講和会議
戦というのは、始めることは容易だが、止めることは難しい、とよく言われる。戦に参加した複数の関係者の合意が必要だからだ。
片田の調停も難しいものになるかもしれない、彼はそう思っていた。調停とはいうものの、片田自身が関係者であるからだ。
まず、会談の場所を決めるだけで、数日を要した。結局、会談場所は、伊勢邸ということになった。
この時の当主は伊勢貞宗である。まだ数えで二十五歳と若い。東軍に属してはいるが、伊勢家は武辺の家というよりは、能吏の家である。貞宗は性格が温厚であることも、両軍から知られている。
父の伊勢貞親は、足利義視が義政を暗殺しようとしている、という陰謀を企てたものの、露見して京都から追放されている。
伊勢邸は、室町第と、室町通りを挟んで接しており、東西軍が占める境界にある点も評価された。
最初の会議では、幕府から将軍である足利義政がまず出席する。東軍からは総大将である細川勝元、会議場の主人であり、政所執事でもある伊勢貞宗と、その補佐役である蜷川親元が出席する。西軍からは総大将である山名宗全と、管領である斯波義廉が出席する。
畠山義就と政長は、呼ばれなかった。この二人が出席すると纏まる話も纏まらないであろうことが、明らかだった。
この日の議題は、京都内での戦闘の停止であった。
「細川が、室町第から出て、邸に下がるのであれば、戦闘の停止に合意してもよい」山名宗全が言った。
「私も山名殿に賛成します」片田が言った。
「しかし、両軍の兵力差が大きい今、東軍が御所を出たら、たちまち西軍がおしよせてくるであろう」
「それはさせません。西軍がそのような行動に出た場合には、私が、山名殿の邸、斯波殿の邸を即座に焼き払います」片田が言った。
いくら邸の周囲に堀と土塀を築いても、片田軍は離れた所から彼らの邸を焼き尽くすことが可能であった。
出席者は先日の船岡山を思い出す。
「細川殿と入れ替わりに、私が御所に入り、将軍と内裏をお守りします」片田が続ける。
「よく言った」義政が言う。
「わかった、片田、そちを信じよう」細川勝元が言う。
東軍の移動日時、手順を別途定めることとした。
「次に、軍の京都からの移動について、相談したいと思います」片田が言う。
本当は、各国の軍を本国に返したいのだが、いきなりそれは出来ないので、京都の周辺に移動できないか、という相談である。
「七口外という意味か」宗全が尋ねる。
『七口』とは京都に入る街道の出入り口の事を言う。室町時代には、そこに関所を設けて通行料を取っていた。丹波、若狭に向かう鞍馬口、伏見に通じる竹田口、山崎に下る東寺口などである。
東軍の細川勝元も、西軍の山名宗全も、京都の土地が獲りたかったのではない。彼らが求めていたのは将軍であり、内裏である。将軍を押さえることにより、幕府の人事権と行政権を手に入れることが目的であった。
将軍が片田の手に落ちた今、京都で争う意味はほとんどない。しかも片田は幕府に属していない。従って、勝ちも負けもなくなった。
「よかろう、こうなった今、京都で戦う意味はない。諸将を説得してみよう」宗全が言った。
細川勝元が安堵した。命拾いしたと思ったことであろう。
「ところで、片田。和泉と淡路についてじゃが」細川勝元が言う。
「お返し出来ませぬ」
「しかし、京都の戦乱に乗じて略奪したのであろうが」
「東軍も播磨を手にいれたではありませんか。私は四国の三か国を奪うことも出来ます」片田が言う。三か国とは、細川の領地である讃岐、阿波、土佐のことを指している。
「もし、私が三か国を獲れば、播磨も失うでしょう。そうではありませんか、山名殿」
「そうだな。赤子の手を捻るようなものじゃ」まさに、京都から抜いた兵で播磨をどう攻めようか考えていた宗全が答える。播磨を獲るには四国の細川兵が邪魔だった。
「武蔵守(細川勝元)、諦めよ。和泉、淡路守護の任を解く。二国は闕所とする」足利義政が言った。片田が彼の地位を安堵してくれるなら安いものだった。
闕所とは、領主のいない土地、という意味である。勝元は承服するしかなかった。
会議が終わり、解散した。
まず、西軍が包囲を解き、京都周辺部に移動して待機することになった。次に東軍が洛外に移動する。最後に細川勝元などの東軍の将が御所から出て、自邸に引き揚げることになった。東軍が退いた御所には、代わりに片田が入る。
帰りの道で山名宗全が考えた。会議で、口には出さなかったが、この度の戦で、幕府の力は衰えた。もし、本当に片田が幕政に興味がないのであれば、中央の統制ではなく、実力の時代が来るであろう。すなわち、幕府内での序列など、もはや無意味なのだ。片田がいい例だ。宗全にとっては京都の戦は終わっており、地方での戦いが始まっていた。
加えて片田が持つ、あの武器である。あれを手に入れねばならぬ。
それはそれとして、邸に帰って、どのように諸将を説得したものか、そちらも頭の痛いことだった。
同じことを考えていた者が、他にもいた。管領、斯波義廉の家臣、朝倉孝景である。邸に戻った義廉から会議の結果を聞いた孝景が、息子に向かって言う。
「のう、氏景よ。京都にいても仕方がなくなった。早々に越前に帰ろうではないか。次の相手は源三位殿(斯波義敏)じゃ」
地元の相続争い等について、京都の決戦で決着を付けようとしていた大名達は、その目が無くなったとみるや、相手より先に帰国して地元での地盤を固めようとする動きに出ることになる。




