が答える。
二人は戎島の乾ドックの前に立っていた。ドックは四基ある。竜骨と肋材だけの船、進水寸前の船、さまざまだ。
いずれも二千石級砲艦を造っている。
ドックの先の海水面で、トビウオの群れが水面から跳ねた。マグロかイルカに追われたのだろうか。水の飛沫が春の光を反射する。
「それなら、いまのうちに計画を変えて貨物船にしたほうがいいんじゃないか」
「そうはいかない。相手が戦闘行為を止め、敗北を認めるまでは、全力で戦わなければいけない」
「そういうもんか」
「そうだ。船の戦いでも同じだろう。白旗を揚げるなどをして敗北の意思表示をしたあと、帆を降ろして停止して、はじめて戦闘が終了することになる」
「そういうことか。そうだな」
「戦が終わったら、みんな貨物船に改装するのか」磯丸は砲艦の専門家だった。輸送船の方は中筋の太助が得意としている。
「いや、そうはならないだろう。いまのところ砲艦一に輸送船三という船団を予定している。彼方の大洋では、誰に襲われるかわからない」
護送船団方式というやつだ。今のところは細川の船団との争いが心配される。琉球との交易で後発となった片田は、どこかで交易権をかけて戦わなければならないであろう。
それは、応仁の乱とは別の戦になる。




