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1936年7月初 観艦式4日目、黄浦江上空にて

 まるで滴った涙のような形状とでも称すべきか。"雨燕"の操縦席は、"海猫"のそれと比べて、ずっと視界が広く取られている。

 "竜飛"乙小隊2番機を務める藤田航空士は、敬愛すべき宮本"隊長"の言葉を思い出し、丸みを帯びたガラス越しにちらりと周囲を見回した。


『空戦中に最も危惧すべきものは、相対する敵以外の介入だ。とにかく視界を広く取れ』

 自分にいつも金言をもたらしてくれる"隊長"も、4年前にはこの辺りで空戦を行ったという。

 そして、ロバート・ショートなる米国人義勇兵に圧倒された――。

 想像のできぬ領域だ。生田先任隊長もそうであったが、自分にとって彼らは絶対無敵の存在であり、どう頭を捻っても、膝を屈する場面を想像することができない。

 要するに、自分は井の中に囲われた蛙で、強者のたゆたう大海を知らぬということなのだろう。

 であるからこそ、飛び越えねばならぬ。 


 上方、まばらに浮かぶ薄い筋雲と透き通った蒼穹。周囲に敵は認められず。

 左右側面、機体側面に鮮やかなラインの描かれた小隊長機と、無地の僚機が等間隔に並んでいる。そして延々と水平線まで続く東シナ海の群青。そこに浮かぶ船は自分の敵ではない。自分は空の住民である。

 直下には護衛対象たる民間船。既に"占守"は合流体勢に入っており、艦尾を民間船に向けていた。

 そして――、

「トゥーピケット。一時方向、同高度に敵6機編隊」

 隊内通信にチャンネルを合わせてある無線機で僚機と情報のすり合わせを行う。

 藤田の通信にまず反応を示したのは一番機の青木興小隊長であった。


「ワン、セイム。敵の陣形は……、3機編隊(ケッテ)2小隊編成だな。爆装機3機に護衛機を3機つけていやがんのか。あれを護衛対象に近づけるわけにゃいかん」

 忌々しげな舌打ちが無線機越しに聞こえてきた。彼は"外様"出身の航空士で、覚えの悪い"生え抜き"をいたぶる趣味を持つ鼻持ちならない人間であったが、咄嗟の判断能力と空戦の腕前だけは認めている。あだ名はゲラだ。酒を飲むとゲラゲラと下品な笑い声をあげることや、起床訓練ゲットアップ時に気に入らない連中を順繰りに殴りつけていくことから、"生え抜き"連中がそう名づけた。

