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1936年7月初 観艦式4日目、"竜飛"艦内にて

ちょい短めですが、きりがいいので投稿します。

 ――記念すべき式典である以上、無数のアクシデントを想定していたが、まさかここまで最悪の事態が起こり得るとは思ってもみなかった。

 何故、もっとうまくできなかったのかと悔恨に握り拳を固めつつ、大発動艇によって"竜飛"に乗り移った千早は駆け足で艦隊司令部へと向かう。

 頑丈な鋼鉄扉のレバーを回して、アイランド内へと入室すると、空調にかき回されつつも熱気の籠もった空気と階を隔てて置かれた超短波警戒機稼動用発動機の音と振動が肌に伝わってくる。

 薄暗い通路に金属質の足音を響かせ、たどり着いた目的地は、上から下まで隊員たちの怒号で満ち満ちていた。


「宮本航空参謀、入ります!」

 大声で入室を告げ、千早はまず顔を見せるべき司令官たちの姿を探す。

 艦隊司令部は縦に長い大部屋をおよそ3層の棚床で間仕切りした形状をしていた。

 上層には超短波警戒機の観測設備が置かれている。観測設備の周辺は厚い暗幕で光量が押さえられており、こちら側から内部を窺うことはできない。

 段々になった吹き抜けを見下ろすと、下層には水測用の機材と通信設備が置かれた区画が見える。通信設備の周囲に人が集まっているようだが、目当ての人物はいないようだ。

 となると……。千早は脇の階段を下り、上層と下層に挟まれた中層へと足を運ぶ。

 どちらかといえば下層よりの位置に作られた中層には、艦隊の頭脳となる艦隊司令所が設けられていた。浮島のようになったスペースに配置された大量の資料が置かれた棚と、海図を広げた大机。そして、縦に置かれた大きなガラス板が目に付く。


 千早はガラス板の表示に目をやる。

 まるで縁日の的当てのように幾重もの円が描かれたガラス板には、その中心部に天を正面、地を背面とする船を模した磁石が張り付けられており、今も同僚の参謀たちが円周の各所に磁石を置いては動かし、動かしては新たに置く作業を続けている。


「宮本参謀、報告を」

 "竜飛"の艦長である新見政一の隣で海図を見下ろす百武源吾副司令が、こちらを見ずにそう言った。

 千早は百武を含め、中央で参謀たちの情報に耳を傾ける佐藤鉄太郎司令官にも向けて敬礼し、端的に事情を説明する。


「"浅間丸"船内にテロリストが潜伏していました」

 千早の報告に百武が目を剥き、口から泡を飛ばす。

「テロリストだとッ? 民間人に被害は!?」

「一般客として乗船していたヘンリーなるユダヤ系の民間人男性が一人犠牲になりました。男性と同船していた中国人女性は無事でしたが、凶行を目撃した男子学生がテロリストの手によって重傷を負わされています。テロリストは居合わせた民間人の手によって無力化され、我々に引き渡されました」

 重傷を負った男子学生のことを思い、千早は下唇を噛む。死亡した民間人のことも勿論痛ましく思うが、負傷した男子学生は特別であった。

 千早にとって、身内も同然の存在であったからである。


「……失態だな。これは」

 ぎりりと苛立たしげに吐き捨てる百武に、千早は頭を下げる。

「面目もございません」

「いや、貴官だけの責任ではない。これは総隊全体で戒めるべき失態だ。次に活かさねば……」

 怒りを静めんと百武が深く息をつく。と、今まで聞き役に徹していた佐藤が口を開いた。


「……まるで示し合わせたように事が起こったものだな」

「と仰いますと?」

 新見の相槌に、佐藤は頷き更に続ける。


「上海のことと言い、明らかに入念に準備されている。出来すぎているのだ。政治の"臭み"があると言い換えてもいい。上海で勃発した大規模テロは、単なる感情的なものではないのかもしれん」

