南洋社(なんようしゃ)
年が明けて長禄三年(西暦一四五九年)になる。一月に『ふう』は応神天皇陵の運河建設現場に戻ってくる。
堺では、昨年から安宅丸が竜骨船の一号船を試作している。
この年の春は旱になった。
『ふう』と石之垣太夫は、応神天皇陵周囲の回せるだけの田に水を引いた。水が回らぬ田に蒔いた籾は芽のまま枯れた。
今年の米は収穫できないかもしれない。残った籾を改めて蒔き、残った田には蕎麦の実や雑穀を撒いた。
しかし、旱は初夏まで続く。
梅雨の頃に、『ふう』が子を宿して、片田村に帰る。
かろうじて育った稲を、秋の嵐が襲う。都では賀茂川が溢れた。
長禄三年は、不作の年となった。
明けて長禄四年の春も旱となった。場所にもよるが、長禄元年、三年、四年と四年間の間に三度の不作の年になることになった。
米が不足していた。細川勝元の碗にも麦が混ざるようになっていた。
「のう、『うさぎや』。堺の阿麻和利は、何と言っていた」
阿麻和利は、堺の琉球商人である。
「はい。彼らは鋳鉄とならば、米を交換しても良い、と言ってきました」
「鉄か」
「はい、彼らの島では鉄が取れません。彼らにとって鉄で出来た農具や武器は貴重品です」
『うさぎや』と呼ばれたのは、都の酒屋、野洲弾正忠だった。『うさぎや』は彼の店の屋号だった。
酒屋から始めて身代を築き、今は土倉や貿易にもかかわっている。勝元の遣明船の実務も担ってきた。
彼らは、片田が米と干しシイタケを交換したように、琉球から米を輸入しようとしていた。今都では米が不足しており、輸入すれば高額で売れるであろう、そういう目論見だった。
「ただ、それでもあまり乗り気ではないようです。彼らにとっては鉄より干しシイタケのほうが、高価な上に軽くて、利益になるそうです」
「ならば、いかがいたすか」
「商人達と交渉するよりも、直接船主と交渉した方がよいでしょう」
「船主は商人達ではないのか」
「商人が持つ船もありますが、多くは琉球本土に住む王族や、その家臣の持ち船です。従って琉球商人よりも良い条件を出せば船ごと借り上げることができるかもしれません」
「相当な費用がかかりそうであるな」
「はい、なので都、尼崎、兵庫、堺の土倉酒屋が集まって出資し、今流行りの会社を興すというのは、いかがでしょう」
弾正忠が挙げた港は、いずれも細川勝元支配下の港であった。
「よかろう。その件、進めてくれ」
琉球の支配層の立場からすると、干しシイタケで琉球商人が利益を上げることは、もちろん好ましいことである。しかし、鉄が大量に入ってくれば、農具をはじめとして様々なことに利用でき、国全体が富むことになる。
この話はまとまり、山城、摂津、和泉の土倉・酒屋が出資して琉球と継続的に貿易する会社が成立した。名前を『南洋社』と言う。野洲弾正忠が代表者になる。
細川勝元と大友教弘・正弘親子は、大陸との間の勘合貿易における主導権をめぐり対立していた。
博多、山口に拠点を置く大友氏は、瀬戸内海の西側の入口を押さえ、朝鮮半島との貿易にも有利であった。
一方細川氏は、瀬戸内の東、摂津、和泉の港を押さえている。これらは消費地である京都・大和への入口だ。
南洋社が設立されたことにより、細川氏は琉球貿易という新たなカードを持つことになる。




