辰吉(たつきち)
長禄四年(西暦一四六〇年)の秋。
小猿が片田村に来て三年半が過ぎた。藤林友保から、村から引き揚げろ、という命令は来ない。
と、いうことは丙工場(硝酸工場)、乙工場(硝酸カリウム工場)に潜入したであろう忍び達は、まだ工場の秘密を解明していないということだ。
誰が藤林の派遣した忍びなのか、小猿は知らなかった。誰かが捕まった時に一網打尽にされないため、友保は小猿に潜入者達が誰なのか教えていない。
小猿の話について、簡単に整理しておこう。
長禄元年に河内運河建設が始まる。出資者の畠山義就は工事の監査役として野村孫大夫を工事事務所に派遣する。表向きは監査役であるが、孫大夫の目的は火薬入手経路の追跡である。
孫大夫は藤林友保が頭領を務める忍者集団の上忍であった。
孫大夫は火薬が片田村から来ることを突き止める。
そこで、藤林は小猿を片田村に派遣する。
小猿は石炭、安母(アンモニア)、硝酸、硝酸カリウム、という順番でつくられていることを知る。
硝酸カリウム、別名硝石は、硫黄、木炭と混ぜることにより火薬となる。
次に小猿は安母工場に石炭運搬の労働者として潜入し、工場の仕組みを探る。そして、工場の核心であるニッケル触媒を盗み出して藤林の元に送った。
小猿が潜入してから一年程が経ち、歩留まりは劣るものの藤林たちがアンモニアの試作に成功する。
次は硝酸、硝酸カリウムの工程を調べなければならないが、小猿は安母工場で重用されるようになっていたので、工場を移動できない。
そこで藤林はそれぞれの工場に別の伊賀者を送り出した。
三年半というのは、小猿の一仕事の期間としては長い方だった。火薬が手に入れば戦の様相は一変するだろう。それぐらいの重大事なので、数年を費やすのも無理はない。
そうしているうちに、飢饉が始まった。片田村にいれば、少なくとも飢えることはない。飢饉の二年目の今年からは米が食えなくなったが、それでも雑穀煎餅で村人は凌いでいる。
九月、畠山義就が、将軍義政の勘気に触れ都落ちし、嶽山城に籠る。河内運河では、まっしぐらに堺目掛けて工事が進む。
台風が片田村を襲った。幸い被害が出るほどではなかったが、大和川も粟原川も増水して、川幅がいつもの数倍になった。
午後早くに台風が過ぎ、雨も止んだが、川の増水はまだ収まっていない。
小猿が工場のガラス窓から見下ろすと、粟原川を泥水が勢いよく流れている。
雨風が収まったので、村人達が外に出てくる。工場の退け時だった。桜湯の太鼓橋の所に数名の男の子達が集まっている。
「おっ、橋のとこに金魚鉢がひっかかっておる」猪太という名の子が目ざとく見つける。
「どれ、あ、ほんとだ。橋の根本のところにひっかかってる」
確かにガラス製の丸い金魚鉢が流れ着いていた。どこかの庭にでも置いてあったものが流れてきたのだろうか。
「あれ、取ってこよう」猪太が橋台の脇を降りてゆき、手を伸ばす。もう少しで金魚鉢に手が届きそうだ、そう思ったときに、足元の濡れた土が滑り、猪太が川に落ちた。
「あ」子供達が叫ぶ。
普段は平底船がやっと通れるような川だったが、この時は増水している。猪太は転がるように下流に流されていった。
「猪太が川に落ちた」
「猪太が流されていく」
「猪太を助けて」
残された子供達は、大声で叫びながら脇の道を下流に向けて走る。誰でもいい、周囲の大人達に助けを求めた。
硝酸工場に勤める辰吉という男が、宇陀ヶ辻の運河橋を渡ろうとしていた。工場での勤め帰りだったが、これから矢木の市に行く用事があった。背中には背負い袋を背負っている。
橋に足をかけたところで、背後から子供の叫ぶ声が聞こえてくる。だんだん背後に近寄ってくるようだった。振り向いてみる。
「猪太が川に流された」
辰吉が粟原川の上流を見る。川の中に衣服が見えた。子供が立ち上がろうとしては倒れ、川岸の草を掴もうとしてはまた倒れる。それを繰り返しながらこちらに向かって流れてくる。
周囲を見回す。
粟原川の流れは彼の足元で本来の粟原川と運河道に分かれる。水量が多いので、今日は運河の閘門はすべて開かれていた。
本来の粟原川よりも、運河の高低差が大きいので多くの水は運河側に寄せてくる。
子供は運河の方に転がるな、そう判断した辰吉が川岸に駆け下り、川の中に入る。猪太が辰吉の腰にぶつかってくる。足をふんばって、押しとどめようとするが、腹近くまである水流に流される。それでも立っていられた。
水流に押し流され、橋の下を通り抜けて、反対側に出たところで、数人の大人達が駆け寄ってくる。
川岸から手を伸ばしている男に猪太を渡そうとして、体を伸ばした。
川岸の男が猪太の小さな手を掴み引っ張り上げる。
辰吉の体が自由になる。やれ、助かった。そう思った時。彼が下流側に突っ張っていた左足が川底の感触を失う。彼は運河の開かれた閘門を通り過ぎたのだった。
運河の河床は閘門の前後で高低差がある。支点を失った辰吉が泥水の中に沈む。
辰吉は水練の覚えがあったので、水面に顔を出すことはできたが、支え所を失っていたので、なす術がなく運河を流されていく。
大和川に出れば、水の勢いが収まるだろう、そうしたら川岸に上がればいい。辰吉はまだ冷静さを失っていなかった。下手に抗わず、顔を水面に出したまま体力を温存した。
大和川に出た。よし、もう少しだ、そう思った辰吉が体の向きを変え、下流側を向いて上陸点を求めた。
辰吉が目を疑った。彼の目の前に大きな水車が立ちふさがっている。
水車の羽が辰吉を捉え、川底に押し込んでいった。
辰吉が水車に飲み込まれるのを見ていた村人達が、大急ぎで水車小屋に駆けこむ。
「まず、水車を止めろ。そして、車を上にあげるんだ」
水車は水量に応じて小屋の中から上下できる仕掛けだった。辰吉の命を奪ったのは、片田順が精米に使った慈観寺脇の水車だった。
命綱を胴に巻いた男達の手で、川底から辰吉が引き出されてくる。体を水車に押しつぶされ、事切れていた。
「気の毒なことになっちまった。子供を助けてくれたのに」
「そうじゃ、いいやつだったろうに」
「誰か、この男の事知っているやつはいるか」
「こいつは、硝酸工場の辰吉じゃないかな。背負い袋の中、開いてみたら身元が分かるかもしれん」
男たちの中の年長の者が辰吉の骸に手を合わせた後に、彼の背負い袋を開けた。
彼の身の回りの物に交じって、壊れた圧力計が出てきた。
「これは、どういうことだ」