 言って佐藤は総隊員を見回し、大声で檄を飛ばした。


「いずれにせよ、最早これは実戦である。一つの油断が罪もない命を百は奪うと心得よ。総員、兜の緒を締め直すように!」

 周囲の総隊員が一斉に敬礼する。

 佐藤はこの護民艦隊において、まさにカリスマとでも言うべき存在であった。その一挙一投足が総隊員の士気に影響を与える。

 事実、檄を受けた隊員たちの動きから、不意のアクシデントによる困惑の色が消え失せた。

 各自が有機的に連携を始め、まるで一つの大きな生き物のような動きを見せる。

 千早も自らの役割を果たすべく、下層へと階段を滑るように下りていった。


 千早の役割は航空隊の偵察・戦闘指揮である。

 折り良く艦隊航空隊は展覧飛行をこなすためにほぼ全てが発艦を終えていた。

 大量の燃料を増槽タンクに積み込んでの飛行であったから、このまま偵察を始めてしまってもかまわないだろう。


 通信区画に近寄ると、すぐにその場の現責任者がこちらの存在に気がついた。

 青木武通信士だ。

 今は新人航空士の訓練教官と艦載機の発着艦管制員を兼任しているが、千早不在の際にはこうして現場をとりまとめる役割も担っている。


「帰ってきたのか、ミヤ。いや、宮本航空参謀。預かっていた航空隊の管制権を返してもいいか? 正直、いっぱいいっぱいなんだ」

 苦笑いを浮かべるタケの物言いに、有事とはいえ思わず頬を緩ませる。

 日頃、余所向けに見せている不仲は互いに了承してのことであった。心底嫌い合っているわけではない。千早にとってのタケは、今も新参の頃から変わらぬ憧れの対象だ。


「ミヤで良いです、タケさん。マイクロフォンお借ります」

 タケから無線通話機を受け取り、航空機各機に指示を飛ばす。


指揮所コントロールより達する。"竜飛"乙小隊は西方の偵察を浅く、丙小隊は北方の偵察を深く行え。"富山""対馬"甲以下4隊は南方を広く見て回れ。"竜飛"甲小隊は発艦準備」

 各隊から「了解」の応答が返ってくる。

 艦隊近辺を飛行している隊への連絡は、無線電話が通じて楽でいい。

 だが、偵察は無線電話の範囲外においても行われる。そこで電信や、偵察情報を中継して指揮所にもたらす中継機の存在が必要となるわけだ。


「"荒鵜"ワンフライト、北方の偵察中継を。トゥーフライト、南方の偵察中継を」

「参謀、西方の中継は?」

「領海、領空が複雑に混じりあっています。まず、"浅間丸"に乗り込んだ外交官に事情を説明し、領空内を航行するための許可を取りましょう。事情が事情です。断りはしません」

 司令所経由で指示が下され、通信士の一人から了解の返事が返ってきた。そして、上空を飛行していた航空隊が一斉に四方へと散らばっていく。

 偵察結果を待つ間に、上層から電波探知の結果がもたらされた。


「短警"山"報告。方位270。衰調深い」

 超短波警戒機の指示機は陸軍との共同研究によって生み出されたため、最新のブラウン管表示式を採用しているが、"波形"を読みとるという根本的な点において、総隊で用いられていた水中聴音補機の表示形式と変わらない。