 藤田は目を細め、こちらと反航する正体不明6機編隊に焦点を合わせる。

 ずんぐりとしていて、複葉機と単葉機の合いの子のような形状をしていた。

 北方でやりあったことのあるチャイカ戦闘機だ。同期を初陣で撃ち落した憎き相手でもある。


「……チャイカですね」

 ごくりと唾を飲み込んだところで、ゲラが鼻で笑う。

「随分としおらしい態度じゃねえか、この野郎。元"一航戦"の俺様を殴り飛ばした威勢はどうした?」

「これが自分の平常です」

 ささくれ立った口調でそう返すと、意外にもゲラはすぐに引き下がった。


「まあ、良い。あれとは俺様もウラジオストクでやり合った覚えがある。もう前の戦いのようには良いようにやらせんぞ。ミヤから空戦の許可が下りた。全機、発砲準備」

「トゥー、ラジャー」

「スリー、ラジャー」

「フォ、フォー、ラジャー」

 3番、同期の長尾機。4番、新人の西沢機からも応答があった。が、初陣の西沢に緊張が見られる。

 何か気の利いた一言をとも思ったが、自分より先にゲラが茶化した声をあげる。


「ニシ公、お前童貞だろ」

「ど、ど!?」

「内地に帰ったら、俺様御用達の姉ちゃんがいる店に連れていってやる。エスハウ・プレーだ。どうだ、嬉しかろう。機銃をぶっ放すのと同じくらいにはイイぞ」

「は、はあ」

 二人のやりとりに藤田はふっと鼻息を漏らす。

 下品だが、西沢の緊張が解けたのが声色から良く分かった。今はそれで良い。


「光学照準の調子を確かめろ」

 ゲラの指示に皆が了解と操縦席正面に取り付けられたガラスレンズを立ち上げる。

 ピピピと電光が点り、何層もの円環が浮かび上がった。今年の初めより導入の始まった、見る角度を変えても正面に照準が映し出される新型の装備だ。

 全機異常なしを確認すると、更にゲラが機銃の試射を命じる。


「機銃、発射」

 7.7ミリ機銃と12.7ミリ機銃を一連射し、故障がないかを確認する。全機、これも不具合は見受けられず。

 戦闘準備が整った。

 渡り鳥の飛行を思わせる、典型的な3機編隊の2小隊編成に対してこちらは4機が方形スクウェアを形作るようにして飛行している。

 彼我の距離、およそ2.5km。

 ゲラが軽い口調で隊員に言う。

複縦陣形ボックスのまま敵とかち合うぞ。最優先目標は爆装機だが、無茶はすんな。とにかく、爆弾投下体勢を取らせなけりゃいい。ミヤから『様子を見ろ』とのお達しだしな」

 藤田も含めた「了解」の返答が一斉に一号機へと返されると、ゲラの不敵な笑い声がレシーバー越しに聞こえてきた。

「小隊長?」

 藤田が怪訝に思い問いかけると、ゲラが愉快そうに答える。

「……と言うのが建前で。できることは"全部"やって良いとさ。つまり、甲小隊の出番を奪っちまっても良いわけだ」

 成る程と苦笑する。要するにこの男は、今回の手柄を以て甲小隊の連中を引きずりおろそうとしているわけだ。独断行動は御法度だが、指揮所からの許しがあるなら話は別。藤田も彼の考えに否やはなかった。


「おら、エンゲージだッ! スロットル開けッッ!」

 血気逸った戦闘開始の合図が高らかに告げられる。

「トゥー、ラジャー」

「スリー、続きます」

「フォー、続きます」

 開かれたスロットルレバーに呼応して、"雨燕"の心臓ともいえるハ25式エンジンが唸りをあげた。

 回転計が2500まで跳ね上がり、速度計が時速345キロを指し示す。空冷複列星型特有の破れ鐘を思わせる振動と加速によって、藤田の身体はシートにぐっと押しつけられる。

 レシーバー越しにゲラが吼えた。

「アタック、センターターゲット! トゥー、挟撃ピンサーをかける。レフトからいけッ」

「トゥー、ラジャー!」

 乙小隊4機が、小隊長の指示通り敵6機編隊を包み込むようにして左右に割れた。悪夢に見るほどに鍛錬を重ねた連携だ。僚機との間隔は秒単位で狂いの無いよう調整している。

 敵の護衛は3機。2、2で分かれるこちらに対してどう対応するかが練度を測る指標になろう。


 見極める。反応はあまり早くはない。比較対象は"隊長"たちであったが。

「へっ」

 ゲラの薄ら笑いが聞こえてきた。藤田と同様の判断に至ったのであろうか。


 ……と、ここで爆装機が高度を上げた。逃げるのか。護衛機がバンクを振る。

 左右上方、まるで百合の開花を思わせる散らばり方だ。地上なら目の保養になったろうが、ここは空中。

 左1、右が2の不均等な分かれ方が気にかかった。

 遊軍を作らないのは、挟撃で確実に片側を迎撃せんがためか、それとも練度にばらつきがあるためなのか。


 自機が敵護衛機と反航で相対する。速度計が370kmを振り切った。十秒もしない内に、敵はヘッドオンの体勢に入るだろう。

 意図せずして、舌で唇を湿らせる。

 "隊長"の金言が思い出された。

『ヘッドオンはできる限り避けろ。あれは確率論で相打ちを狙う自棄鉢の戦法だ。高度有利で敵機の機首上げに制限がかかる状況下でかつ、現状では空戦でエネルギー差をつけられる恐れがあるときのみ、選択肢に入る。……まあ、通常は"オフセット・ヘッドオン・パス"を採るのが定石だろう』

 藤田は内心で了解と頷き、フットペダルを踏み込んだ。

 方向舵ラダーが動き、機体が左へと滑っていく。

 自然と敵機もこちらを追随せんと方向舵を使う。いずれは外側へと膨らんだ山軌道の頂点で再び相対することになろうが、そうは問屋が卸さない。


「ここだッ」

 彼我の距離700メートルにまで近づいたところで、藤田は操縦桿を引き倒した。

 180度のローリング、そしてそのまま背面姿勢から急降下する。目が回るような視界の変化に歯を食いしばり、すぐさま再び180度のローリングを行い急上昇。

 つまり、相手の機体を舐めるようにして、下を潜り抜けた形になる。

 無論、敵は追随できていない。

 マイナスG方向への機動に反応しきれなかったのだ。


 そもそも航空機が構造上マイナスG方向への加速を弱点とするのと同様に、人間もまたマイナスGの加圧には強くできていない。ここは戦場であり、敵の弱点は突くべきと考える。

