1936年7月初 オーランド諸島、とある都市にて
前回の内容に修正点があります。修正点は以下のとおりです。
艦載レーダーの名称について、「電波探信儀」を「超短波警戒機」に。
竜飛の総排水量について、「約8000トン」を「約11400トン」
よろしくお願いします。
ゆったりとした足取りで原色の屋根が彩る町並みを見物しつつ、ソ連軍航空士――、イワン・カラマーゾフは私服の胸ポケットから取り出した懐中時計に目をやった。
薄汚れていてネジの一本や二本が外れている、半日ごとに時間の調整をせねばならぬほどのポンコツ品である。支給品といえども私有財産に厳しい目が向けられ、嫌が応にも私生活をまさぐられることの多いイワンにとって、高級品の所持は自らに課せられた御法度であった。
「やっ、良い天気だね」
イワンは明るい声で、通りすがりの男性に声をかける。
一見してスラブ系と見て取れる、自分より頭一つか二つ分は高い大柄の男性だ。ここオーランド諸島はスカンディナヴィア半島南方に浮かぶ離れ小島であり、国際法上はフィンランド領となっているが、ロシア帝国が存在していた頃からの名残で未だ高度な自治性が未だ保たれている。
恐らくはこちらを見て小首を傾げている男性も、自分がソ連軍の兵士であると暴露したところで、嫌な顔はしないはずだ。フィンランドとソ連は仮想敵国同士であるが、それは必ずしもオーランドとソ連の敵対関係を意味しないのである。
オーランド人の気質を一言で表すのならば、中庸こそがふさわしい。中庸とは何人たりとも拒絶をせず、どんな勢力に対してもおもねらないことを意味している。
一定の距離を保ち続ける付き合いにこそ、価値があると信じているのだ。イワンはそんなオーランド人の気質を高く評価していた。
定刻も近づき、用意された自動車で郊外へと向かう。スウェーデン経由で輸入されたメルセデスベンツの乗り心地は中々に上等。鼻歌まじりにダイムラーエンジンの心地よい振動に揺られていると、イワンにとって目的地となる航空機会社の看板が見えてきた。
"オーランディア・アエロプラン"。
別段、会社名は意味を為さない。実体のある会社ではないからだ。旧年に起こったウクライナの分離独立以降、外聞の悪い我らが大祖国と"正義の枢軸国"が表だって技術交流できないがために急遽創られたにわか拵えのペーパー・カンパニーであった。
整備ハンガーの手前で車を降りると、つんとした航空ガソリンの臭いが鼻腔をくすぐり、英国純正の軽快な液冷エンジン音が耳朶を叩く。
先の国際問題をうけてウクライナ人技術者に逃げ出されてからというもの、我が大祖国は航空機の開発一つ取っても他国に純正品の部品供与を要請せねばままならぬほどに落ちぶれてしまった。
ただ……、それは我が国を広い視野から俯瞰した場合、ある種の斜陽を意味しているのかもしれなかったが、現場の航空士にとっては別の顔も見えてくる。
そもそもの話、国産のミクーリン・エンジンもシュヴェツォーフ・エンジンも、その技術的な基礎組みは英国ブリストル社や米国カーチス・ライト社から生産ライセンスを買い取って積み上げていた。
航空エンジンは一基、一基に"当たり"や"外れ"がある精密機械だ。現場の人間としては当然の帰結として、自らが駆る航空機に一等の"当たり"が積まれることを望む。
本場で造られたエンジンと、国産のライセンス品……、"当たり"が多いのは前者であることは疑いようがない。
イワンは同胞たちの努力を好意的に評価していたが、その実力は全く信用していなかった。
音を聞いて即座に分かる"当たり"の気配。自ずと頬が緩んでいく。
入り口をくぐり、にこやかに挨拶をしようとしたところで、
「遅い」
痛烈に敵意を浴びせかけられた。
声を発した人物は、脱色した長髪を三つ編みにして後ろで一つにまとめた十代の女性航空士である。この際、人格と名前は意味を為さない。現状必要な情報は、彼女が自分と同じ新型戦闘機"ヤコブレフ"のテストパイロットであり、まるで魔女を思わせる表情を浮かべていることであった。
イワンはきょとんとして瞬き、再びポケットから懐中時計を取り出して短針に目をやる。
「時間通りじゃないか」
「この間抜け、"時間通り"にハンガー入りする奴がいるか!」
怒声の暴風雨を聞き流しつつ、イワンは航空服に着替えていく。
「もう直に業務の時間なのだから、無駄な軋轢は非生産的だと私は思うよ」
「どの口が戯言を抜かすんだっ!」
「枢軸から来たスタッフに、航空士同士の不仲を見せることが貴方の祖国愛なのかい?」
