節用集(せつようしゅう)
片田村で楽民銀行株主総会が開かれた。規模の大きな議案が出てきたときに、臨時株主総会が開かれることになっている。
今回は二つの議案があった。一つは片田村蒸気機関車路線の開設である。石英丸が提出した。
この議案については、路線は了承されたが、その方式に物言いがついた。鉄道軌条の工場を建設するのは無駄だ、というのだ。
「将来構想にあるように、王寺まで路線を伸ばすのであれば、大量のレールが必要になるだろう。しかし片田村の中だけなのだから、婆さんでも半刻(一時間)もあれば歩ける距離だ。そのために軌条工場を建てるのはどうなんだ」
石英丸は、このような異議が出ることを予想していた。そのための代案も用意してある。
「では、路線を鉄軌条ではなく、セメント舗装としたらどうであろうか。平坦なので人も歩けるし、蒸気機関車も走れる。蒸気機関車に操舵装置を付ければよい」
蒸気機関車が蒸気自動車になる。車輪は舗装道路用に変更すればいい。
セメント工場は既にあり、亀の瀬や河内の運河工事に製品を供給していた。この案が採用され、実施の議決がなされた。
なお、セメントは日本語で膠灰というらしいが、さすがに片田もそんな言葉は知らず、「セメント」のまま彼らに伝えていた。
二号議案は『節用集』である。
「節用集ってなんだ」
「こういうものだ」そういって大橋宗長が分厚い書物を両手で掲げ、参加者に見えるようにした。
「なにが書いてある本なんだ、お経か」
「違う、これは漢字や熟語を集めて、いろは順に並べたものだ。漢字が書かれていて、読み仮名もついている。これがあれば、話し言葉に対応した漢字を知ることが出来る。漢字がわかれば書物が読める」
節用集とは、話し言葉を漢字で表記するための辞書であった。一部には注もついており、この注の部分が国語辞典的ともいえる。
話し言葉から漢字を引くためのものであるため、『いろは』順にならんでいる。
『い』で始まる言葉はたくさんあるので、天地、時節、草木などの部門別に分類して言葉が配置されている。
たとえば、節用集の冒頭はこのようになっている。
<天地門>
伊勢 勢州十三郡水田一萬九千二十四町 桑名、員弁、朝明、三重、河曲、鈴鹿……。
伊勢に続くのは『伊勢海』で、以下『伊賀』、『伊豆』、『伊豆海』、『伊予』、『伊香保沼』、『伊香保根』、『伊吹山』と地名が続く。国名には注が付く。
多くの漢字にカタカナでルビが振ってある。勢州以下が注にあたる。
天地門以外で、人名門ではこのような記述もある。
入鹿大臣 天智天皇之時人蝦夷卿子也
などとある。注の部分を膨らませれば、百科事典にすることも出来るだろう。
「今持っているこの節用集は写本だが、これを木版で出版したい」
現存している節用集で最古のものは文明本と呼ばれており、西暦一四七四年頃の写本とされている(異論もある)。ほぼ片田達と同時代だ。
節用集が木版になるのは、もっと後の事である。従って、この時代節用集に接することが出来るのは裕福な者達だけだった。
それを、木版にして、誰でもが購入できるものにしよう、そう宗長が主張する。
ざっと見たところで、六百ページはあろうか、版木が三百枚程も必要となるだろう。
片田の教え子達は、いままでに教科書の木版などを作ってきた。国語、算数、理科などの教科書だったが、それぞれ、せいぜい数十ページだった。
彼らが作った冊子で、もっとも大部だったのは庭訓往来抄で、版木五十枚、百ページ程ある。
『たまがき』が読んでいた庭訓往来は、片田村の木版だった。
版木三百枚は、気が遠くなる。東海道五十三次六色刷りが出来てしまう。
「木版職人が、そんなにいないだろう」
「大丈夫だ」宗長が言う。
「まずは、これだ」そういって半透明の紙を皆に見えるように突き上げる。
