春風の声
木かげ町は、春になると風の色が変わる。
冬のあいだは白くて冷たい風が山の上から降りてくるけれど、三月の終わりが近づくころ、風はうっすらと金色を帯びて、道の両わきにある梅の花をふわりと揺らす。
その風をいちばん最初に見つけるのは、たいていある少女ーーさや、だった。
さやは、木かげ町のはずれにある古い一軒家に、母親と二人で暮らしている。
家の裏には小さな丘があり、そのてっぺんには町全体を見渡せる一本の桜の木が立っていた。
その木は町の人たちから「春守さま」と呼ばれていて、木かげ町に春を呼ぶ木なのだと、昔から言い伝えられている。
ある日、まだ肌寒い朝のこと。
さやは母親の「まだ早いわよ」という声を背に、上着を羽織って丘の上へと走っていった。
去年の春、初めて“風の声”を聞いたのも、この桜の木の下だった。
空は淡い灰色で、雲の切れ間からときおり光が差し込む。
そのたびに草の露がきらりと光って、春の匂いがした。
丘のてっぺんにつくと、まだ固い蕾を抱いた桜の木が、静かに空を見上げていた。
「……また来たよ」
さやが声をかけると、どこからともなく、やさしい風が頬を撫でた。
まるで返事をするように、桜の枝が小さく揺れた。
「春風さん、今年も来てる?」
さやは耳をすませた。
すると、風の中からかすかな声が混ざって聞こえた気がした。
それは、言葉というよりも、ささやきのような、あたたかくて懐かしい音だった。
『もうすぐ……春が、開くよ』
風が丘を吹き抜けていく。
髪が頬にかかり、スカートがふわりと舞った。
その瞬間、さやの胸の奥に、去年の春の記憶がよみがえった。
あの日も、こんな風が吹いた。
まだ幼かった彼女は、桜の木の下で泣いていた。
大切にしていたぬいぐるみがなくなってしまったからだ。
そのとき、ふと風が頬を撫で、どこからともなく声がしたのだ。
『泣かないで。君の声は、風に届くよ』
それが、さやと“春風”との最初の出会いだった。
◇
それから一年。
さやは季節のうつろいを覚えるたびに、丘に登るようになった。
風の声を聞くと、胸の中がふっと軽くなる。
悲しいときも、うれしいときも、風がちゃんと見ていてくれる気がした。
けれど、今年の春風は、どこか元気がなかった。
『……まだ寒いね』
『山の上の雪が、溶けないんだ』
そんな言葉が混ざって聞こえる。
木かげ町に春が来るのが、少し遅れているらしい。
さやは考えた。どうしたら風を元気づけられるだろう。
その夜、母親が夕飯の味噌汁をよそいながら言った。
「明日、おばあちゃんちにお花を届けに行こうと思うの。桜が咲いてたらよかったんだけどね」
その言葉を聞いた瞬間、さやの胸に小さなひらめきが灯った。
「お母さん、わたしね、春を呼べるかもしれない」
「え?」
「春風さんにお願いしてみるの。桜が咲けるようにって」
母は笑って、「じゃあお願いしておいで」と背中を押した。
◇
翌朝、丘の上は白い霧に包まれていた。
草は濡れ、鳥の声も遠くからしか聞こえない。
けれど、さやは迷わず桜の木のもとに立った。
両手を胸の前で組み、そっと目を閉じる。
「春風さん、お願い。山の雪をとけさせて、木かげ町に春をください。お花を咲かせたいの」
風はしばらく静かだった。
でも、やがて霧の中で何かがざわめいた。
木々の枝が揺れ、空の向こうから、あたたかい息のような風が吹き下ろしてきた。
『……ありがとう、さや。君の声、ちゃんと届いたよ』
その瞬間、霧がすうっと晴れていった。
陽の光が丘を包み、桜のつぼみがわずかにふくらむ。
そして、ひとひら、淡い花びらが、風に乗って落ちた。
さやは息をのんだ。
「咲いた……!」
春風がやわらかく笑ったような音を立てて吹き抜けた。
髪がなびき、花びらが彼女の肩にひとつ、ふわりと舞い落ちる。
◇
それから三日。
木かげ町の桜が一斉に咲いた。
町の人たちは口々に言った。「今年の春は、なんだかいつもよりやさしい風ね」と。
さやは桜の花を持って、母と一緒に祖母の家へ向かった。
道の途中、通学路の橋の上から見た川面が、桜の花びらでうっすらと染まっていた。
その光景に、彼女はそっと微笑んだ。
帰り道、ふと頬を撫でた風に、耳を傾ける。
『さや、ありがとう。春は君が運んでくれたんだよ』
「ううん。みんなが待ってたからだよ」
風の声はやさしく笑った。
桜の木の葉がさらさらと音を立て、空の上では雲がゆっくりと形を変えていく。
まるで、あの日の雲が手を振っているようだった。
◇
その夜、窓の外には満月が浮かんでいた。
さやは布団に入る前に、もう一度だけカーテンを開けた。
外の空気は少し冷たくて、でも心地よい。
「ねえ、春風さん。今、どこにいるの?」
小さく問いかけると、どこか遠くから返事が聞こえた気がした。
『海の向こう。次の町にも春を届けにいくよ』
「うん。また戻ってきてね」
『もちろん。春は、何度でも帰ってくるから』
その声を聞きながら、さやは静かに目を閉じた。
頬に残る風のぬくもりを感じながら、眠りに落ちていく。
夢の中では、満開の桜の下で春風と笑い合っていた。
◇
それから、木かげ町は、まるで新しい世界に生まれ変わったようだった。
庭の草にも、通りの石畳にも、春の光が宿っている。
桜並木を通る人々の笑い声が、町じゅうに響いていた。
さやは丘の上に立ち、風に髪を揺らしながら言った。
「春風さん、いってらっしゃい。また来年ね」
風がそっと頬を撫でた。
そのやさしさの中に、「また会おうね」という声が、確かにあった。
こうして木かげ町に、またひとつの春が訪れた。
それは、ひとりの少女の想いが運んだ、小さな奇跡の春だった。