 "隊長"を初めとする"鳳翔"からの移転組は、この手の技術が滅法上手かった。

 彼らと血反吐を吐く思いで模擬空戦を繰り返す日々に比べたら、自身と今相対しているチャイカのパイロットなぞ、未熟者ジャクも同然と言いきれよう。


 護衛をいなした藤田機の光学照準に、爆装機の下っ腹が収められた。

 電光で刻まれた円環で距離を測り、400メートルにまで詰め寄ったところでの機銃の一連射。

 曳光弾の混ざった火線が弓なりにチャイカへと吸い込まれていく。7.7ミリの弾丸がチャイカの木造主翼にささくれを多数刻みつけ、12.7ミリの弾丸が脆くなった主翼を容赦なくへ圧し折った。

 揚力を失い、きりもみ状に海面へと落下していく敵機を見下ろしながら、藤田は味方機に撃墜の報告を送る。


「トゥー。爆装機1、撃墜。アウト」

「畜生、先を越された……、と。ワン。爆装機1、撃墜。アウト、方位ヘディング230」

 隊長機もまた爆装機を1機海面へと叩き落としたようであった。

敵機首からの白煙を見るに、恐らくは無駄のないエンジンへの一撃。

 流石のベテランだ。下品な性格はともかく、腕前だけは認めざるを得ない。

 隊長機の指示に従い、藤田は操縦桿を引き倒す。

 方位230へと離脱。

 ここに至ってようやっと、反応の遅れた護衛機が旋回を終えてこちらへと照準を向けようとした。


 だが――、遅い。

 藤田は操縦桿を斜めに滑らせ、樽周り機動(バレルロール)の体勢に移行する。世界が回り、上からの加圧が藤田の身体を苛むが、回避機動を取った航空機はそう易々と撃墜されるものではない。

 案の定、射線をずらされた敵機の射撃は明後日の方向に曳光弾の放物線を描くだけに終わった。


「俺にばかり気を取られてどうすんだ、間抜け」

 傾けた操縦桿の角度を緩め、機動の挙動を大きめの斜め上方転回(シャンデル)へと移行させる。

 どうにも敵はあくまでも仇討ちを果たそうという腹積もりのようであった。

 自分が今、死の淵にあることに気がついていないのだ。

 だから……、淵から踏み出しやすいよう、そっと背中を押してやることにする。

 敵は上方転回に追従するため、機体の持つ運動エネルギーを位置エネルギーへと変換しつつあった。

 複葉機は運動性能こそ良好だが、単葉機に比べて速度を失いやすい。

 仰角を上げて失速した航空機など、狙い撃ちをしてくれといっているようなものだ。

 後ろを見る。

 藤田機のフォローに、四番機の西沢が回っていた。


「フォー、イン!」

 複縦陣形とは、単縦陣形トレイルを2列に重ねた陣形であるが、そもそも単縦陣形は防御面に優れた陣形だ。後方を僚機に任せられるため、死角という死角が存在しない。

 結果として不用意に前衛を叩こうとした相手は、フォロー機に死角を突かれる羽目に陥る。


 西沢機と背中を晒した敵機がすれ違った。直後、敵機がコントロールを失い、ふらふらと下へ落ちていく。

 まるで居合い抜きを思わせる精密射撃だ。機体後部、昇降舵エレベータへの一撃だった。ピッチアップを禁じられた以上、あの機体が再び浮き上がることはないだろう。


「フォー! 護衛機1、撃墜ッ」

 西沢にとっては初撃墜だった。自然と僚機から一斉に祝いの通信が送られる。


「よくやった」

「お見事」

「童貞卒業おめっとさん……、っと。しつけぇなあ。こん畜生どもめ……!」

 ゲラが苛立たしげに毒づいた。

 見れば、護衛2機を引きつけながら、螺旋機動を描いて降下機動を取っている。

「キンタマ押さえて、ついてこいッ!」

 あれは逃げる方も追う方もGに意識を持っていかれる危険な機動だ。"鳳翔"からの移転組は、こういう局面において息を吐くように危険な機動を選択する。頭のネジが一本も二本も外れているのだ。


「隊長、僚機を頼ってください!」

「いちいちうるせぇ! が、正論だ。長尾……、やれ!」

 螺旋機動の中途でゲラが急上昇を始めた。字面だけで言えば、苦し紛れに見せかけ相手を吊り上げているだけなのだろうが……、あれは完全に意識を持っていかれる。踏み込んだ本人でさえも。

