前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)
『ふう』たちが、運河工事を行っている応神天皇陵は古代の古墳である。形式は前方後円墳とされている。
古墳とは、お墓のことである。
上空から見ると南側に丸い丘があり、これが『後円』にあたる。その北側に台形の丘がつながっていて、ここが『前方』部分である。
地図を見ると、ちょうどレバータンブラー錠の鍵穴のような形だ。
後円部に死者が葬られており、前方部は、祀る祭壇であるといわれている。
建造当時は、後円部はかなりの急斜面に造られており、表面に葺石が張られ、容易には登れなかったとされる。
片田達の時代には、葺石の間から芽を出した樹木が巨木になっており、葺石は崩れていた。古墳も、それを囲む堤も鬱蒼とした森となっていた。
彼らは、その原生林を伐採し、工事に使う材木とした。大きい物はセメントを整形する板材などに使い、枝や葉は燃料とした。
なので、今の古墳は地肌がむき出しになっている。切り株は土砂を保持するためにそのままにしており、間に植林を行った。
木々を総て伐採したので、見晴らしがいい。
樹木を取り除いてみると、前方部と後円部それぞれの中心当たりが高くなっており、瓢箪を横からみたような形になっている。
北側の前方部の頂上に土木丸が立っている。測量器を前に置き、濠を挟んだ向こう側の堤の高さを測量している。
古代の建造当時、濠を囲む堤は、ある程度の高さがあったと考えられているが、片田達の時代には、かなり浸食されていて濠よりわずかに高いだけであった。堤には葺石などの保護の工事がなされなかったからだろう。
ここに、濠を囲むように、高さ八尺の堤を築く。それが彼らの今年の仕事だった。
土木丸が手旗を使って、造成した堤に立っている男に移動の指示をする。男が土木丸の指定した位置に立って、棒を立てる。
その棒の高さを、土木丸が手元の測量器で測って高度を読み取る。
古墳の反対側、『前方』部の頂上には、野村孫大夫がいた。古代の葺石と思われる大きな石の上に座り、やはり葺石に置いた紙になにやら書いている。
孫大夫は南の方を向いているのであるが、正面眼下に誉田運河が濠に水を引き入れる水門がある。運河がまっすぐに伸びており、その先は誉田八幡宮の森の脇を通り、大乗川に繋がる。
さらにその先には、畠山義就が築城中の高屋城が見える。
はるかには石川が左手から和泉の山脈に向けて伸びている。
孫大夫はその石川の果てるあたりを、水墨画にしている。
後ろから足音が近づいてくる。
「孫大夫さん、すいません、その石のところ」土木丸だった。
「なんだ」
「その石、測量の基準点なのです。もうしわけありませんが、よけていただけませんか」
「測量だと、それはすまなかった。知らなかったのだ」
そういって、孫大夫が立ち上がると、平たい葺石の上に、十字の刻み目があった。これのことか、孫大夫が納得する。
「かたずけるので、少し待ってほしい」
「画ですか」
「そうじゃ」孫大夫がかたずけながら答える。
「この山からの景色は素晴らしい。これを画にしないわけにはいかない」
「画のことはよくわからないけど、上手ですね」
「ほめてくれるのか、こりゃあ、ありがたい」そういって孫大夫が太い声で笑った。
「そっちの石ならば、使っても構わんか」孫大夫が左手を指す。
「ええ、そこだったら、大丈夫です。そっち側測量するときに、すこしよけてくれれば」
孫大夫が、画紙と画材を移動させた。
土木丸が堤にいる男と手旗で通信をおこない、測量を再開する。孫大夫も画業に意を戻す。
孫大夫が描いている水墨画。それは土木丸が言うように上手なものだったが、ただの水墨画ではなかった。その画のなかには、孫大夫にしかわからぬ数字や記号が巧みに織り込まれていた。
孫大夫は誉田運河の水門から入ってくる舟の数や積み荷などを、その水墨画に記録していた。これは工事事務所に来た時からやっている。
最近は堤の工事ばかりなので中断していた。
ところが、来年の仲哀水道橋の工事のために、火薬やセメントなどが応神天皇陵内に新規に建てられた資材倉庫に運びこまれだしたので、再開したものだ。
昨年、孫大夫が工事事務所に来たばかりの頃。
まず最初に調べたのは、火薬の入手経路だった。目付役なので、原材料が適切な価格で仕入れているかどうかを確認するのは役目の一つである。
仕入台帳には十市の片田商店から仕入れたとあった。一斗入り甕一つが八貫だという。
二つの点で驚かされた。
まずは、十市から仕入れたということだ。雇い主の義就も孫大夫も、火薬は琉球の商人から堺の片田商店を経由して仕入れられるものだと思っていた。
十市といえば、内陸ではないか。ということは、片田は国内で火薬を製造していることになる。
孫大夫は火薬を積んできた舟が積み荷の火薬を陸揚げした後に、さりげなく舟人に話しかけてみた。たしかに大和の言葉だった。
二つ目は一斗(十八リットル)で八貫という破格の安さである。大名ならば誰もが欲しがる火薬を、このような低価格で購入している。ということは原料と、製造にかかる手間も、それほど高い物ではない、ということを意味している。
そこで、孫大夫はさっそく義就と藤林友保にそのことを報告した。義就の命を受けて、友保は下柘植の小猿を片田村に送った。
それが一年以上前のことである。