 "衰調"が深いとは受信波の強弱にばらつきがあることを意味し、多くの場合に空中を単機で飛行する未確認物体の存在を示していた。


「……単機というのはどういうことだ? 欧米か民国軍の偵察機だろうか? それなら、もうちょい数が飛び回っていてもよさそうだが」

 タケの疑問に千早は頷き、"浅間丸"との連絡を担当していた通信士に目を向ける。


「"浅間丸"の返事は?」

「英米の許諾を貰えました。フランスさんは即座の判断が出来ず、植民地艦隊の出向武官と話し合っているようです」

「そうか」

 上海の共同租界は英米が牛耳っている領域だ。大陸南方にはみ出しさえしなければ、フランスの許諾を得られずとも問題はないだろう。


「"竜飛"乙小隊、深く見て回れ。中継は"占守"に任せましょう。司令官に具申を」

 すぐさま中層の司令所より許諾の返事が返され、"占守"へと指示が飛ばされた。そうしている内に四方を偵察していた航空隊から偵察の結果がもたらされる。


「"竜飛"丙より報告。北方、独航する小型船1。漁船と思ゆ。保護の要あり」

「"富山"丙、"対馬"乙より報告。南方、小型船2、貨客船3。保護の要あり」

「指揮所より達する。保護の要を認む。"竜飛"丙は漁船の船籍を確認せよ」

 と司令所より南方民間船を"浅間丸"以下馬公行き船団に合流させるよう指示が下された。英断である。国籍はどうであれ、民間船舶の護衛は総隊の存在意義そのものと言って差し支えない。それに、幅広く守るよりも固まってもらった方が誘導もしやすかろう。

 すぐさま南方隊に船団への誘導指示を下し、続報を待つ。


「短警"山"報告。方位180。衰調微少。距離遠くも近づく」

「180だって?」

 意外なところから飛行物体の報告がやってきた。

 方位180は"竜飛"から見れば背面に当たり、東方に当たる。東方は日本の勢力範囲であった。となれば、日本の航空機だろうか。

 航空指揮所がにわかに慌ただしくなるが、これには百武副司令官がすぐさま答えを提示してくれた。


「恐らく、佐世保に停泊していた第二航空戦隊だ。大陸情勢を偵察すべく、航空機を飛ばしてきたのだろう」

 百武の言葉に千早は眉を持ち上げる。

 第二航空戦隊は千早が海軍を辞めてから創出された部隊であった。だからこそ、その存在にピンとこない。


「どう対応すべきでしょうか?」

「海軍暗号で電信を飛ばしておけ。『東方に居られる貴艦は"蒼龍"なるや?』と。ついでに"浅間丸"の山本にも平文で確認を取って、情報の提供を打診。それで仕舞いだ」

 良く分からぬ指示であったが、基本的に司令所の指示は絶対だ。通信士が電信を飛ばし、更に続報を待つ。


「"竜飛"乙より報告。黄浦江ファンプーグン上空を周回する民間機1。港湾部に停泊する民国艦2隻を認む」

 民間機ということは新聞社の保有機であろうか。命知らずにも武力衝突を空撮しようとするような新聞社は世界を広く見て回っても中々ない。恐らくは米国かシオンの新聞社だろう。

 それよりも停泊中の軍艦の方が気にかかった。


「指揮所より達する。民国艦の艦種と状況を報告せよ」

「"竜飛"乙。2000トン級軽巡洋艦と思ゆ」

 もたらされた情報から、上海沖に停泊している軍艦は、軽巡洋艦"寧海ニンハイ"と"平海ピンハイ"であることが判明した。

 短艇が行き来しているわけでもなく、乗組員の動きを見る限り、どうやらテロに関しては静観の構えを見せているらしい。これはどういうことだろうか?


「"寧海"に平文で電信。『貴艦隊は何故動かざるや』」

 返信はすぐにやってきた。


「"寧海"から返信やってきました。『我不能動』と。繰り返します。『我不能動』です」

「どういう意味だ、そりゃあ」

 タケが呆気にとられた表情を浮かべた。

 字面だけを見れば、『我不能動』は「我々は動きたくとも動けぬ」を意味する。機関の不調と言うことはないだろう。民国にとって、軽巡洋艦は国を背負った海上戦力の一つだ。

 なれば、政治的な圧力によって動けぬということだろうか。だがそれも奇妙な話であった。何故、自国で起こった危機に対して、国防戦力が動けぬなどという事態が発生するのだ。