イワンの言葉に、女性航空士が鼻白んだ。流石に他国民の前で自国の醜態をさらすことがまずいと思ったのだろう。
ぐうと押し黙った後もこの女性航空士は、こちらを呪い殺さんばかりに睨み続けていた。
"チャイカ"や"イシャク"のテストパイロットをしていた頃から顔を合わせているはずだから、もうこの女性との付き合いは3年以上になるはずなのだが、未だ歩み寄りの兆しを見ることができない。
理由は至極明確であった。
「その嫌みったらしい態度……、本当に虫酸が走る。やはり、お前は噂通り"お貴族様"だな」
この"お貴族様"疑惑こそが元凶であろう。
吐き捨てた女性航空士の言葉にはにこやかな笑顔を返しておく。今までならば、この言葉を素知らぬ顔で受け流していた。
実際のところ"お貴族様"呼ばわりは、過日のイワンにとって日常と言い換えても差し支えない罵倒であったのだ。
まだ赤軍の航空士になってすぐの頃には自分の若輩と、柔らかな物腰を面白く思わない連中に反革命罪の疑いをかけられたことも多々あったわけで、今更どうと感じるものでもない。
無論、それらは全ていいがかりである。
イワンの物腰は孤児院を運営していたロシア正教会の修道女に物心ついた頃から厳しく仕込まれたものであり、贅沢な生活など一度も経験したことがなかったのだ。
ただ、既に革命の露と消えてしまったその修道女は明らかにやんごとない身の上であったようで、その残り香に下衆の勘ぐりをかけられてしまった可能性は十分に有り得た。
……まあ今にして思うと、結局のところ言いがかりをつけてきた連中は、自分を恐怖と力で脅しつけることで自らの支配欲を充足したかっただけなのかもしれない。
"お貴族様"だろうが平民だろうが、その根元に蠢く邪悪な本性に大した違いはないのである。
目の前の女性もそのクチであろうか?
さて、一度反革命罪の疑いをかけられた以上、遠かれ遅かれ容疑者となった者は必ず社会正義の名の下に、厳正なる"審判"にかけられねばならない。
我が大祖国にとって、敵か味方か、有害か有益か、殺すべきか生かすべきか――。
本来ならば、『疑わしきは殺せ』を地で行く祖国式裁判を経て、容疑者は身の潔白を祈らなければならないのである。
しかしながら、イワンはこの厄介な"お貴族様"疑惑と反革命罪の容疑に関して、既に"証拠不十分による無罪"という結果を勝ち取っていた。
大方自分を巡る一連の騒動を、目の前の彼女は知らないのだろう。
だから、このような気軽な物言いができる。濡れ衣をかけた輩がシベリアの鉱山でどんな目に遭ったのかを知っていれば、きっと彼女の態度も変わっていたはずだ。
「何だ」
「いや、何でも?」
航空靴の留めひもを結びながら、イワンは過去に思いを馳せる。
……何故自分が祖国式裁判から生還することができたのか?
被告人であった身の上である以上、明確な答えを得ることは不可能であったが、いくつもの理由が重なった結果であろうことだけは想像がつく。
例えば、赤貧生活を凌ぐために幼い頃からサンクトペテルブルクの大通りで靴磨きをしていたという半生は、多くの同志たちとの横の繋がりを形成するのに役立っていた。多少調べれば、自分の半生が"お貴族様"のそれとは決定的に異なることなど、容易に判断がつく。そして、それは密告者たちの信頼を貶めることにも繋がったであろう。
更に人民の労働適性検査において『資本論』を一字一句に至るまで全て暗唱してみせた好成績も、日頃の従順な労働態度も、自らが有益な人物であることを当局に示していたはずだ。それこそ密告者たちと比較し、結果として当局に好印象を与える程度には。
勿論、生活習慣に関しても文句をつけられる筋合いはなかった。
元々何もかもが足りていない生活には慣れていたし、周りをざっと見回してみても自分ほど配給品の"全て"を他者と分かち合っている者は存在しなかったのである。共産的な博愛精神というものが実在するとして、自分を不適格としたならば、いったい誰が適格と言えるのか。
「あ、道すがらにサルミアックを頂いてきたんだ。枢軸さんにあげようと思ったんだが、貴女も要るかい?」
「要らん。そもそも、その菓子代は何処から捻出したんだ」
「勿論、こちらの運転手と配給物の物々交換で手に入れたのさ。物々交換は贈与の延長。疚しいところは何もないよ」
ただ、それらをもってしても自身を取り巻く疑惑を潔白へと転ずるには少々足りない。万人の抱く負の主観を塗り変えるには、より誠実な社会主義に対する忠誠心の証明が必要なのである。
自分が生かされた最大の理由は、恐らく秘密警察によって行われた"最後の審判"にあった。
