ウツロギ峠
「それならば、ここに五幡という海岸がある。ここに上陸するがよい」小山七郎さんが言った。
まだ、安宅丸が若狭湾に向けて出港する前のことである。
彼らの海上封鎖に対して、細川方が兵などの輸送を陸路に変更した場合について、皆で検討していたときのことだった。
「五幡海岸に上陸し、奥のウツロギ峠を越えれば、北陸道に出る。そこに関を設けて封鎖してしまえば良い。海岸から、北陸道まで、半里(二キロメートル)程じゃから、輜重もそれほど困難ではあるまい。ウツロギ峠は、峠といっても、さして険しくない。丘をこえるようなものじゃ」
たしかに、ウツロギ峠は、標高百七十メートル程の高さだった。
「なんで、そんなに詳しいのですか、若狭のあたりに住んでいたことがあるんですか」安宅丸が尋ねる
「住んだことはない。しかし、今言った道は古代の官道なのじゃ」
「今時の若い者は、やれ唐物じゃ、舶来品じゃと騒ぐが、こういうのを本当の教養という」
そういって、和歌を詠んだ。
「帰廻の 道行かむ日は 五幡の 坂に袖振れ われをし思はば」そういって、七郎さんがカッカッカッと笑う。
万葉集巻十八、四〇五五。大伴家持の歌である。
六四五年、日本で『大化の改新』という大改革が起きた。その改革の一つとして、中央と地方の連絡の整備がなされた。
五畿七道が設けられる。この場合の道は、地域という意味だ。
そして、道を貫く道が整備される。
道には一定間隔毎に駅を置き、ここに駅馬が常備され、中央と地方との間で速やかに連絡できるように整備された。片田が堺と京都、大和の間に設けた駅と同じものだ。
この時に整備された北陸道(道路)は、敦賀から、樫曲、越坂と行き、一度木ノ芽川まで下ったあと、また田尻に向かって登り、ウツロギ峠を越えて、五幡に出るというものだった。
北陸道は、そのあと、山中峠で国境を越えて、越前国に入る。
大伴家持が越中国に赴任するとき、もし陸路を行ったのであれば、この経路をたどったと思われる。
この道は二百年程も使われた。そして、八三十年頃に、木ノ芽峠越えの道が開かれ、片田達の時代には、北陸道は木ノ芽川に沿って上流に登り、木ノ芽峠を越えるように変更されている。
砲艦に守られた二隻の商船が、五幡海岸に入る。海辺には塩田が拡がっていた。商船から連絡艇が降ろされ、続々と兵が上陸する。
この時代、五幡塩田は、今庄など、南越前一帯に塩を供給していた。越前の海岸から塩を運ぶより、はるかに近いからだ。そのため、ウツロギ峠の道も、よく整備されていた。
今も昔も北陸道である、西の敦賀の方から越坂を越えて下ってくる道。
古代の北陸道である、北の五幡からウツロギ峠を越えて下ってくる道。
二つの道が交差するあたりに、木ノ芽川を越える橋があった。片田達の時代、北陸道は、ここで木ノ芽川の東岸に渡り、川沿いに北上する。
その橋に、安宅丸が関を設けた。
このあたりは、川の両岸に山が迫っている。関の南側には、西岸の山の斜面に簡単な砦を幾つか設け、兵を入れた。
関より北側は、木ノ芽川西岸の高地に、川に沿って塹壕を掘り、眼下の北陸道を狙えるようにした。
北から八曜紋の幟を立てた馬借の群れが来る。加賀の富樫政親に雇われた馬借だ。兵糧や武具を運んでいる。葉原の村を抜け、安宅丸の関にやってくる。
「ん、関か。こんなところに関を作ったのか」
この時期、幕府や守護などが、いろいろな名目で関を設けていた。新関が出来ていても、馬借の頭は不思議には思わなかった。
「誰が、なんの名目で、関をつくったんだ」頭が尋ねる。
「これは、片田商店の関だ」関守役の兵が言う。
「片田商店って、片田銀の片田か。関銭は、幾らだ」
「この荷は加賀の富樫様のものか」
「そうだが」
「では全て没収する」
「そうかい、って何言ってるんだ」頭が驚く。
銃声が鳴り、頭の後ろの米俵が弾け、すこし米がこぼれた。
後方から富樫が同行させた護衛兵が何名か走ってくる。幾つもの銃声が鳴り、兵が倒れる。
「荷を捨てて去れ。そうすれば命は助けてやる」
馬借達が北に向けて走り去った。
残りの護衛兵達が抵抗しようとしたが、数回の斉射で、これらも去っていった。
関から左に折れて、南の敦賀に向かうはずだった荷駄たちは、右に曲がり、ウツロギ峠を越えて、五幡海岸に向かう。そこからは、片田の商船で、白木の物資集積所に送られる。
上洛する兵団がやってくることもあった。これらも百を超す銃の射撃にあって、撤退させられた。安宅丸達が持っている銃はボルトアクションであったので、数秒で、次弾を撃つことが出来た。
北陸道は、海も陸も閉鎖されてしまった。