 千早たちは困惑の相を漂わせて司令所の判断を仰ぎ待つ。

 しばしして、佐藤から指示が下された。


「"寧海"へ電信。『貴艦隊は敵に敵するか』と」

 これも返信はすぐにやってくる。『不能敵』とのことであった。

 テロリストと敵対することができない。つまり、何らかなしがらみが彼らの行動を縛り付けているわけだ。

 

「"竜飛"乙。民間船の出港を確認」

「このタイミングでかっ!?」

 突如、状況が激変した。

 中層で新見が驚きの声を上げる中、再び"寧海"より電信がやってくる。


『我、王寿廷なり。日国海軍に"御座船"の保護を求む』

 この形式に囚われぬ電信に、総隊の困惑は更に深まった。これはただ事でない事態とみて、佐藤や百武、新見といった司令部の面々も通信区画へ続々と集まってくる。


「王寿廷提督といえば民国練習艦隊の司令官だろう。何故、官職を併記しないんだ?」

「個人的な依頼、ということでしょうか?」

「罰されることも覚悟しているというわけか。ならば、"御座船"の意味も限られてくるな……」

 "御座船"とは王や将軍を乗せた船を指す。だが、厳密に考えれば中華民国に王はいない。国家主席という意味ならば、林森リンシンがあたるだろうが、彼は北京にいるはずであった。

 となれば、自然と上海に居住している旧皇帝の乗船が可能性として浮上してくる。

 司令官の面々が重々しく唸った。


 これは高度に政治的な問題だ。

 満州・上海事変を引き起こした我が国が旧皇帝を保護するというのは、各国に大陸への野心を疑われかねない。特に中華民国と日本は未だ経済的に太く結びついているとは言っても、中国東北部の利権を巡ってたびたび衝突を繰り返している。