 それでも追う側のチャイカに比べて、翼端から雲を引きながらも憎らしいほど安定した挙動を保っているあたりが、らしくもあった。


 かくして護衛2機の内、1機が四番機の長尾によって蜂の巣にされ、形勢が完全に逆転する。

 空戦開始から2分も経たない間の出来事であった。

 残る爆装機も脅威度は高くないだろう。

 西沢機が牽制している上に、"占守"が既に対応を始めている。


 眼下を見ると、"占守"の艦尾から護衛対象をすっぽりと覆い隠すような白煙がもくもくと吐き出されていた。

 4塩化珪素とアンモニアを用いた煙幕である。


 この煙幕による防御戦術は、航空攻撃に対して最も効果が見込めると総隊が判断したものの一つであった。

 そも、航空攻撃において警戒すべきものは投下される爆弾や魚雷であったが、これらは航空機が運ぶには少々重すぎる。

 自然と一機が運ぶ数は限られて、攻撃機は貴重な爆弾を必中の思いで投下することになろう。

 煙幕防御は、この必中を期した攻撃を確率論の世界に落とし込むことが可能だった。

 狙いの付けられない攻撃機は、投下体勢を取れぬままに艦隊の上空で右往左往することになる。

 その隙を対空機銃、ロ式弾ないし、護衛機が突くわけだ。


「アタック、トゥー! 藤田ァ、お前のトレイルが爆装機をやれッ」

「トゥー、ラジャー」

「フォー、ラジャー!」

 スロットルを再び開き、空戦により失ったエネルギーを稼ぐように爆装機の直下へと軟降下していく。

 直下に至った後は、急上昇で下っ腹を目指す。防護機銃のない爆装機にとって、直下は死角だ。敵は慌てて回避機動を取ろうとするが、主翼に抱えた爆弾が要らぬ空気抵抗を作り出し、動きが鈍い。

 すぐにその場で爆弾を捨ててしまえば、生きる目もあったのだろう。だが、敵はそうしなかった。

 

 だからこそ、藤田機の連射を受けて補助翼エルロンをはぎ取られることになる。ゆっくりとフラットスピンに陥った機体に、西沢機の12.7ミリが降り注いだ。


「爆装機撃墜。共同戦果です!」

「おう、ご苦労さん! 残る敵は……。逃げるつもりか。深追い禁止」

 ゲラの判断に、藤田も無言で頷いた。

 今の自分たちはあくまでも護衛が主目的であり、功に逸って護衛対象を無防備に晒しては目も当てられない。たとい、敵が空域に存在していないとしてもだ。


「小隊長、このまま護衛の続行ですか? ……小隊長?」

 ゲラは答えなかった。

「妙だ。奴らは何を待っていた? 何かおかしい。しっくりと来ねえ。全機、全周囲警戒」

「エッ」

 突然の指示に藤田は戸惑いの声を上げる。既に周囲に敵はいないのだ。左右にも下方にも上方にも……。

 藤田はじりじりと照りつける陽光に目を細めた。何か大小の異なる黒い点が四つ。眩しくて、見えづらい。

 あれは――。


離散ブレイクだ! とにかく、四方に逃げまくれぇッッ!!」

 切迫したゲラの叫びに、藤田は反射的に操縦桿を横倒しにし、フットペダルを蹴飛ばした。


 そして、自分が飛んでいたはずの位置を黒い影が通り過ぎていく。

 ……何だ。

 恐ろしく速く、そして迅い。あれは何だ?


