物価
細川勝元が守護債を発行した。額面百貫の預状である。二文子であり、約月は一年の受取人記名方式だった。
これを一万枚、合計百万貫分の守護債の発行だった。
百万貫というと、とてつもないように思えるかもしれない。しかし兵は莫大な費用が必要なのである。
足軽一日分の食料は米六合、味噌〇.二合、塩〇.一合である。ネット上で調べた。
中世(鎌倉、室町時代)約三百五十年の間物価は安定してインフレが起きていない。おそらく、通貨量(信用の量)があまり増加しなかったからであろう。米も味噌も塩も大体一合一文である。
なので、兵の食費は一日あたり六.三文である。
副菜も必要である。武器は兵が自前で用意するのかもしれないが、戦場で消費すれば支給することもあるかもしれない。矢も大量に必要だ。ほかにも堀を掘ったり、井楼を建てたりやることはいろいろある。土木作業用の道具も必要だ。
そこで、兵一人一日二十文とする。
千人いれば、一日二十貫である。一万人いれば二百貫だ。
これを三か月約百日維持すると、一万人あたり三か月で二万貫が必要になる。
いま東軍が十万人いたとすると、応仁元年六月から八月までの三か月で二十万貫が消えていったことになる。
戦はいつまで続くかわからない。ここで勝元が百万貫分の守護債を発行しても不思議ではない。
一方で返済の方の心配をしてみよう。
一合一文ということは、一石は百升なので、一石が一貫になる。応仁の乱当時の石高はわからないが、江戸時代の大名配置表による石高なら手元にある。
貞享元年(西暦一六八四年)の配置表によると、細川勝元の摂津は十九万石だ。丹波は三十万石である
細川一族が治める他の淡路と阿波をあわせて三十一、讃岐二十六、和泉五、三河二十万石などを合わせると百三十万石程もある。令制国としては、土佐が中国、和泉、淡路が下国にあたるが、それ以外は上国である。
近畿にも近く、古代から開発が進んでいた国々である。
勝元の時代に貞享の八割としても、百万石を越える。これを守護、国人、荘園領主が分ける。守護の取り分がどれ程か、知らないけれども、ここでは仮に全てが守護に行ったとしておく。
百万貫の守護債は、細川一族が治める国の生産高の約一年分ということになる。仮に五公五民とすると、五十万石が細川家の歳入になる。
守護の取り分が半分だとしたら、二年分だ。
一年後の利子は二十四万貫になる。これはきつい。歳入の半数が利払いになる。もし元利すべてを、守護債の再発行で返済をした場合には翌年には百五十四万貫を返済しなければならなくなる。
預り金であるから、徳政令の対象にならない。預り金でも高利の場合には室町幕府に借金と決めつけられて徳政令の対象になったことがあるが、利率は二文子であり、利率からいっても徳政令の対象にはならないことになる。
したがって、まず間違いなく徳政令の対象にならず、すべて返済しなければならない。
かなり無理な計画になる。しかし、細川勝元は断行した。
なぜか。
ここまでは、なるべく史実に沿った数字を挙げて来た。ここに史実とは異なることが起きていた。
物価が上がり始めているのだ。
おそらく紙幣の大量発行が原因であろう。鯉券は失速したが、山名宗全の赤入道券、大内政弘の羽衣券、他にも畠山政長、斯波義廉など、管領を務めた有力者達も独自の紙幣を発行していた。
いずれも開戦により、大量に増刷しているはずである。
楽民銀行券は、信用の範囲以上には増刷していない。
物価が上がれば、兵の維持費も、もちろん徐々に上がる。しかし、仮に一年後に二十四パーセント上がったとしよう。勝元は一年後、米を売って銭を入手するのだが、二割増し以上の銭が手に入るだろう。
その場合、金利にあたる二十四パーセントの部分が無くなってしまうのと同じことだ。無利子で銭を借りたことになる。
細川勝元はこれに気付いていた。物価は一方的に上がるであろう、と。
勝元の守護債は売れた。二文子なのに何故売れるのか。上京の戦いで、大量の貸し倒れが発生したからだ。邸を焼かれた公卿、商人、僧侶などは借金を返せなかった。経済も麻痺していた。足軽による土倉襲撃も発生している。
物騒な時代、貸し倒れたり、盗まれたり、徳政令で棒引きになるくらいならば低利であっても安全な融資先の方がいい。
この時期、東軍が優勢だったことも守護債募集に有利に働いた。
土倉、問丸、寺社などが、世間が鎮まるまでの間、資本の安全な避難先として勝元の守護債を購入した。