 例えば、現在の日本は上海租界で商売を行うことができても、内陸部での商売は強く阻まれていた。

 民国政府は機会均等を謳っているが、地方軍閥がそれを許さないのだ。

 特に満州を含む東北地域を牛耳っている張学良は、父を日本軍に殺された手前、熱心な反日論者であった。

 今も中国東北部に散在する日本由来の資本や利権が何かと理由を付けて排除されつつある中で、下手なやぶ蛇は排日運動を激化させる恐れがある。

 我が国の被るリスクを考えれば、断るべき要求であった。


「司令官。ここは慎重に考えるべきです。そも、今の我々は海軍ではありませんから、断る理由はいくらでも挙げられましょう。我々がすべきは何よりも邦人の保護ですぞ」

 百武の具申に佐藤が閉目する。そして、しばし顎を手でさすりながら考えて、


「"寧海"へ電信。『"御座船"に我が国の臣民は乗船しているか』と」

 この問いに、答えが再び帰ってきた。

『邦人あり、英米人あり』と。

 司令部の面々が深いため息をついた。

 これは断れない。総隊員一同が腹をくくるときが来た。

 佐藤が険しい目つきで、口を開く。


「"寧海"へ電信。『大日本帝国勅令護民総隊が、責任をもって"御座船"をお預かりする』と」

 返信するが否や、佐藤はそのまま上海方面に向かう全艦隊に増速の指示を下した。預かると決めたならば、安全な場所まで無事に送り届けなければならない。

 合流前にテロリストに拿捕されては面目丸潰れだ。

 だが、そうした総隊の動きをあざ笑うかのように事態は更に急転直下の様相を現していった。


「"竜飛"乙。所属不明の航空機を複数確認。い、一部は爆装しているとのこと!」

「何だと!?」

 思いも寄らぬ知らせに総隊員一同が皆仰天する。

 航空機とは最新鋭技術の固まりだ。ただのテロリストが簡単に用意できるものでは決してない。それに爆装しているとなれば、尚更であった。


「"竜飛"乙。増槽の投下と空戦許可を乞うてます。司令官、航空参謀いかがいたしましょう!」

 千早は佐藤に目配せした。佐藤が静かに頷く。

 委任した、ということなのだろう。そのまま通信士に向かって指示を下す。


「許可するが深入りするな。旋回、上昇、降下、全ての空戦機動をもって"様子を見ろ"」

 そして、続く指示で"竜飛"甲小隊に発艦の指示を下す。


「甲小隊、発艦。貴官らに求める役割は所属不明機の排除である。乙の連中に比べて、やることは至極単純だ。全力で事を為せ」

 すでに"鶚"に乗り込んでいた小隊員から『了解』の応答が返され、


『一号機、発艦』の合図とともにアイランドの外側で装甲甲板の放つ金属質の悲鳴と、ロケット推進装置の甲高い轟音が轟くのが、内部にまで聞こえてきた。

 千早は耳に手を当て、しかめ面のままにひとりごちる。


「あの轟音は改良の余地があるな……」



1936年7月初 同時刻、"浅間丸"通信室にて


 源田は自らの耳を信じられなくなっていた。

 サーカスの見世物と化していた総隊の保有艦が、航空機が艦隊旗艦の指示を受けてからというもの、まるで雪崩のような情報の波が、電信の形を取ってこの"浅間丸"にもたらされてくるからである。


「"竜飛"から電信です。『方位230。12ノットを保てるか』と」

 まずは細かい航行の指示がいの一番にやってきた。これに"浅間丸"船長の浦部という男が難色を示す。


「……井上さん、"浅間丸"は最大で18ノット航行の可能な高速船ですよ。ここはお客様の安全も踏まえて一刻も早く、上海沖を離れた方がいいのでは?」

 これに対して総隊参謀長の井上が頭を振って答えた。


「いえ、何をするにもまずは周辺の情報を把握してからです。逃げた先に何があるかわかりませんから。すぐに済みます。お待ちください」

 この井上の言葉に嘘偽りはなかった。30分もしない内に"竜飛"より第一報がもたらされる。


「北方、独航する小型船1。南方、小型船2、貨客船3。いずれも非武装・民間船につき、敵にあらず」

「"浅間丸"の進路は?」

「方位そのまま。14ノットを保て、と。途中、避難誘導した民間船を合流させるため、速度は保つようにとのことです」

 井上が頷き、浦部に問う。


「宜しいですか? 船長」

「民間船……、致し方ありませんね。あなた方がこの船を守ってくれると信じましょう」

 客の命を預かる責任感からか、浦部はかなり頑迷な態度で総隊に主導権を握られることを渋っていたが、他の民間船の存在が決めてとなって、不承不承総隊の指示を受け入れた。


「万難を排しましょう」

 井上の言葉に応えるかのように、周辺を航行する民間船の細かい位置が矢継ぎ早で"浅間丸"にもたらされる。その頻度たるや、浦部も頬をひきつらせるほどであった。

 だが、源田たち海軍軍人にとって驚きであったのはそこではない。


「"竜飛"より電信。『東方を航行する海軍所属艦は、"蒼龍"なるや? 確認を取られたし。我、情報提供の用意あり』と。暗号文も飛び交っているようですが、そちらは読みとれません……」

「ハッ?」

 "蒼龍"とは帝国海軍の新造した最新鋭航空母艦のことである。今は佐世保に停泊しているはずであり、航行の予定など聞かされていない。

 慌てて山本を窺うと、彼は険しい表情を浮かべていた。


「――通信士。総隊の旗艦に『我の関知するところではない』と返せ」

「え、あ、はい」

 要領を得ない通信士のことを一顧だにせず、山本は井上を睨みつけた。


知っていたのか(・・・・・・・)?」

 何のことだか分からぬその質問に、井上は苦笑いを浮かべた。

まさか(・・・)。小官らは既に海軍ではないのですから。あれは単純に策敵能力の賜物ですよ。むしろ今の問いかけで一つ窺い知ることができました。海軍さん、我々の何かを調べていた(・・・・・)んですね。大変悲しく思います」

