黒煙(こくえん)
すこし時間が戻る。五月二十六日の酉の刻(午後七時頃)。絵を描くには光の具合が悪い時刻になっていた。
友禅工房で、『あや』が疲れた目を労わるように、奥庭の暗がりの方を見た。ユウガオの棚で、いくつかの白い花が咲いている。
「そろそろ、帰ろうかしら」狩野家の雅子が言った。
「そうね、日も暮れて来たし」茂子と信子が同意した。
「ちょっと待ってて、今日は外が騒がしかったから、片田商店で様子を聞いてみるわ」『あや』がそういって、出て行った。
『あや』が鏡屋との間の戸から顔を出し、三人を呼ぶ。
「三人とも、ちょっと来て」
『あや』が三人を奥庭から片田商店に導く。店の間の卓に大きな京都の地図が広げられていた。地図には針で幾つも黒い紙や、赤い紙が貼り付けられている。
「赤い紙が付けてあるところは、火事になっているところだ。これは店の者が確認したものだけで、他にも燃えているところがあるかもしれない」藤林友保が説明する。
信子を除いた三人は、ほとんど地図を見たことがない。
「私たちの家のあたり、火事になっているっていうこと」信子が言う。
「どこに住んでいるのだ」友保が尋ねる。
「ここよ」信子が指を指す。小川と町小路の間で、北小路より少し南に入ったあたりだった。当時その付近に画工が多く住んでいた。彼女たち三人の家もそこにある。正実坊より一町(約百十メートル)程南にいったところであった。
京都片田商店は、そこからさらに一キロメートル程南に下がったところにある。
「恐らく、火事になっているだろう」
「うそでしょ」三人が言う。
「嘘だと思うなら、外に出て見てみるがよい」そう言った友保は、くぐり戸を開け、左右をうかがってから、四人を導いた。
彼女らが北の方を見ると、北の空は黒い煙で覆われていた。
「早く家に帰らなくちゃ」茂子が言う。
「悪いことは言わない、今日は鏡屋に泊まっていけ。あのあたりには無数の兵もいる。夜になれば夜盗に変わるだろう。娘だけで帰れば殺されるかもしれぬ」友保が言った。
「そうよ、泊まっていった方がいいわ。もし家が火事になっていたら、みんな逃げているでしょ。行ってもどうにもならないわ。落ち着いてから見に行った方がいい」『あや』も言った。
年長の雅子が二人を落ち着かせる。二人はしぶしぶ同意した。帰らないと決めたことで、茂子と信子が泣き出した。
「火事は、ここまで来るの」『あや』が友保に尋ねる。
「さあ、わからんが、今は北風だ。ここまで来るかもしれない」
友保も、まさかこれほどの大規模な衝突と火災になるとは思っていなかった。彼の想像を超えていた。火が南に流れ、この近くまで来れば、夜盗の襲撃に会うかもしれない。明るいうちに九条まで退いておけばよかったと悔やむ。
嘆いている三人を見ていた『あや』は考えた。このまま嘆かせていてはいけない。
『あや』が言った。
「型紙を、鏡屋の蔵に持っていきましょう。火事が来て、焼けてしまわないように」
三人が顔を上げてうなずいた。
四人は、型紙、花や鳥を描いた画帳、高額な染料などを蔵に運んだ。
家族は大事だった。比較にはならないが、でも型紙も大事だ。大事なものを守る行為をしている間は、嘆かずともすむ。なにか出来ることをやっているあいだは、気がまぎれる。
家族の方は、いま、彼女らに出来ることは何もなかった。
日が暮れた。外の路が暗くなったことを確認した友保は、『あや』の鏡屋の向かいの店の屋根に店員の新藤小太郎を登らせることにした。
「銃は持っていくな。屋根の上で撃てば、銃声で周囲の夜盗を引き寄せるかもしれない」
小太郎は樽一杯に詰めた矢を背中に背負い、左手に小振りな弓を、右手に龕灯持って、向かいの店に登っていった。
龕灯とは、夜に菌床を点検するために茸丸が発明した懐中電灯のようなもので、中にロウソクが立っている。
同様に、京都片田商店の向かいには下柘植大猿を配置した。
『あや』の鏡屋の屋根には高山太郎四郎が麻袋を抱えて登った。『あや』の弟の三郎がついていく。
片田商店の屋根には山田八郎衛門が二郎を連れて登った。
友保自身は、鏡屋の庭に立ち、全体を見渡すことする。『あや』達四人は、友保の目が届く、鏡屋の奥座敷に待機させることにした。
片田商店の『通り庭』の戸が開く。友保が振り返る。
「お頭、小猿が帰りました」
「おう、よく帰った。今夜は忙しいぞ」友保が答える。
「お頭、もう冷泉小路まで、夜盗が出ています」
「そうか、それではこのあたりに来るのも時間の問題だな」
「小猿、ここを見ていてくれ。俺は少し上の様子を見てくる。なにかあったら、あそこの四人は、蔵の中に避難させてくれ」
「『あや』様の他に、三人もいらっしゃるのですか」
「ああ、そうだ」




