春色のかくれんぼ
その日、木かげ町の空は少しかすんでいた。
桜の花びらがほとんど散り、校庭の隅ではチューリップが顔をのぞかせている。
さやはランドセルを背負い、学校からの帰り道をゆっくり歩いていた。
春のにおいがする風が頬を撫でた。
でも、どこか少しだけ静かだった。
あの春風さんの声もしばらく聞こえない。
「春も、もうすぐ終わりなのかな……」
そうつぶやきながら坂道を下りると、道の端の花壇に見慣れない影があった。
小さな男の子。
腰まで届く緑色の髪に、黄緑のマント。
ポケットにはたくさんの絵筆を刺していて、手には大きなパレットを抱えている。
頬や腕にまで絵の具の跡がついていた。
「……だめだ、間に合わない! もう夕方なのに、まだここのタンポポの黄色が塗れてない!」
男の子はそう叫ぶと、しゃがみこんで、空中に筆を走らせた。
すると、目の前の草むらに、ぽんっと小さな黄色い花が咲いた。
「えっ……!」
思わず声を上げたさやに、男の子が振り向いた。
エメラルドみたいな瞳が、ぱちりと開く。
「わっ、人間の子!? 見えちゃったの!?」
「え、えっと……ごめんなさい。見えちゃった、みたい」
「うーん、まいったなぁ。春の色塗り、途中だったのに!」
「色塗り?」
「うん。ぼく、春の精のみどり。木かげ町の“春色担当”なんだ!」
そう言って胸を張る。
その拍子に、肩から何本か筆がこぼれ落ちた。
「春色担当……?」
「そう! 町じゅうの草木や花の色を塗るのがぼくの仕事! でもね、今年は風が強くて花びらが飛んじゃったり、鳥たちが巣を間違えたりして、ぜんぜん予定どおりにいかないんだ!」
みどりは頭をかきむしった。
髪の中から、花びらがふわりと落ちた。
「このままだと、春が中途半端なまま夏が来ちゃうよ~!」
「……それはたいへんだね」
「たいへんどころじゃない! 季節会議で“春の仕上げが遅れてる”って言われたら、また紅葉のやつにからかわれるんだ! “秋の色の方が人気だもんね~”とか言われるし!」
ぷくっと頬をふくらませるみどり。
さやは思わず笑ってしまった。
「ふふっ。かわいいね、みどりくん」
「かわいくないっ! 本気で困ってるんだよ!」
「ごめんごめん。でも、わたし、手伝えることあるかな?」
「……手伝ってくれるの?」
「うん。春風さんにも前に助けてもらったことがあるから。今度はわたしの番」
そう言うと、みどりの顔がぱっと明るくなった。
絵筆を二本取り出し、一本をさやに差し出す。
「じゃあ、ペアでかくれんぼだ!」
「かくれんぼ?」
「春の色はね、全部“かくれんぼ”してるんだ。誰かが見つけてくれないと、姿を出さないんだよ。だから、君は“色を見つける係”!」
「わかった! がんばるね」
◇
ふたりは木かげ町の中を歩いた。
小川のほとりには、まだ眠そうな菜の花。
みどりが筆先で空気をくるりと回すと、菜の花がぱっと黄色に染まる。
「すごい……!」
「ね、でもね、全部に色を塗るのはぼくだけじゃできない。どんなにがんばっても、“見つけてもらう”瞬間がないと、本当の色にはならないんだ。」
「見つけてもらう……?」
「そう。“きれいだな”って思ってもらうこと。それが色の目覚め。だから、さやが見てくれたら、それだけでひとつ目覚めるよ」
そう言って、みどりは笑った。
さやは足もとに咲いた小さなスミレを見つけた。
「わぁ、きれい!」
その瞬間、スミレがふるえて、より深い紫に変わった。
みどりが筆をくるりと回す。
「今のが“目覚め”。さや、上手だね!」
ふたりは笑いながら、町じゅうを歩いた。
空き地のクローバー、軒先のつぼみ、古いベンチの影の苔。
ひとつ見つけるたびに、世界が少しずつ色を取り戻していった。
◇
気づけば、夕暮れが始まっていた。
風がオレンジ色に染まり、みどりの髪も光を帯びていた。
「……もうすぐ終わりだね」
「うん。でも、まだひとつだけ残ってる」
「どこ?」
みどりは空を見上げた。
丘の上。春守さまの桜。
花びらが散って、枝だけになりかけている。
「あの木。春の最後の“いろ”は、あそこに眠ってるんだ。でも、あの桜の下にある“さやの想い”が強くて、ぼくの筆だけじゃ届かない」
「わたしの……想い?」
「そう。君が風に手紙を託した場所。想いが残ってると、色はなかなか去れないんだ。」
さやは胸の奥がちくりとした。
あのときの花びら、春風、そしてみのりちゃん。
“またね”と約束した春の日の記憶がよみがえった。
「……どうすればいいの?」
「かくれんぼの終わりと一緒。『もういいよ』って言ってあげて。そうすれば、春色は安心して眠りにつける。」
さやは丘の上へ駆けた。
枝の間に夕陽がきらめき、散りかけた花びらが風に乗って舞っている。
両手を胸の前で合わせて、そっとつぶやいた。
「もういいよ、春。ありがとう。」
その瞬間、風が吹き、桜が一気に光を放った。
散った花びらたちが空へ昇り、やわらかな桃色の光の帯になっていく。
みどりが後ろでそっと筆を振った。
空が、淡い金色に染まった。
◇
光がおさまると、みどりが満足そうに笑った。
「完璧だ! これで春の色、全部そろったよ!」
「よかった……!」
「ありがとう、さや。君のおかげで春がちゃんと終われる。この町はやっぱり、君が見てくれるからきれいなんだね」
その言葉に、さやの胸があたたかくなった。
でも、同時に少しだけさみしかった。
「みどりくん、これでお別れ?」
「うん。もうすぐ“夏の青”の担当がやってくるからね。ぼくは少し休んで、また来年の春に戻るよ」
「また、かくれんぼしようね」
「もちろん!」
みどりはにっと笑って、ポケットから小さな葉っぱを一枚取り出した。
それをさやの手のひらに置く。
「この葉っぱは“春の目覚めのしるし”。悲しいとき、見つめてごらん。世界のどこかで、色が君を見つめ返してる」
「ありがとう、みどりくん」
ふたりのあいだを、夕暮れの風が通り抜けた。
みどりの姿は少しずつ透けていき、最後には光の粒になって消えていった。
空の端で、彼の声が聞こえた。
『またね、さや。次の春も、見つけてね』
◇
家に帰る道すがら、さやはポケットの中の葉っぱを握りしめた。
ほんのりとあたたかく、かすかに緑の香りがした。
木かげ町の空は、少しずつ夏の青へと変わっていく。
「また春が来たら、かくれんぼしようね」
そうつぶやくと、風がやさしく髪をなでた。
その風の中に、どこかで“ふふっ”と笑う声がまざっていた気がした。