 山本、井上双方の眼から感情が失われる。

 しばし互いににらみ合い、山本が疲れたように息を吐いた。


「……この場は護民さんに任せて問題がないようだな。我々は失礼するとするよ」

 その言葉に井上は敬礼を取って、

「仲間割れは亡国の元ですよ。山本さん」

 と詰るような口調で返してくる。

 山本は応えなかった。

 返礼だけを取って、荒々しい足取りで通信室を出る。そんな山本の背中を、源田は慌てて追いかけた。

 全く意味が分からない。


「どうされたのですか、提督!」

 山本は答えようとしなかった。通信室から一等客室へと繋がる通路からきびすを返し、一等喫煙室へと足を運ぶ。

 喫煙室では、今も同行の海軍高官たちが乗客を相手に、にこやかな顔でロビー活動を行っている。

 外交官の出入りもあったというのに、外で起きた騒動に気づかなかったのであろうか?

 その暢気さを見た山本の機嫌が更に悪化する。


「――源田」

「は、はい」

 突然の呼びかけに源田はただただ萎縮した。背筋の凍るような声色であったことも源田の肝をことさらに冷やす。


「護民総隊は本当にあの短時間で、"我々の艦を見つけ出せた"のだと思うか?」

「えっ、あっ。先ほどの"蒼龍"の件は事実だったのですか!?」

 源田は驚きのあまり、目を見張った。もし先ほどの一件が事実であったとするならば、総隊の策敵能力は想像を絶するレヴェルに達している可能性がある。ややもすれば、我々海軍を上回るほどの……。


「……帰ったら、暗号の改良を具申せんとな。無暗に腹を探られるというのは不快でたまらん」

「あの、提督。お言葉ですが……、我々は同じ国の軍隊では?」

 言った途端、山本の怒気を直接に叩きつけられた。


「阿呆。あれらは"海軍"じゃない。奴らの基本方針をもう一度思い出してみろ!」

「はっ? ええ、はい。確か、"逃げるが勝ち"であったと……」

「その逃げた"先"には何がある?」

 質問の意図するところが分からない。戦々恐々とする源田を後目に山本は続けた。


「机上であったがためにどうにもピンとこなかったが、"ピケット・サークル"の本性がようやっと理解できたわ。あれの前提は海軍戦力にある。成る程、砲の一つや二つなど問題にならんはずだ。戦うのは"押しつけられた"我々の役割なのだからな!」

 吐き捨てるような物言いに、源田の疑問は尚更に募る。


「我々がこの国の正面戦力なのですから。敵と相対するのは誉れでは……」

「だとしても、敵と戦場を決める筋合いは奴らにあろうはずもない!」

 山本が握り拳を震わせた。


「我々の敵と戦場を決めるのは、あくまでも我々の意思と軍令部だろう。だが、奴らの情報収集能力が優れているということはつまり、奴らが敵と戦場を都合の良いように操ることができるということなのだ」

 "越権"という言葉が源田の脳裏をよぎった。確かに海軍の、先人たちと我々が確保した兵器と血を、我々以外の人間が浪費するというのは筋が違う話だと思える。


「"雑用"をしているだけならば、弟のやんちゃとしてまだ許せた。だが、兄の役割を侵そうとするならば――、容赦するわけにはいかん」

 冷えた目で山本は更に続ける。


「指揮系統に関する奴らとの取り決め、策敵能力の改善、徹底した情報封鎖は当然として、後は――」

 と、喫煙室の窓ガラスががたがたと揺れた。

 何事かと乗客たちが目を丸くする中で、"浅間丸"から離れんとしている"竜飛"の飛行甲板から見たこともない航空機が発艦していった。

 だが、その発艦速度が尋常ではない。

 主翼の付け根から火を噴き、恐るべき加速力で空へと飛び出す4機の正体不明機に、源田は目を釘付けにされた。


 恐らくは発艦直後で時速200キロは越えているだろう。そして、250。300……。高度の上がり方も明らかに異常であった。


「――やはり航空戦力だな。量だけでなく、質でも上回っておらんと、周りから何を言われるか分かったものではない。おい、源田。あれは何だ? 何故、あの"ひねくれた甲板形状"であの加速を実現できるんだ。俺の知らん機構が組み込まれているようだが……」