 影が再び上方へと舞い上がる。怖気を催す上昇能力だ。

 ばっさりと翼端のカットされた主翼は漆黒に塗りたくられた頑丈そうな機体と比して、明らかに薄い。

 吸気口エアインテークは下っ腹にあった。液冷か水冷。それにしてはやけに機首が太く、大排気量のエンジンを載せているのだと容易に見て取れる。

 ここに至って、ようやく理解が追いついてきた。

 今、自分を狙ったのは、正体不明の戦闘機だ。それも恐ろしく高性能な――。

 ひりつく喉に喘ぎながら、影を目で追っているところに、


「――馬鹿野郎、次が来るぞ!」

 上後方を振り返ると、間髪入れずして別の影がこちらに向かって急降下で迫っている光景が目に飛び込んできた。

 思考が真っ白く塗りつぶされ、ただ教わった回避機動を機械的に取り続ける。

 機体が揺れた。

 撃たれたのかもしれない。だが、何も分からない。


 少なくとも飛行に問題はなさそうだ。

 閉じかけた目を見開き、慌てて周囲の状況を確認する。


「な、長尾さんッ!?」

 そして、気がついた時には既に長尾機の主翼が一撃でもぎ取られているところだった。

「この頓馬トンマ、やられやがったか!」

 ゲラがガラス窓を殴りつける音がレシーバー越しに聞こえてくる。


「脱出だ。とにかく脱出しろ!!」

 ゲラに命じられ、長尾がコックピットから飛び出す……。

 が、その体をスピンに陥った主翼の片割れが強かに叩き落とす。


「あっ」

「長尾ッ!」

 無線機から離れた以上、最早同僚の無事を確認する術はなかった。

 落下傘は開いたようだが、長尾自身がぐったりと吊られて動かない。


「長――ッ」

「藤田ァ! ニシ公ッ! ぼけっとすんな、3機編隊(ケッテ)を取るぞ。味方の背中は命がけで守れ!」

「ラ、ラジャー!」

 何なんだ、あの編隊は。

 4機編成。明らかにこちらと同じ戦術思想に基づいて編成された航空部隊。

 何故、あれらはチャイカと同行していなかったのだ。爆装機が全て落ちた今、奴らの目的は失敗に終わったはず。

 いや、そもそも敵の目的とは一体何だったのだ?


 藤田の混乱をあざ笑うように、"黒い"4機の戦闘機は十分な高度を稼いだ後、再びこちらへと機首を向ける。

 死を呼ぶ黒い稲妻が再び藤田たちへと降り注いだ。


「敵の懐に潜り込めッ。見たとこ、奴さんらのロール速度は大したことねえッッ!!」

 ゲラに言われるがままに、進行方向を急降下する敵機の懐に取る。一撃目は何とかやり過ごした。

 だが、二撃目。

 機体姿勢を水平に戻したところを恐らくはフォロー機に狙われた。

 敵の機銃が、こちらのコックピットへと向けられている。


「ぼやっとすんな。下回り旋回(スプリットS)だッ! 藤田ァ!!」

 その言葉に背中を押されるようにして、藤田は無心で操縦桿を傾けた。常に喉元へと銃口を突きつけられている気分だ。口の中で胃液が灼けるように広がっていく。

 直撃は避けた。

 だが、もう駄目だ。

「藤田さんッ!?」

 昇降舵が効かない。撃ち飛ばされたのだ。

 気流の剥離が起こったのか、急な横への強い揺れが生じる。無論、回復の見込みはない。

 北方で流氷へ叩き落とされた同期の顔が、脳裏に浮かび上がった。

 それをかき消すように、ゲラが怒号を放つ。


「とにかく、浮かぶための努力を全て行え! 方向舵ラダーで飛べ! フラップを下ろせ、藤田ァ!」

 無我夢中で、フラップトリム用のクランクを回す。自分は涙を流していた。死ぬのが怖いというのも勿論あったが、それよりもこうして仲間に迷惑をかけていることがとにかく辛い。


「すいません……!」

「うるせえ、飛べッ!」

 フラップが降りた瞬間、ゆるやかなバレルロールのような挙動を機体が取るようになった。すぐに墜落するわけではない。少なくとも、死に至るまでの時間が延びた。

 藤田が稼いだ時間を守らんと、ゲラが怒号を上げながら、降下中の"黒"に向かって機銃を乱射する。

 そのほとんどは空しく宙を穿つだけであったが、偶然にも一機の補助翼エルロンに命中したらしく、明らかに動きが悪くなる。


「クソったれが! ざまあみやがれッ」

 4機の注意がゲラの駆る小隊長機へと集中する。

 急降下しては速度を利用して上昇する、"隊長"好みの一撃離脱戦術だ。

「ゲラ小隊長!」

「ゲラって何だ、ニシ公テメー!」

 恐らくは時速500kmは優に超えているであろう、矢継ぎ早の攻撃に晒されながら、ゲラが勇ましく吠える。


「バカヤロー、上がったり下がったりそれ止めろ! 卑怯じゃねーか、テメーら! その機体寄越せッッ」

 悪態をつきながら、まるで巣を守る親鳥のように右へ左へと舞い続けるその技術に、藤田はただただ感嘆した。

 彼は間違いなく日本有数のエースパイロットだ。元"一航戦"は伊達ではない。

 だが、回避にはエネルギーが必要だった。

 エネルギーは高度によって生まれる。

 ゲラは直にエネルギーを稼ぐための高度を失うことになるだろう。

 時間の問題だった。


「おい、もう"時間"だ! 早く"やってこい"!!」

 一瞬何を言っているのか、良く分からなかったが、藤田が理解するよりも先に結果がもたらされた。


 絹を裂くような高音と断続的な重低音が、ドップラー効果を伴って通り過ぎていく。

 見慣れた"紅白"の軌跡が。反転下降を始めんとする"黒"の3機を打ち砕いたのだ。

 敵機体がコントロールを失い、ふらふらと失速落下を開始する。

 その全てが操縦席の窓ガラスを正確に撃ち抜かれていた。

 藤田は一瞬の内にそれを成した"紅白"を目で追う。


 白地の塗装にポイントの日の丸。大きな三枚羽根のプロペラと比べて細く絞り込まれた機首。翼端に垂直翼を付け足した逆ガルの主翼によって安定した、少しもぶれることのない挙動。

