せみのオーケストラ
朝の光が町じゅうを包みはじめた。
風鈴の音が涼しげに鳴り、木かげ町は、もうすっかり夏の色に染まっている。
アスファルトが陽に照らされて、白くまぶしい。
さやは麦わら帽子をかぶって、木かげ神社の石段を登っていた。
「……あついねぇ」
首筋を伝う汗をぬぐう。
手に持ったラムネの瓶の中で、ビー玉がころんと鳴った。
ふと立ち止まると、森の奥からにぎやかな合唱が聞こえてくる。
ミーン、ミーン、ジジジジ……。
けれど、その鳴き声はただのせみの声とは少し違っていた。
よく耳をすませると、まるで楽譜のように、きっちりと拍をとって鳴いているのがわかる。
さやは不思議に思いながら、境内へ向かった。
◇
神社の大きなクスノキの下では、たくさんのせみたちが木の枝にとまり、列をなして並んでいた。
その前で、小枝をバトンのように振っているのは、黒くてつやつやの、ちょっと威厳のあるアブラゼミ。
枝の上のほうには、ツクツクボウシがメモ帳のような葉っぱを広げ、リズムを数えている。
「はいっ、テンポ八十二っ! ジー・ミーン・ジミーン・ジジジジッ! もう一回いくよーっ!」
枝のあちこちから、せみたちの真剣な鳴き声が響く。
葉っぱがびりびりと震えるほどの大音量。
でも、その音は不思議と調和していて、どこか楽しい。
さやは目をまるくした。
「……これ、ほんとうに練習してる?」
すると、すぐ近くの枝から、小さな声がした。
「しーっ! 練習中だから静かに!」
「えっ、ご、ごめんなさい!」
声のした方を見ると、そこにはひとりの小さなせみがいた。
体はほかのせみたちよりも少し薄い色で、羽も透けるように細い。
でも、その目はきらきらしていて、一生けんめいに仲間たちを見つめていた。
「すごいね、オーケストラみたい」
「うんっ。ぼくら、“夏の音楽会”の練習中なんだよ。毎年、夏祭りの夜にひと晩だけ開かれるの。ぼくら虫たちの、一年でいちばん大事な夜!」
「へぇ……そんな素敵なことがあるんだ」
「でもね……ぼくは、まだ声が出ないんだ」
小さなせみがうつむいた。
胸のあたりを触ると、かすかに“ジ……”と音がしたが、すぐに消えてしまった。
「鳴こうとしても、空気が抜けちゃうみたいで。みんなみたいにうまく鳴けないんだ」
その背中は、ほんの少し震えていた。
さやはそっとしゃがみこんで、目線を合わせた。
「大丈夫。声が出なくても、音は出せるよ」
「……え?」
「だって、音ってね、風とか、木の葉とか、水の音にもあるでしょう? きっと、君の音も、別のかたちで鳴るはず」
小さなせみは、目をぱちぱちと瞬いた。
でも、その瞳の奥に、少しだけ希望の光がともった。
「……ほんとうに?」
「うん。だから、ちょっと待ってて」
さやは境内のすみを歩きまわり、落ちた竹の枝と笹の葉を拾い集めた。
小川で水をすくい、細い茎を吹いてみる。
ぴぃっと、かすかな風の音が鳴った。
何度か試して、音の出る竹を選ぶと、指先で丁寧に穴を開けた。
「はい、“風の笛”」
それは小さな指ほどの笛で、ふうっと吹くと、木々の間を抜けるような音がした。
透明でやわらかい音。まるで夏の風そのもののようだった。
「これを持って。鳴かなくても、風に乗せて音を響かせて」
せみはおそるおそる笛を口にくわえ、ふうっと吹いた。
すると、笛の音が木々の間をすり抜けて、他のせみたちの鳴き声にまざり合った。
ミーン、ミーン、ジー……ぴぃぃぃ……
さやの耳には、それがまるでひとつの音楽みたいに聞こえた。
音の波が重なり合い、森の奥まで広がっていく。
練習をしていたせみたちも、その音に気づいて鳴くのをやめた。
「……この音、なに?」
「すごい……風が歌ってるみたい!」
アブラゼミの指揮者が小枝を振り上げた。
「おおっ、これは新しい楽器じゃないか! せみの笛か!? すばらしい、合奏に取り入れよう!」
「えっ、ぼくも……出ていいの?」
「もちろんさ! おまえの音は“風の声”そのものだ! これでオーケストラが完成だ!」
せみたちは一斉に羽を震わせ、音の海が境内いっぱいに広がった。
夏の空気が光をまとい、木漏れ日がきらきらと踊る。
ぴぃぃぃ……
その笛の音は、まるで雲の間をすべる風のように、まっすぐ高く響いた。
◇
やがて夜が来た。
神社の境内では、提灯が灯り、遠くの丘からは祭囃子の音が流れてくる。
さやは浴衣姿で、もう一度神社へ向かった。
せみたちの“音楽会”が、はじまる時刻だ。
空には星。風はやさしく、灯りが葉の上できらめく。
そして。
ジー、ミーン、ジジジジジ、ぴぃぃぃ……
せみたちが一斉に鳴き出した。
まるでオーケストラ。
風がメロディを運び、木の葉がリズムを刻み、笛の音がそのすきまを通り抜ける。
境内にいた金魚たちも、水の中で尾びれを揺らしていた。
笛のせみは、一番高い枝で夢中になって吹いていた。
風が笛をすり抜けるたびに、音が星へ昇っていく。
そのたびに、他のせみたちが音で応える。
音と音が重なり、夏の夜空に大きな光の波が生まれた。
その光は、まるで夏の魂が拍手をしているみたいだった。
◇
演奏が終わると、風が静かに木々を揺らした。
笛のせみが、さやの肩に止まった。
「……ありがとう。ぼくの音、届いたよ」
「うん。とってもきれいだった。風の音と一緒に、空まで響いてた」
「もうすぐ朝になったら、ぼくたちはまた土へ帰るんだ。でも、風の音はきっと、まただれかの耳に届くかな」
「うん。きっと、届くよ」
せみはやさしく羽をふるわせ、風に乗って空へ舞い上がった。
笛の音がもう一度だけ鳴って、夜空に溶けていった。
◇
次の日の朝。
さやが神社へ行くと、木の根もとに笛が落ちていた。
手のひらにのせると、笛の穴から小さな風が吹き抜ける。
その風は、まるで誰かが「ありがとう」と言っているみたいに、やさしい音を立てた。
空はまぶしいほどの青。
ミーンミーンと、今日もせみたちの歌声が町じゅうに響いている。
さやは笛を胸のポケットにしまって、小さくつぶやいた。
「また来年も、聞かせてね」
風がその言葉をさらっていった。
まるで音楽の最後の音符のように、きらりと光って消えていった。