「これは透写紙と言う。書字に達者な人が、これに節用集を書き写す。例えば好胤さんにお願いしたい」
好胤が頭を抱える。あれを全部書写せよだと。覚慶も連れてこなければ。
透写紙とはトレーシングペーパーのことだ。普通の紙が白くて透けないのは、紙の繊維に細かい空隙があるからだ。なので、溶けた蝋を流してやると空隙が埋まり半透明になる。
しかし、蝋だと墨を弾いてしまう。
そこで石英丸が、パルプに硫酸を混ぜることにより紙繊維をゲル化させる方法を考え出した。これで繊維の空隙が埋まって半透明になる。
紙繊維が細いコンニャクになったようなものだ。
硫酸は後工程で洗い流すので、紙が強酸性になることはない。
「書写した透写紙を裏返しして木板に糊で張り付ける。裏からでも文字が見えるので簡単に版が作れる」
「次はこれだ。鍛冶師達に作ってもらった」そう言って鉛筆程の長さの彫刻刀を何本か差し上げた。
「これがあれば、誰でも時間の空いているときに版木を作れる。彫刻刀は五十組程作ってもらう」
彫刻刀セットは、文字の境目を切り込む斜め刃の小刀、白くする部分を削る平刀などが組になったものだ。現代の物とほぼ同じだった。
「器用な者がルビなど細かい所をやり、不器用なものは、広い白地の部分を削ればいい」
「どれほど時間がかかるか、わからんが。数年かけてやってみて、売れなかったらどうするのだ」
「全部作ってから売り出したら、いつになるのかわからない」
「どういうことだ」
「これは『いろは』順にならんでいる。だから、『い』の部分だけ作って、まず売り出してみる」
「『い』だけで売れるのか」
「『い』だけでも、売れる。一文で売りに出す」宗長が自信を持って断言する。
確かに、一九六〇年代の百科事典ブームの時には、分冊百科が間をおいて出版されているが、それでも売れていた。
最近でも、模型パーツ付き雑誌のようなものが書店に積まれている。
『いろは』は四十七文字だが、節用集で使うのは四十四文字なので、すべて購入しても四十四文(三千三百円程度)だ。
字引ではあるが、一文という価格ならば、読み物や手習いとして読むこともできるかもしれない。暇つぶしになる。
「一文で売るのか。紙代にもならないんじゃないか」
「もう少し、高くてもいいんじゃないの」
「金儲けのためならば、総会にかけたりせずに、自分で組を起こして、さっさとやる」
「じゃあ、なんのためだ」
「これは文化事業なのだ。この国の子供すべてが、漢字の読み書きができるようになる。そのためだ」
どこかの出版社の社長のような主張をした。
好胤さんがさらに頭を抱える。これは、あれだけ書写しても、一文にもならんということじゃな。もとより僧なので金儲けを考えてはいないが、手間賃程度は期待していた。すべて持ち出しということになりそうだ。
驚いたことに、宗長の議案が通過してしまった。初年度百貫の予算で、書写、木工は片田村有志が行い、摺りと製本は木版印刷の組に有償で依頼することとした。
予算は他に、版木の山桜材、彫刻刀、透写紙、印刷用紙などに充てられる。
宗長の熱演を見ている『いと』が『あや』に向かって言う。
「なんか、最近の宗長さん、『じょん』が憑いていない」
「そうね。一緒にいると考えが似てくるのかもね。片田村のみんなも似たような者よ」
節用集は売れた。
『い』の文字のみの薄い冊子が大和盆地はおろか、京都、堺、西は瀬戸内の主要な港町、東は鎌倉まで届き、多くの民がこれを求め、漢字の読み書きが普及していくことになる。
都にこんな落書が現れる。
「俄か者 『い』の字の文字のみ よく書けり」
宗長は節用集第二版を構想する。知識人を集めて注の部分を拡充するのだ。
漢字の読み書きが出来るようになれば、次にはその意味を知りたくなるのが人間だ。
十八世紀、百科全書派、ディドロ、ダランベールの先駆けである。