 "鶚"だ。"竜飛"最強の甲小隊がようやく合流を果たしたのである。

 "黒"3機を正確に狙い撃ったのは、陸海軍から出向してきたベテラン勢であった。

 加藤建夫航空士、所茂八郎航空士、若松幸禧わかまつゆきよし航空士。そして――。


 残る1機に止めを刺そうと、藤田が"ライバル"と認めた若手航空士……、篠原が敵機を追う。

 明らかに時速500kmを超えた速度で回避機動を取る"黒"に対し、"ライバル"の駆る機体は高速度の機織り機動(ウィーブ)をしながら追いかけていた。

 波が大きい。藤田は一度も乗ったことがないが、恐らく凄まじいGが航空士の体にかかっていることであろう。


 "鶚"の逆ガル翼は時速600kmを超えてからようやく良好な運動性能を発揮し始める。

 故に航空士は細やかなスピードを維持するために可能な限り、最適な速度を落とさない工夫を重ねる必要があった。

 今、目の前で行われているハイG・ラグパーシュートもその一つだ。

 従来の航空機が行うハイ・ロー・ヨーヨーではピッチ角とエネルギー法則の関係上、速度の損失を防げない。

 それに比べて、平面的に行われる緩やかなウィーブ機動は適切なピッチ角さえ押さえておけば、速度の損失を可能な限り0に近づけてくれる。

 

 "ライバル"機のラグパーシュートはため息の出るような見事さであった。

 常に敵機の斜め後方を占有し、右に左に虎視眈々と一撃のタイミングを窺っている。

 吸気口の下部から覗く12.7mm機銃が火を吹いた。

 敵機の翼端が吹き飛ぶ。更に覆いかぶさるようにして放たれた追撃が正確に昇降舵を狙い撃った。


 先程まであれ程猛威を振るっていた"黒"だというのに、落ちる時は驚くほどに呆気ないものだ。

 海面に突き刺さった最後の一機を見下ろして、藤田はようやく自分が助かったことを悟った。


「チクショー、所隊長遅いですよ!」

「スマン。長尾の救助要請は?」

「そりゃ、もうしてありまさあ!」

 気安い口調でゲラが甲小隊の隊長機に共通回線で語りかける。


「西沢、良く生き残った」

「は、はい!」

「藤田」

「あ――」

 不恰好にも昇降舵を失った航空機を必死に操縦している自身の姿が恥ずかしくて仕方がない。

 何よりも、"鶚"に乗っている同格と思っていた"ライバル"に見られていることこそが、屈辱そのものであった。

 歯を食いしばり、続く言葉を覚悟して待つ。


「……良く落ちずに耐えて見せた。ミヤと同じだな」

「へっ?」

 思わずかけられた暖かい言葉に、言葉を失ってしまう。

 甲小隊の隊長は、自分にとって政敵のようなものだ。"生え抜き"の居場所を奪い取り、我が物顔で闊歩する悪の親玉であった。

 何度も食って掛かり、掴み掛かり、それが、自分を労っている。


「隊長、そりゃ違うでしょーが。ミヤはフラット・スピンから立ち直って見せたんだ。こいつは単なる昇降舵の損傷。俺だってやれるよ」

「だが、"飛べない航空機"を"飛ばしている"ことに変わりはないだろ。こいつは上手くなるよ。うちの次期エースだ」

 それから先のやりとりは良く覚えていなかった。


 "占守"のデリックで海面に浮かんだ機体を吊り上げられるまで、人目も憚らずに大泣きをしたことだけは良く覚えている。

 ――次は間抜けを晒さない。

 この"人たち"に情けない姿を見せるわけにはいかないと、心に決めた。




 その日の夜、藤田は医務室で重態の長尾と並んで泥のように眠る中、年甲斐もなく航空機で活躍する夢を見る。

 "鶚"を乗りこなし、"黒"を相手に古今無双の戦いぶりを見せる夢だ。

 そして、それは窮地に陥った長尾を救い、西沢を守り、ゲラと並んで甲小隊の戦果を凌駕する夢でもあった。

 




1936年7月初 観艦式4日目夜、"浅間丸"一等客室にて



 米大使ジョセフ・グルーは自室にて一人優雅な夜を過ごしていた。

 普段ならば、一人で過ごすことなど滅多に無い。外交官としての責務もあるため、大抵はビジネスパートナーと夜会に参加し、ウィットに富んだジョークを言い合っているのが常である。

