大和国(やまとのくに)
この時期の大和国を概観する。
大和の支配者は興福寺だった。幕府は大和に守護を置くことができなかった。興福寺は藤原氏の寺であったから、大和の支配者は藤原氏であったといってもいいかもしれない。
興福寺では、藤原氏内部の対立により、大乗院と一乗院という二つの勢力が争っていた。
興福寺は、座と、衆徒と呼ばれる僧兵、国民(国人)という地元の有力者など通じて大和国を支配していた。
この物語に出てくる有力な衆徒・国民は筒井氏、越智氏、十市氏、古市氏、箸尾氏などである。
片田の時期前後の大和にはいくつかの対立軸があった。
南北朝の対立、興福寺内の一乗院と大乗院の対立、応仁の乱においては東西の対立などである。
南北朝の対立は、この時期すでに名分としては過去のものになりつつあった。しかし名分が無くなった後にも対立は残った。
南朝方である越智氏と、北朝方であった筒井氏は、名分が無くなった後にも執拗に対立を続けることになり、この時期の大和国の歴史を回していく原動力となる。
一乗院と大乗院の対立は、興福寺の支配力を弱体化させることになった。
両者は競って実力者である衆徒や、国民たちに恩賞を与え、自派に取り込もうとした。その結果、興福寺の荘園支配力が失われていった。
大和永享の乱は、両派の僧侶の争いごとが引き金となり、やがて幕府と越智氏の対立にまで拡大する。
応仁の乱においては、越智氏が西軍、筒井氏、十市氏が東軍などと、やはり国内で対立することになる。
例えば、筒井氏は一乗院に属し、北朝を支持し、応仁の乱では東軍であった。越智氏は大乗院に所属し、南朝を支持し、応仁の乱では西軍であった。この二者は大和の有力者たちの両極にいる。十市氏は大乗院に属し、南朝を支持していたが、後の大和永享の乱では筒井の支持に回り、応仁の乱では中立的か、ないしは東軍を支持している。
これらに加え農民と領主の対立、旧勢力と新勢力の対立などもあったであろう。
さらに大和国を狙う勢力があった。
河内の畠山氏である。十市遠清や、「高取の越智」こと越智家栄は没落していたところを、河内守護である畠山持国のとりなしで家督を相続し、大和の国民となっている。彼らを取り込もうと考えてのことであろう。
持国の子で、応仁の乱の原因となる畠山義就(よしなり、とも読む)は、応仁の乱の前後に、隙あらば大和に攻め入っている。
片田が開いた村を、『とび』の村人は片田村と呼ぶようになった。これからは片田村と書くことにする。
片田村の最初の建物は三分の一が食堂で、残りは住居だった。
次の建物は最初の作業場とした。ここでは、まずレンズの作成と研磨を行うことにした。この建物の脇に南都の鋳物師たちが作った蒸気機関を三台置いている。炭を焚く炉の部分は外部に置き、動力部分のみが室内に置かれている。水はすこし上流のところから、竹筒を繋げて水道としている。雨天でも作業が出来る。
三番目の建物としてキノコ工場を建てることにした。慈観寺にあるものがキノコ小屋であるのに対してキノコ工場と呼ぶのは、こちらの方が大きいからだ。キノコ小屋は東西南北の壁に棚を置いただけだったが、このキノコ工場は八列の棚が並ぶ大きなものだった。一つの列には棚が十並んでいて合計八十の棚があった。
そして中央には半地下の囲炉裏があり、縁の下に温風を流すことが出来るようになっている。
茸丸の研究で、外で作業を行っているときに肌寒いと感じる温度(摂氏十五度程度と思われる)以下では、シイタケの生育が悪くなることが分かっていた。また、湯を沸かせるようになっており、湿度を保つために使われた。
棚がある部屋は、外部に出口が無く、手前の作業部屋とだけ、つながっている。作業部屋は外部に出る戸を持っており、そこの鍵は厳重に管理された。キノコ工場自体も粗い竹垣で覆われていて、近寄ることができないようにしていた。
慈観寺の菌床は、子供たちが箱にいれて、見えないようにして運んできた。
コークス炉と、鋳物師たちの炉も、慈観寺下の川岸のものは壊し、こちらに新しく作り直した。炉の開口部分が長い庇にかかるように作業場を立てたので、こちらも室内で作業ができる。南都の鋳物師たちは、片田村に住み着くことにしたようだ。彼らは今や、鋳物だけではなく、鍛造、焼き入れ、冷却、焼き戻しなどもこなすようになっていた。
もう飽きた、というほど蒸気機関を作ってもらおうと片田は思っている。
十市の殿様の代官とその部下の武士十名もやってきた。当初『とび』の村などの代官の羽鳥氏が兼任するとのことだったが、片田村の事務量が非常に多いということがわかり、羽鳥氏が片田村の専任となることになり、 『とび』の村を含む五村の代官はべつの者が後任となった。




