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花びらの手紙

 春は、いつのまにか町のすみずみにまで染みこんでいた。

 木かげ町の道という道には桜の花びらが舞い、風が吹くたびに、まるで小さな紙吹雪のようにひらひらと踊っていた。

 丘の上の「春守はるもりさま」も満開で、どこから見ても白と桃色の雲のようだった。

 さやは、その桜の下に座っていた。

 手には、小さな封筒。

 中には、まだ書きかけの手紙が入っている。

『だいすきな みのりちゃんへ』

 そこまで書いて、止まってしまった。

 筆圧の跡が少し歪んで、文字の端が涙でにじんでいる。

 昨日、母から聞いた。

「みのりちゃんね、遠くの町に引っ越すんですって」

 まさかと思った。

 一緒に登校したり、公園で泥団子を作ったりしていた友だち。

 いつも笑いながら、桜の木の下でおしゃべりをしていた。

 あの子がいなくなる。

 そう思ったら、胸の奥が急に冷たくなった。

 何か言わなくちゃと思っても、どんな言葉を選んでも足りない気がして、手紙の続きを書けなかった。


     ◇


 桜の枝の間から、春の光が差していた。

 その光の中に、ひとひらの花びらが落ちてきた。

 さやの膝に乗り、やがて風に吹かれてひらりと舞い上がる。

 そのとき、風が声を持った。

『さや。今日は泣いてるの?』

 どこか懐かしい声。

 去年、桜を咲かせてくれた春風さんの声だ。

「……うん。お友だちとお別れなの」

『お別れは、かなしいね』

「でも、笑って送りたい。なのに、うまく笑えないの。だって……」

 言葉が詰まって、さやは膝の上で手をぎゅっと握りしめた。

 風はしばらく黙っていたが、やがて優しく桜の花びらを巻き上げた。

『さや。手紙を書いてごらん。花びらに乗せて、風に預けてみよう』

「花びらに?」

『うん。風はね、遠くまで運べるよ。たとえ声が届かなくても、気持ちはちゃんと届く』

 その言葉に、さやの目が少しだけ光を取り戻した。

 風が言うなら、きっと大丈夫。

 そう思えた。


     ◇


 さやは、ランドセルからノートと鉛筆を取り出した。

 花びらを一枚拾って、指先でそっと押さえながら書きはじめる。


『みのりちゃんへ。

 あした引っ越すって聞いてびっくりしたよ。

 ほんとうは、もう少し一緒に遊びたかった。

 でも、あたらしい町でも、きっと楽しいことがあるよ。

 だから泣かないでね。

 さやは、ずっと友だちだから。』


 最後に小さなハートマークを描いた。

 涙でにじみそうになったけれど、ぎゅっとこらえた。

 そして花びらを両手で包み込んで、そっと風に掲げた。

「春風さん、この手紙、お願い」

 風がやさしく返した。

『まかせて。春は、だれかの想いを運ぶ季節だから』

 ふわりと風が吹いた。

 花びらは空へと舞い上がり、光の中でくるくる回りながら遠ざかっていく。

 それはまるで、小さな翼のようだった。


     ◇


 翌日、学校の校庭でお別れ会が開かれた。

 みのりは、少し照れたように笑っていた。

 みんなが手紙や絵を渡す中で、さやは何も持っていなかった。

 だけど、胸の奥には確かに“送った”という気持ちが残っていた。

「さや、手紙くれないの?」

 みのりが言った。

 さやは一瞬、言葉を詰まらせたが、やがて笑った。

「もう、渡したよ。風に乗せてね」

「え……?」

「ちゃんと届くと思う。だから、また会えるよ」

 みのりはぽかんとしていたが、すぐににこっと笑った。

「うん。きっと届くね!」

 風がふたりの髪を揺らした。

 その中で、桜の花びらがひとひら、みのりの肩に落ちた。

「ほら、届いた」

 さやがそう言うと、みのりは小さくうなずいて、花びらを大事そうにポケットにしまった。


     ◇


 放課後。

 丘の上に登ると、空には薄い雲が広がり、夕暮れの光がやわらかく差していた。

 風が吹くたびに、桜の花びらがいくつもいくつも空へ昇っていく。

『さや、手紙はちゃんと届いたよ』

 春風の声がした。

 胸が温かくなって、さやは笑った。

「ほんとに? ありがとう。春風さん」

『みのりちゃん、喜んでた。桜の花びらをポケットに入れて、ずっと見てたよ』

 その光景を想像しただけで、さやの目にまた涙がにじんだ。

 でも、今度の涙は悲しくなかった。

「ねえ、春風さん。別れって、ほんとうはかなしいことなのかな?」

『ううん。別れはね、“また会いたい”って思える気持ちのあかしだよ』

「……そっか」

 風が桜の木の枝を揺らし、ひときわ大きな花びらの雨が降った。

 さやは手を伸ばして受け止めた。

 その掌の上に、淡い光を帯びた一枚の花びらが落ちてきた。

『これは、みのりちゃんからの返事』

「え?」

 光がふっと消えると、花びらの上に小さな文字が浮かんでいた。


『ありがとう。またね。』


 それを見た瞬間、風の音も桜のざわめきも、すべてがやさしい音楽のように聞こえた。


     ◇


 夜になり、空には細い三日月。

 さやは窓辺に座って、花びらをノートにはさんだ。

 それは風と、友だちとの、ふたつの手紙の記憶。

「ねえ、春風さん。また届けたい気持ちができたら、お願いしてもいい?」

『もちろん。君の声は、風のいちばん好きな音だから』

 その言葉を聞いて、さやは静かに目を閉じた。

 頬を撫でる夜風のぬくもりが、やさしい子守歌のように響いていた。

 その夜の夢の中で、さやはみのりと並んで丘を走っていた。

 風がふたりの背中を押して、桜の花びらが舞い上がる。

 遠くで、春風が笑っていた。


     ◇


 春は、いつか終わる。

 けれど、風が吹くたびに、あの手紙の花びらはどこかで誰かの肩に落ちているのかもしれない。

 「またね」と「ありがとう」を運びながら。

 木かげ町の丘の上、春守さまの枝が夕暮れに揺れた。

 その根元で、さやは空に向かって小さくつぶやいた。

「おやすみ、春風さん。また会おうね」

 風が静かに答えた。

『うん。また会おう。次の季節の入り口で』

 その声を聞きながら、さやは微笑んだ。

 木かげ町の空は、やさしい色に染まり、春の終わりを穏やかに見送っていた。

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