 山本に問われるも、源田にだって何が何だか分からなかった。

 航空機のことだけでなく、全ての事象が源田の理解を既に凌駕していたのである。



1936年7月初 同時刻、"浅間丸"医務室にて


 悪漢を警備の者に引き渡した後、エドワードは宮本に良く似た少年を見舞おうとヘレンを伴い、医務室を訪れていた。

 医務室に入ったところで、

「うお」

 エドワードは先客の多さに目を白黒とさせる。ヘレンも先客たちの顔ぶれを見て、思わず苦笑いを浮かべた。


「……相当なプレイボーイだったのね、彼」

 見舞い人の殆どは少年と同世代の少女であった。男の一人もいやしない。

 その中にあってただ一人、年かさのいった女性に目がいく。いや……、年かさのいったという形容詞は失礼に当たるだろう。

 彼女はアウグスト商会の女社長であった。


「ロッテ社長?」

「あら……? 貴方たちも見舞いに来てくれたのですか? ヤマトに代わって、この私がお礼申し上げましょう」

 後で形に残るものを、との提案は謝絶して、エドワードは少年の容態と、社長がこの場にいる理由を尋ねる。

 どうやら臓器の損傷はなく、感染症にさえ気をつければ、すぐに傷も塞がるとのことであった。


「私も個人的に知己を得ていたのですけれども……、チハヤに頼まれましたのよ。『目を離すと何を仕出かすか分からない"弟"だから付いてやってほしい』と」

「ああ、やっぱり兄弟だったんだな」

 道理で少年と宮本の顔立ちが似ているわけだと、納得する。


「しかし、悪漢が彷徨いているなんてな。所持品のチェックに抜けがあったんだろうか」

 エドワードの指摘にロッテが頷く。そして、そのまま頬に手を当て、眉根を寄せた。

「ええ……、私も驚きました。どうやらベルトにワイヤーのように細い凶器を仕込んで荷物チェックをくぐり抜けたようですわね」

「おい、どう考えたって素人じゃないだろう、それは!」

 エドワードは言葉を失う。これは明らかに突発的な犯行ではない。


「もしかして、まだ仲間がいるんじゃないか?」

 そう考えると、この医務室の防犯体制が気にかかった。いくら通路のあちらこちらを警備の者が巡回しているとはいえ、ここには身なりの良い少女たちと数人の医者しか在室していない。

 万が一ここに悪漢が飛び込みでもしたら……、考えるだけでも背筋が寒くなる。


「会長、私がボディガードに付きましょうか。こう見えてボクシングの心得があります」

 ヘレンがロッテに申し出た。「こう見えて」とどう見てもマッチョな女性が言い出すことに抵抗を覚えないでもなかったが、今はそれどころではない。

「俺も付くか。ミヤモトの弟なら、守る理由も十分だぞ」

 その申し出にロッテは心強いと喜んで受け入れてくれた。

「ただ……、もしかするとこれ以上の騒動は起きないかもしれませんわね」

 ロッテの付言にエドワードが首を傾げる。


「何故、そう言い切れるんだ?」

「素人の犯行ではないから、ですわ」


「詳しくは話せませんが、被害者は上海でも名の知れたアメリカ系ユダヤ人ジャーナリストであったようです。同行していた女性も浙江チェーチャン財閥の一族だと聞き及んでおりますし、恐らくは洋上で何らかの密談を交わすつもりだったのでしょう。それを何故、この船で行おうとしたのかはさておき……、どうも今回の件はシオン共和国や英米、西欧列強の各国の政治的な思惑が絡んでいるようです。ならば、各国の損になるような事態には発展しないと考えるのが妥当ではありませんこと?」

