片田村防衛の準備
「と、とにかく、用心するに、こしたことはない」と石英丸が言った。
三人は、片田村を防衛する千人隊長と、忍坂山城を守る十市遠清の代官、羽鳥氏を呼んで相談することにした。
「今、片田村に在営しているのは、訓練中の新兵五百名程と、教練の士官百名程です」
小笠原信正という立派な名前を持つ千人隊長が言った。どこかで侍をやっていた、とのことだった。
「北畠の兵力はどれほどだ」石英丸が茸丸に尋ねる。
「長谷寺に駐屯していたのは、五千と言われている。正確ではないが」
「五千か、一国の国司だから、それぐらいの兵は持って来ているだろうな」
「まず、『じょん』に、初瀬の北畠が片田村を襲うかもしれん、と知らせるべきだろう」鍛冶丸が言った
「それは、最優先だな、駅馬を走らせよう。鍛冶丸、頼む」石英丸が同意する。
「小笠原さん、六百の兵で、五千の北畠軍を押さえられますか」
「片田村は、守りやすい地形です。敵軍の進入路は、主に北と南に限られています。北は『とび』の村ですな。そして南は、我々の練兵場です」
「北側は、『とび』の村との間に粟原運河があります。運河の片田村側には、防壁があります。粟原運河、大原川を堀代わりとし、背後の防壁に拠って守ることになるでしょう」
片田村の中を北西に流れる粟原川は、大和盆地に出たところで、『とび』の村を挟んで大和川に接近するが、合流はしない。西に向きを変えて、その先で寺川に合流する。
粟原川が西に向きを変えるところを宇陀ヶ辻といい、伊勢街道と片田村に向かう道の交差点になっている。
粟原川は水量が少ないので、片田村の水運は大和川に依存していた。大和川の慈観寺のたもとから、南西に、粟原川に向かって運河が作られている。それが宇陀ヶ辻のところで、粟原川に合流する。そこが、北の防衛線だ、と小笠原信正が言っている。
「ただし、『とび』の村を敵に獲られてしまえば、敵は鳥見山を西に回って、村の西側の浅古、倉橋から攻撃することができるようになるであろう。従って、最初の防衛線は、慈観寺から金屋の大和川にすべきです」
「川のこちら側に、急ぎ土嚢を積む、ということですね」
「そうです。加えて、忍坂山城に重迫撃砲を上げ、北方向の、大和川東岸に布陣するはずの北畠軍を砲撃します。手前に小さな山があり、忍坂山頂からの視界を妨げますので、この小山、仮に慈観寺山と呼ぶことにしますが、この慈観寺山に観測所を設けましょう。観測所には軽迫撃砲を置けば、これも大和川東岸の北畠軍を砲撃できるでしょう」
「羽鳥さん、どうでしょう」
「我々は、迫撃砲なるものを扱ったことがない」
「迫撃砲を使うことは、それほど難しいことはない。指をとばされないように気を付けるくらいなもんじゃ。城兵に対する訓練は、わしの方で行うことができる」
「それよりも慈観寺山観測所の信号旗を読むのが難しいであろう。連絡兵を二、三名置くことにする」
「『とび』の村が獲られてしまった時のために、鳥見山城にも、重迫撃砲を配備したらどうでしょう」茸丸が言う。
「いま、言おうと思っていたところだ」小笠原信正が言った。
「次に南側ですが、北畠軍は、初瀬から南に下り、狛峠を越え、女寄峠の手前で西に折れて、我々の背後、粟原に出ることが出来ます」
粟原とは粟原川源流あたりの地名である。
「女寄峠付近で防衛したいのですが、こちら側の補給線が長すぎますし、敵兵が、どこか山中を越えて背後に回ってしまった時、孤立してしまいます。現有兵力が少ないので、もっと近く、練兵場のすぐ東にある狭隘部を迎撃地点とするのが、よいと思われます。これも両側の高地に軽迫撃砲陣地を置けば、敵軍の観測と砲撃がおこなえるでしょう」
「北畠軍は、北、南、どちらから来るのでしょうか」石英丸が尋ねる。