 それをこうして個室に軟禁されたままでいるのは、ひとえに安全を考慮してのことであった。

 日中にこの船の中でテロリストが暴れまわったことは、既に船長自ら各乗客に詳しく打ち明けられている。

 曰く、テロリストは既に確保済みであるが、念のために乗客は部屋で大人しくしていてもらいたい、と。

 曰く、目的地であった上海も国軍と武装勢力の衝突が起きていると。

 曰く、安全を期して台湾島に一時寄港することになる、と。


 随分、馬鹿正直に慌しさを見せたものだと船長の様子を思い出し、ジョゼフは含み笑いを浮かべた。

 燻らせたまま灰皿に置かれた葉巻が、くしゃくしゃに丸められた紙くずをゆっくりと灰に変えていく。

 自室に軟禁される前に、ビジネスパートナーより渡された紙片であった。内容は確認したため、最早この世に在る必要はない。

 紙片が燃え行く様を満足げに見下ろしながら、ジョゼフはソファのアームレストに肘を突き、紅茶の入ったティーカップにそっと口をつけた。

 セイロン産の茶葉である。スズランを思わせる甘い風味が小気味良い。

 ここ最近はビジネスパートナーとの間柄を気にして、グリーンティーばかりを嗜んでいたために、久しぶりの紅茶は中々に新鮮。

 流石大英帝国のもたらした品だ。英国との付き合いも悪くないな、と嘯く。


 今回の一件は、多くの者が得をする良いビジネスであった。

 表面だけを見てみれば、上海で反民族主義者による大規模な武力蜂起が勃発し、前王朝のラストエンペラーが国外へと脱出した。更に列強の財産は脅かされ、そのどさくさに紛れて米週刊ニュース誌『タイム』の編集長であるはずのヘンリー・ルース氏が悪漢の手によって殺されてしまった。

 このように痛ましい話が並んでいるが、各方面に齎された影響は決して悪いものばかりではない。


 まず何よりも祝うべきは、喫緊の懸念事項であった中国国民党と共産党の合作を計画段階で阻止できたことだ。

 骨肉の争いを繰り広げていた国共であったが、実のところその懐は共に上海の浙江財閥とユダヤ財閥サッスーンに握られていた。両者が「矛を収めよ」と命じれば、渋々であろうとも和解の場に立たざるを得ない。

 合作への糸口は、恐らくサッスーン家がお膳立てをしていたのだろう。

 このところシオン共和国の同族どもに手綱を握られつつあった彼らは、起死回生の一手を図るために中国の利権構造を一気に進展させようと目論んでいた。

 列強各国が喉から手が出るほどに欲しがっている中国利権を独占的に占有するためには、一にも二にも入念な準備と名分が必要となる。それこそ日本が満州事変を成功させるために、鉄道を爆破し上海で意図的な暴動を引き起こす程度の仕込みはする必要があろう。


 サッスーンの描いていた筋書きは恐らくこうだ。

 まず上海に軟禁されていた前王朝のラストエンペラーを殺害する。そして、返す刀で前王朝の残党をたきつけ、中国全土を内乱状態にまで陥らせる。その際、自分以外のユダヤ資本にダメージがいくよう、それとなく暴動の誘導を行うことができれば何も言うことはない。

 仕上げに内乱の鎮圧を電撃的な和解を果たした国共連合が果たすことで、国内に自らの息がかかった軍隊を余すところなく配置する。


 巷では「ユダヤの陰謀」とやらが世界を内々に動かしていると専らの噂だが、これはまさしくその典型であろう。尤も、蓋を開けてみればただの身内争いでしかないのだが……。


 さて、この一件で注目すべきはサッスーンや浙江財閥と共謀して話を進めていた一人の中に、現合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが名を連ねていることだ。

