預銀(あずかりぎん)
細川勝元が発行する予定の守護債であるが、これについて語る前に徳政令周辺の事を幾つか話さなければならないだろう。
徳政令、分一徳政令については、以前にも書いたことがある。
日本では、中世になっても、そもそもこの土地は古来より誰それの物であった。という『そもそも』こう『あるべき』、という考え方があった。
鎌倉時代に発せられた永仁の徳政令は、元寇戦役や異国警護で疲弊し土地を手放した御家人の救済が目的であったという。
御家人の土地は、『そもそも』御家人の手に『あるべき』である、借金の担保として取り上げるのは、けしからん、ということだ。
体制を回復し、社会の安定を図るという目的があったのであろう。
室町時代になり、商工業などの経済活動、金融活動が活発になると、借金の担保として土地をはじめとして様々な物が『持てない者』から『持てる者』に移動し、社会が不安定化する。
その対策として、徳政令がしきりにだされるようになった。
さらに、幕府は『分一徳政令』というものを考え出す。
これは分一徳政令と、分一徳政禁令と組み合わせるなど、複雑な過程をたどるのであるが、要するに、貸し手、借り手どちらでもいいから、先に幕府に貸金の一割に相当する額を収めた者に担保物件の所有権を認めるというところに落ち着く。この物語の時代より二十年ほど先のことになるが。
徳政令を出せば、幕府の収入になるのであるから、徳政令を連発することになる。
徳政令の目的が、社会の安定から幕府の収益に変化してしまった。
担保が貸し手、借り手どちらの物であるか決定する権利は裁判権である。
本来、裁判権というのは国家の最重要権利の一つである。それを金のために、いとも簡単に放棄しているようなものである。
市井の村人達ですら、自検断などを通じで裁判権を自らのものにしようと戦っている時に、義政よ大丈夫か、と他人事ながら心配になる。
ともかく、徳政令などを連発すると、金の貸し手がいなくなる。
では、当時の人々は、徳政令の発布に対して、されるがままであったのか、というと決してそうではない。
現代のような義務教育・高等教育を受けていないとしても、それなりに当時の人々も知恵があった。
すこし話がそれるが、まず、祠堂銭というものがある。
祠堂銭の本来の意味は、信者が親族の冥福を祈って寺院に寄進した銭のことだ。
その銭を寺院が利殖のために貸し付けた。そのため、転じて、その貸付金のことを祠堂銭と呼ぶようになった。
祠堂銭の利率は二文子であった。
二文子とは、月あたり二パーセントの利息、という意味である。この時代は複利ではなく単利であったので年に二十四パーセント、百文借りたら、一年後に百二十四文返済するというものである。
当時の利率としては、最も低い金利であったという。
金利の低い貸金であったため、祠堂銭は徳政令の対象外であった。
では、一般の金利はどうであったか。現代と同じように、景気の良しあしによっても金利は変動したのであろうが、五文子から六文子というところであったようだ。仮に五文子だとすると、一年後には借りた金を二倍以上にして返さなければならない。
当時の幕府は、金利についても法令を出している。
長禄三年の法令によると、絹布類、書籍、家具などは五文子,約月は一年。武具は六文子で約月は二十カ月などとなっている。
人の世の常で、これよりも高い金利の貸金もあったであろう。
うだうだと長話をしてしまった。なにを言いたいかと言うと、徳政令をいかにして逃れるかと言うことだ。
借用証ではなく、土地の売買の契約(売券)ではあるが、その例が見られる。
ある男が、寺に土地を売却したときの契約書類(売券)を寺が保存していたものだ。
『また、天下一同の徳政、また国の内の新徳政が入り候らえども、これは祠堂のことにて候』
つまり、祠堂銭と同様、徳政令の対象外だと契約書に主張しているのだ。幕府の徳政令が出ても、国内で守護が徳政令を発しても、この売買契約が翻ることはない、と。
さらに、念を入れてある。
「子々孫々において、違乱・煩い、あるべからず」
子々孫々にわたって、この契約に異議を申しはさむことは、あってはならない。
このように契約書に記載して徳政令を逃れようとした。
また、預銀という方法もあった。金を貸したのではなく、預かってもらった、という体裁をとることにより徳政令を回避しようとした。
借り手が発行するのは、借用証ではなく、預状である。これならば借金ではないので、徳政令の対象にならない、と考えたのだろう。
例えば、土倉や問丸が戦火のため、自ら銭を保管するのは危険だ。なので、守護である細川勝元に預かってもらう。預かってもらうのだから手数料を払うのか、というとそうではない。預かっている間に運用できるのであるから、その運用益の半分をよこせ。などという名目をつければよい。
昔の人々も色々なことを考えたものである。
このような過去の事例から、細川勝元が発行する守護債は、以下のようなものになるであろう。
・預銀の形をとり、預状を発行する
・額面は百貫(約七百五十万円、百貫とは例であり、十貫でもいい)
・利息は月二文子で祠堂銭と同率(ただし利息という名目ではなく期待運用益などとする)
・約月は一年、払戻時百二十四貫
・受取人記名式とし、預状は流動性を持たせない
などである。ここまですれば、預ける(貸す)者が出てくるだろう。