「わかりません。五千という数字ですから、広い北側を正面にするのが常道だと思いますが、並行して南側からも来るかもしれません」小笠原信正が答える。
「片田村は、持ち堪えられるのでしょうか」さらに石英丸が尋ねる。
「迫撃砲や銃を持っていることが、こちらの利点ですが、いずれは相手がこれに慣れてくるでしょう。なにか対策を立ててくるかもしれません。何日持ち堪えられるか、まったくわかりません」
翌朝、石英丸が、片田村を巡回した。
大和川の西岸は、土嚢が積まれ始めていた。金屋に至る三輪道が山に迫る所から、慈観寺まで三百間(五百四十メートル)に渡って、女達が土嚢を積み上げていた。木製の楯が幾つも立てかけてある。
慈観寺のところで大和川を渡る伊勢街道の橋には、応急の関が作られ、橋の両端に土嚢が円形に積み上げられている。
大和川を離れ、粟原運河沿いに歩く。粟原運河は二百間(三百六十メートル)と、短い運河だったが。粟原川と大和川の高低差が十メートルもあるために、五か所の閘門が設けられていた。運河の南側は高さ二メートル程の防壁になっていた。その防壁は運河の終点からは、粟原川の南岸に沿って伸びている。
防壁の脇に設けられた掩体壕には銃弾の木箱が幾つも置かれている。
石英丸が粟原川沿いの道を上り、片田村の中に入る。左手では、小笠原信正千人隊長が慈観寺山と呼ぶ小山に、小さな子供たちが軽迫撃砲弾を持って登っていく。一人一つの砲弾を抱えていた。軽迫撃砲弾は、安全針を抜かない限り、ぶつけても、落しても爆発しないので、子供達に持たせても不安はない。重さは八百グラム程だ。
慈観寺山の頂上では、木を切る音がする。観測所周囲の、視界を遮る木々が切り倒されている。
片田村は、初め粟原川に沿って開発された。そのため川岸には初期の頃の古い建物が並んでいる。集合住宅、食堂、学校、初期のキノコ小屋、鍛冶場、小さな工場などである。
片田村の人口が増えるに従い、川岸の、魚簗舟から物資を陸揚げするのに便利な場所は少なくなり、今では、ほとんどの工場、製鉄所などが高台にある。
石炭、鉄鉱石、硫黄などの原料は蒸気機関のケーブルカーで粟原川から高台まで運ばれている。水は、これも蒸気機関を使ったポンプによって、汲み上げていた。
近い将来『ふう』と『かぞえ』が上流の倉橋溜池から上水道を引く計画があったが、まだ実現してはいない。
左斜面の迫撃砲弾の工場は、白い蒸気を盛大に噴き出しながら、二十四時間操業をしていた。
砲弾工場からは、木箱を背負った男達が次々と出て来て、忍坂の沢を上り、忍坂山頂上の城に重迫撃砲弾を運んでいた。
忍坂山城から迫撃砲射撃の練習の音が聞こえる。城兵達が小笠原氏の部下に訓練されているのだろう。鳥見山の方からも発射音が聞こえた。
キノコ栽培場のあたりは、人影が少なかった。土嚢積みや、陣地構築を手伝いに行っているからだ。
片田村の上流に着く。右手には遠く、倉橋溜池の堤が見える。あの溜池のおかげで、今年の春夏も水には困らなかった。今、田畑へ流す水は止められており、満水になった溜池は今年の役目を終え、また来年の春を待っている。
左手は練兵場だ。練兵場に登ると、東の狭隘地に人がたくさんいるのが見える。土嚢を積み、防衛線にしようとしていた。長さは九十間(百六十メートル)程だろう。
防衛線より向こう側の草原に放牧されていた馬達は、すべて防衛線の手前に追い込まれていた。
左右の高地から木を切る音が聞こえる。迫撃砲陣地を作っている音だった。
練兵場では、村の男女達が射撃の練習を始めていた。教練士官が、普段工員をしている男達、野菜を作っている女達に射撃を見せる。
そのあとに、銃を渡し、何発か撃たせる。それなり的に当たるようになったら合格、という即席の訓練だった。