「ふうん」

 彼女の口振りから、とりあえず門外漢の自分には良く分からない事態が進んでいるのであろうことだけは理解することができた。

 根拠のない妄言ではないのだろう。何せ彼女は米国の外交官を相手取って、商品を吹っかけるほどには外交能力に優れている。


「だったら、ボディガードも不要か?」

「いえ、"預かりもの"がありますから、慎重を期して悪いということはありません」

「ああ、"彼"か」

 言って、医務室のベッドに横たわっている少年に目をやる。痛み止めを打たれているのか、気絶しているのかは分からないが、彼は意識を失っていた。

 エドワードは、少年を見るロッテの顔が随分と大人びていることに気が付く。

 もう4年も経っているのだから、以前の高飛車な性格だって落ち着いていてもおかしくはあるまい。それは宮本との距離感も同様だ。

 そう、4年。

 それだけの年月があれば、良かれ悪しかれこのように人は変わっていく。この数年で航空機の羽根の枚数が4枚から2枚に減ったのと同じように、人は変わっていくものなのだ。

 ……自分はどうなのだろう。少しは変わっている自覚はあったが、果たしてどの程度変わっているのだろうか?

 頬をぺたぺたとやっていると、ヘレンが胡乱げな声を出した。


「その歳で小皺が気になっているの?」

「何だと、この野郎」

 抗議の拳を振り上げたところで――、医務室の窓ががたがたと揺れた。


「……何だ?」

 何事かと窓から外を窺うと、日本の航空母艦から何らかの航空機が飛び立とうとしている。

 "浅間丸"の甲板上で日本の提督が解説していたどの機体とも違う、主翼が逆ガルに折れ曲がった戦闘機であった。

 整備員が帽子を振る中、逆ガルの航空機のプロペラが回る。

 エナーシャがない。自力でエンジン点火が可能なのだろうか。

 プロペラ枚数は3枚。

 矛のような形状をしたプロペラ羽根が安定した速度に達したところで、滑走路の短さに今更ながら気がついた。


「おい、そんな位置からじゃ――」

 杞憂はまばゆい光にかき消された。

 主翼の付け根から広がる白い光が機体を包み込んだかと思うと、3点着地をしていた機体が一瞬で接地面と平行の体勢に傾く。

 あれは恐らく――、尋常でない加速の成せる技に違いあるまい。


「主翼から……、火を噴いているのか……?」

 エドワードは言葉を失う。

 浮かび上がるまでの助走距離が明らかに短い。速い。何だ、あれは。

 もしや、あれが宮本の言っていた新型機だというのだろうか。


「ヘレン、カメラだ! カメラであれを撮影してくれッ!」

 自らの目的を思い出し、色を失ったエドワードがヘレンに呼びかける。が、ヘレンの返事は渋いものであった。


「無理よ! 窓を挟んでいたら。まともに撮影なんてできないわ」

「ここに来て、それはないだろう!」

 金槌と化した握り拳で医務室の壁を叩き、エドワードは天を仰ぐ。

 今、この瞬間が航空技術史における一つの重大なターニングポイントであるという確信があった。

 "浅間丸"の客室には甲板には、各国の航空関係者が山ほど呼び集められている。

 "あれ"を見ている者達の脳裏には、もう一つの転機である東欧の"ドラケン"がよぎったことだろう。


 ギュターヴ・ホワイトヘッドが世界初の有人飛行という偉業を成し遂げて35年――。

 4年で人は変わる。

 況や、空の世界とて変わらずにあることがあるものか。

 エドワードはたまらずに呻き声をあげる。

 航空機の羽根が火を吹くようになったこの瞬間に立ち会えたことに対する喜びと、絶好のシャッターチャンスを逃してしまった悔恨、そしてあの新型機が飛び立った先で"何を仕出かすのか"……、一目で良いから見てみたいという渇望が自身の胸中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていくのを自覚した。


次回、久しぶりの空戦です。

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