鯉券失墜(こいけん しっつい)
京都の池沼屋亀次郎の所に堺の支店から早馬が来る。鯉券と銭の両替不能案件が出たという。そのため一時支店を閉鎖したとの連絡だ。
ついに、来たか。亀次郎が慄く。ただちに細川勝元の所に使いを送り、彼が常備している銭を放出して欲しいと依頼した。
鯉券が通用しなくなると、勝元にとっても打撃になる。地方で山名氏を封鎖する予定の大名に資金が供給できなくなる。
番頭に、土倉にある限りの鯉券以外の紙幣を両替するようにも命じる。
同時に、配下の座から、再度銭を調達するように命じた。
「銭って、仕入れ用に二十貫くらいは手元にあるが、これは渡せねぇ。鮫皮を仕入れるのには銭が必要だ」太刀職人の親方が言う。
彼は京都の名産品である『奈良刀』の職人であった。
京都の名産なのに、なぜ奈良刀というのか。
彼は奈良で大量生産される奈良刀の刀身を仕入れて京都に持ち込み、鮫皮の柄や、漆塗りの鞘を仕立てて『拵刀』にして販売している。
鮫皮は輸入品であり、これを購入するには銭が必要だった。国内紙幣は海外では通用しない。
「一時的に借りるだけだ。次の仕入れまでには銭にして返す」
そう言って、亀次郎の使用人がむしりとるようにして銭を預かっていく。
堺から二便目の早馬がやってくる。
堺の片田商店が、銭と鯉券の両替率を一.五にするとともに、鯉券での支払いを拒否した。
池沼屋は目の前が真っ暗になるような気がした。それでも、早く手を打てばなんとかなるかもしれない。
かき集めた銭を、二丁櫓の高速船に載せ、堀川から堺に向かって送り出す。船は夜通し漕ぎ続け、朝には堺に到着した。
「尼崎と兵庫の支店にも、堺に銭を送るように便を出せ」池沼屋が指示する。
堺の池沼屋支店は、翌日に営業を再開した。銭と鯉券の交換も通常どおり行うという。何人かが試しに鯉券を銭に交換してみるが、問題なく銭が手に入った。
なにかの誤報だったのか。片田商店の勇み足なのだろうか。
ところが、数日後には、尼崎と兵庫の池沼屋でも両替不能が発生する。これも野村孫大夫の指図である。孫大夫は、これらの支店の銭の在庫高を把握して、それを超える引き出しを行っていた。
池沼屋に銭がない、これはどうやら本当のことのようだ。堺の片田商店に先見の明があったのだ。
数日のうちに、このことは京都の町衆にまで知られるようになった。
京都の池沼屋本店に鯉券を持った者達が集まる。池沼屋の戸は閉じられている。
「池沼、店を開けろ」
「そうだ、銭に交換しろ」
池沼屋亀次郎としては、門を閉ざしておとなしくしているしかなかった。細川勝元が、その領地から銭を調達してくるので、待っておれ、と命じていた。
周防国の大内氏、その先代の大内教弘の大改革は、細川勝元も知っていた。
教弘は年貢を羽衣券という彼の銀行券のみで納めよとした。
年貢を銭納ではなく銀行券で納めよという革命的な改革であった。
池沼屋もそれを望んでいる。
しかし、彼の領国全てで、それを行う度胸は勝元にはなかった。まず土佐一国のみ、年貢を券納とし、うまく運用できるか試行することにした。土佐は他の領国に比べると経済規模が大きくない。
今年の年末に収める年貢は、鯉券のみとせよと守護代の細川勝益に下知し、池沼屋と彼の元に集まった鯉券を土佐に送り、銭と交換した。
これは、いかにも中途半端であった。もし摂津国を券納としていたら、鯉券は通貨としての機能を保てたかもしれないが、土佐国以外では銭を鯉券と交換するものはいなかった。
鯉券は土佐国を除いては、しばらく通貨としての機能を、ほぼ停止することになる。
池沼屋には土佐国から断続的に銭が運び込まれる。ある程度銭が溜まると池沼屋銀行が再開され、人々は持参した鯉券を銭に替えていく。
銭が無くなれば、また店を閉じる。そのような断続的な営業が続くことになった。
細川勝元は、銀行券発行という戦費調達手段を失った。
他の山名の赤入道券、大内の羽衣券、楽民券などは、一時敬遠されることもあったが通貨として存続した。これらの大名は通貨を発行することで、なお戦費と調達できる。
勝元が、自身の国の年貢収入と貯蓄を越えて戦費を調達するには、もはや債券を発行する以外に方法ない。
この債券は、あえて名前を付けると国債ということになるが、現代日本の国債とは、まったく異なるものである。誤解を招くことがないように、この物語では、この債券のことを守護債と呼ぶことにする。
「孫大夫さん、お見事でした」片田が言う。
「これほどまでになるとは。我ながら、驚きました。忍びの冥利に尽きるということでしょうか」孫大夫が答える。
「一兵も動かさずに、武蔵守(細川勝元)から鯉券を奪うとはな」藤林友保も唸る。
「これからは、このような戦い方も増えてくるのかもしれんな」