鉄面皮の強面連中に連れられ、コンクリート製の小部屋の中で引き合わされた壮年の男女は、孤児院に掛けられた姿見に映る自分と驚くほど良く似た顔立ちをしていたと記憶している。
開口一番、『お前の親族だ』と説明を受けた時には流石に面食らってしまったが、『ものの試しに処刑してみせろ』という命令に抵抗を覚えるほど、暖かな半生を送ってきたわけではなかった。
自分にとって、家族とは孤児院で共に暮らした仲間たちであったし、革命の露と消えた修道女であったのだ。
故に、イワンは親族だとされた男女に手ずからずた袋を被せ、平常心のままに持たされた拳銃の引き金を放った。
そしてこう言ったのだ。
『次のノルマは何でしょうか?』と。
あの瞬間、恐らく自分にかけられた疑いは完全に晴れたのであろう。
社会主義の忠実なる信奉者として、無色の歯車として、国家の内包する生産力の一部として、イワンという人間が受け入れられたのである。
そして、イワンは新たな姓と偽装された半生を与えられて一時フランスのパリへと飛ぶことになった。帝国の保有していた財産を管理するアレクセイ・イグナチェフなる元ロシア貴族のもとで英仏独語を学び、各国上流階級との付き合い方も躾られる。
本来はここで必要なことを学んだ後、祖国の党本部で勤務する予定になっていたが、今は霊廟でホルマリン漬けにされている革命指導者の後継者争いに連なる政変がイワンを今の立場へと誘う。
イワンの努力は他人の縄張り争いによって水泡と帰したわけである。だが、命は無事であった。
誰かが勝って生きて、誰かが負けて死んで、歯車はただただ回っていただけだ。
――かくして、若輩であったイワンはこの一連の茶番劇から学ぶ。
このソ連という社会主義者の楽園で枕高くして暮らすためには、徹頭徹尾に自分が無色で、存在感がなく、それでいて周囲には利益を与え続ける存在であることを宣伝し続けねばならないのだと。
例えば、いたずらに戦功を稼いで目立ちすぎてはならない。自らという存在に特別な色が付き、要らぬやっかみを受ける恐れがあるからである。
いずれかの国内派閥に所属してはならない。派閥政治に敗北した結果、連座によって粛正を受ける可能性があるからである。
負け犬を棒で叩いてはいけない。生き残りが復権を果たした際に、復讐の標的となる恐れがあるからだ。
無所属に徹するに当たって、決して孤高の中立を気取ってはならない。無関心や無関与とは、潜在的な敵意である。理想的な立ち位置は好意的な傍観者だ。舞台に上がらず、ただひたすらに役者を囃し立てるオーディエンスであることこそが望ましい。
シベリアに広く分布するトナカイの一種、カリブーの雌は群を形成することで一個体当たりが猛獣に襲われる可能性を極力減らそうとするのだという。これに対して雄はハーレムを形成するために雄同士で優位を巡り、激しい争いを繰り返す。
後者が種の保存本能に則るものならば、前者は純粋な生存本能に則るものと言えるだろう。
イワンの学んだ人生訓は、まさに生物学的な雌の生存本能そのものであった。
この国で健やかに生きるためには、雄としてのプライドなど不要なのである。
"正しい生き方"を学習したイワンは、それ以前よりもより一層に社会の歯車として理想的な、無色の生活を心がけてきた。
何よりもまず、牙のない雌の立場から決して突出しないよう心がける。雄同士の派閥争いに巻き込まれかけた時には、決して傍観者の立場を崩さない。もし、壇上から転がり落ちた同志を見かけたならば、優しい顔をして手を差し伸べ、自らへの敵意は可能な限り逸らす。
既に数えることもしなくなったが、イワンの差配によって命を救われた人間は100や200ではきかないはずだ。イワンに恩を着せられた同志は、トロツキストにも、ロシア連邦への亡命者にもアメリカのロビイストにも数多く存在する。
こうして、純粋な生存本能に基づいて繰り返されたイワンの行いは、面白いことに自身が望んでいたものよりも多くの"付加価値"を自分という人間にもたらしてくれた。
ただ、存在するだけで効力を発揮する、"政治的緩衝材"としての付加価値である。
イワンが思うに、人間は社会的動物であり根源的にはやはりリスクを嫌うのだろう。
例えば派閥間の抗争が粛正という名の"絶滅戦争"へと発展してしまうのは、立場が逆転してしまった末の復讐を恐れるが故だ。だからこそ、派閥間抗争は敗北イコール政治的、あるいは物理的な死という重大なリスクを負う羽目になる。
だが、もし派閥間抗争に伴うリスクを軽減する"緩衝材"が存在したのなら――?