 自身にとって表向きのボスとなるこの男は、クリーンなイメージで票を取った劇場型の政治家であり、貧困層の救済者を自称している。

 また、統制経済主義者であると同時に、親海軍派の拡大主義者でもある。


 彼にとって中国市場の開拓は、米国経済の建て直しのためにも、彼の一族が深く根を張る中国利権の拡大のためにも、公私を兼ねて果たさなければならない最上の課題であった。

 故に彼がサッスーンの手をとること自体は何ら不思議ではない。


 もし……、彼らの企みを疎ましく思う"誰か"が、臆して妨害工作を行わなかった場合、およそ次のように国際情勢が動いていった筈である。


 まず、中国に親米統一政権が誕生していた。容共路線の統制経済主義がまかり通る、西欧・サッスーン以外のユダヤ資本から独立を狙う安定政権だ。

 それらの資本を追い出すためには、列強を黙らせる圧倒的な武力と政治力が必要になろう。そしてそのような力を持つ存在は米国以外に在り得ない。

 だからこそ、中国は米国と手を結ぶべくラブコールを送る。

 これにルーズベルトが先述の理由から手を差し伸べる。


 そもそも彼はラディカルな資本主義に傾倒する西欧連合と社会主義的な経済体制をとる東欧連合の対立に、米国が巻き込まれる可能性を危惧していた。巻き込まれぬようにするためには、環太平洋を縄張りとする覇権的な第三勢力を構築し、両者が容易に手を出せないよう旗色を明らかにするしかない。


 ジョゼフには、米国内で連日放送される大統領自前のラジオ番組と、お抱えのマスコミによる一大キャンペーンが世論を親中・同情路線に誘導する様が目に浮かぶように想像できた。

 昨年まで復調路線にあった経済も今年に入ってから低迷しているとはいえ、まだ今の大統領支持率ならば、中国経済を復興させるための関連法案をまとめることも無理筋ではないだろう。


 米中蜜月。

 まさに米国内"チャイナロビー"の抱く夢の成就そのものだ。


 ところで――、ここで米中が新体制の黄金時代に移行してしまうと聊か割を食ってしまう勢力がある。

 西欧列強。更に東欧連合。そして、大東亜連合加盟国とジョゼフたち"ジャパンロビー"だった。

 アジア圏において勢力拡大と欧州における損失の補填を図っていた西欧列強にとって見てみれば、中国情勢は不安定であればあるほど良い。その分、介入の機会も増えるからである。

 東欧連合にとっても同様に、アジア情勢の安定化は歓迎すべき事態ではなかった。西欧の目が東亜植民地に向かっている間は、自分たちに向けられた圧力も減じられるからである。

 大東亜連合……、とりわけシオン共和国にとっても国共の合作による中国の強化は防がねばならぬものだった。満州地域に投じられた資本は、彼らにとって必ず回収しなければならない遺産だ。それこそ、内戦を引き起こしたとしても。


 更に、自分たち"ジャパンロビー"は米中蜜月に付随する"米日の緊張緩和"を何よりも恐れた。

 そもそも、ジョゼフたち"ジャパンロビー"は親日的な主義主張を繰り返してはいるものの、別段"米日の平和"を希求して議会に圧力をかけているわけではない。

 極端な話になるが、仮に両国で軍事衝突が起きたところで構いはしなかった。


 戦争は国内の軍需産業への資本集中を余儀なくする。米日の軍需産業には自分たちの投じた資本が多かれ少なかれ入っているわけで、国費を投じて自分たちの息がかかった産業を育ててくれるというのならば、まさに願ったり叶ったりだ。


 別に、日本が戦争に負けたところで自分たちにさしたる損はない。

 占領政策に関わる形で自分たちの影響力を強めることができるからだ。

 そして、これは万が一にも有り得ないだろうが……、別にアメリカが負けたところで問題はあるまい。

 たとえアメリカが負けたところで日本に今まで投入してきた資本は無駄にならないわけで、むしろ、和平工作に関わる形で自分たちの影響力を強化できる見込みがあった。


 結局のところ、自分たちが唯一恐れる事態とは、"左派政権による経済の統制化"のみである。

 "アカ"は駄目だ。ロシア革命を鑑みれば、増長した国家権力が外国資本を如何に扱うかなど、手に取るように理解できよう。

 現在の日本は、どうにも"アカ"の気配が濃密に漂っていた。

 日本皇帝の"民主化宣言"はどうにも信用がならんというのが、ロビー構成員の総意である。



「……して、今回の一件。結局誰が裏で糸を引いていたのだろうなあ」

 紅茶の甘みを舌先で感じながら、独り呟く。

 西欧は自らの租界が脅かされたとして、今までよりも強引な介入を中国に対して始めることであろう。得をしたことは間違いない。

 東欧はひとまず、安全保障上の懸念の一つが解消されたことになる。僅かながらに得といったところか。

 シオンは日本経由で皇帝の亡命を促すことだろう。後々の切り札とするためだ。満州に残された資本を思えば、大幅な得が見込まれる。

 そして自分たちは――。


「うん、これは皆が共犯者だな……」

 何時だって、物事が拗れ始めるのは責任の所在が不明瞭になった時なのだ。

 とりあえず、日本に戻って自らが成すべきことが、米日の平和友好を国民に訴えかけることと決まった。



 全く、空々し過ぎて欠伸が出る。


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