封鎖作戦
小山七郎さんの派遣した兵が到着しはじめた。堺の市民は、焼き討ちされた片田商店に同情的ではあったが、さすがに一万もの兵を堺市中に駐屯させることはできない。
堺が戦に巻き込まれることは、避けなければならなかった。
そこで、和泉口の外に野営することにした。主方面は、この方角になるはずであった。摂津口と、大和口には、それぞれ千程の兵を置くことにした。
大内軍が尼崎から続々と上陸を始めた。大内政弘が引き連れていたのは、周防・長門・豊前・筑前・筑後・安芸・石見・伊予の兵である。その数、数万といわれた。
この大軍を前にして、摂津国北部に位置する池田(現池田市)の池田充正も、身動きがとれなかった。
大内政弘が上陸したことで、摂津国の淀川・大和川より南の部分は、摂津国と隔離された。片田の騎兵隊が、この地帯をいとも容易に制圧した。
安宅丸が率いる四隻の片田艦隊が、若狭湾で遊弋し続けていた。
拿捕した船は一色義直が支配する丹後国の舞鶴に曳航された。
武器や兵糧はそこで山名方に押収される。将校は捕虜となり、兵は拿捕した船で生国に返された。
砲艦が若狭湾を遊弋しているあいだ、六隻の商船は、前線近くに物資の集積所を建設していた。若狭湾の最も東の半島、敦賀半島の先端近くに、白木という小さな漁村があった。その漁村の湾を集積所にすることにした。
この場所は半ば孤立したような場所であり、海運以外にたどり着くことができない。
細川方の船の航路からは外れるので、この拠点を発見するのは難しい。にもかかわらずそれらの船が敦賀に入るためには、白木の近くを通らなければならない。
後に高速増殖炉『もんじゅ』が建設される場所である。
若狭湾に入る船が減ってきた。彼らは陸路を選ぶようになったのだろう、と安宅丸が判断した。
次は陸路を封鎖しなければならない。商船に載せてきた五百名の兵の出番である。
海軍が陸軍に比べて有利な点の一つに、攻撃地点を自由に選択できる、というものがある。もちろん攻撃地点は、海軍がたどり着ける海岸線や川に限られる。
海軍は陸軍に比べて、移動が容易である、という点も有利である。陸戦隊(海兵隊とも言う)を持つ海軍は、船で兵を自由に運べる。歩兵の足に頼らなくともよい。
このような海軍の利点を最も活用した戦いのひとつに、『アヘン戦争』がある。
『アヘン戦争』は、一八四〇年から四二年の間に、イギリスと中国の間で戦われた戦争である。
当時、中国がイギリスに販売する商材は、茶・絹・陶磁器などの高額商品であった。対するイギリスの商材は、綿織物であった。結果イギリスにとっては大幅な輸入超過となり、イギリスから中国に銀が流出した。
これを打開するために、イギリスはインドで生産したアヘンを中国に売り込んだ。
中国はアヘンを禁輸することにしてイギリスと衝突することになった。
中国側は林則徐を欽差大臣(特命の全権大臣)として、二十万の兵を揃えた。
対するイギリス側は軍艦十六隻、輸送船二十七隻、武装汽船四隻と二万の兵であった。
中国側の軍は南部の広州にいた。当時のイギリスは香港、マカオ、広州を中国への窓口としていたからだ。
これに対し、イギリス艦隊は、東シナ海を北上し、遠く天津の沖に現れた。天津は首都北京に最も近い海港である。
これに驚いた清国の皇帝は、林則徐を更迭し、イギリスと和平交渉をすることにした。
両者は条約を結び、平和が戻るかと思われた。しかしイギリス艦隊が撤収すると、清国内で強硬派が主流となる。
イギリスは再度出兵し、今度は揚子江下流の上海、鎮江に軍艦から兵を上陸させて、これを制圧する。
鎮江は、中国内陸の動脈、大運河の南側の端だった。南方の産物を首都北京に運ぶことが出来なくなり、中国側が降伏する。
アヘン戦争の結果、両国は南京条約を結び、香港はイギリスに割譲された。
規模は、はるかに小さいが、安宅丸は似たようなことをやろうとしていた。細川方が海路をあきらめて、陸路の北陸道を使いはじめたのならば、これをも封鎖してやろう、ということだ。