その答えこそがイワンであった。
イワンが周囲にとって"好意的な傍観者"である限り、物を知っている同志たちは自分に手を出すことができないのである。"絶滅戦争"の併発を恐れるが故に、安易に陥れ脅しつけることも、殺すこともできないのである。
故に、イワンは同志たちを信じていた。リスクを嫌う、社会的動物どもを信じていた。
「――ところで、仮に私が貴女の言う"お貴族様"だったとして、さ」
イワンは自身の内に芽生えた嗜虐心に則って、泰然とした笑みを浮かべたままに口を開く。
こちらの反応に、女性航空士がまつげの長い両の眼を瞬かせた。大方、憎まれ口をまともに取り合うとは思わなかったのだろう。
「完全な証拠を手に入れたとして、貴女はどうするつもりなんだい?」
「……決まっている。私はお前を当局に突き出すだろう」
その質問に女性は吐き捨てるようにして毒を返してきた。
あまりに裏表のない言い種に、イワンは「ハハ」と声を出して笑ってしまう。
この愚直さは嫌いではない。まるで西欧に伝わる、とある聖女を彷彿させる。
「何がおかしい……!」
「おかしいも何も」
手をひらひらとさせながら、イワンは片手で腹を抱えて更に続ける。
「君の告発を受け入れる者はいないと思うんだよ。だって……、"だからこそ"貴女はこんな場所でテストパイロットなんぞをやっているんだろう?」
女性が胸を短剣で抉られたような表情を浮かべた。
そもそも我が大祖国において、女性航空士というものは現在、少々特別な立ち位置に立たされている。
そのことを正しく理解するためには、まずマリナ・ラスコヴァという女性から始まる、この国の女性パイロット成立史を理解しなければならないだろう。
かねてより赤軍のテストパイロットとして祖国に貢献を重ねてきたラスコヴァ女史は、先のソ日紛争における日本優勢の戦況に危機感を抱き、実戦に出せる航空士の増員こそが急務であると判断。個人的に親密な関係にあった党書記のヨシフ・スターリンを通じて、女性のみの航空士部隊を突貫工事で作り上げることに成功した。
目の前の女性は、まさにその構成員なのである。
彼女らは、口さがない党内の雀たちの発する"党書記殿の愛人部隊"などという蔑称をものともせずに、沿海州における空戦では日本軍航空機を多数撃墜するなど、水際だった活躍を内外に示してみせた。
周囲のかけた『女風情が』という色眼鏡を、見事力ずくで取り払ったのである。
しかし……、その偉業の陰では深刻な内部分裂が組織を徐々に蝕み始めていた。
女性航空士部隊という看板の価値が高まってくると、構成員の社会的な立場も向上する。
今まで、ただがむしゃらにチームとして一致団結していれば良かった構成員に、要らぬことを考える余裕が生まれてしまうのだ。
創設者であるマリナがトップであることは甘んじて受け入れるとして……、"次"に偉いのは一体誰なのか、と。
その結果、隊の内部で激しい格の付け合いが行われるようになる。
単純な実力による格付けは極力避けられた。実力本位の空の領域において、実力そのものを物差しに使わないというのはイワンから見るとはっきり言って愚かであると感じるし、正直意味が分からなかったが、彼女たちなりの論理がそこに存在していることだけは間違いあるまい。
代わりに有効な物差しとして機能したのは、"誰が党書記殿の寵愛を受けているのか"だ。
こうなると最早喜劇であったが、チュンチュンと雀たちのさえずる醜聞は、いつの間にやら真実へと成り代わってしまっていたのである。
そして、目の前の女性はこの格付け争いにおける敗北者だ。
肝心の飛行技術自体は中々悪くない。
むしろ若さの中に光るものを持ち合わせており、条件が合えばラスコヴァ女史を喰らうことすら夢物語ではないだろう。
だが、生憎とこの女性はロマンチストなのか何なのかは良く分からないが、世渡りがあまり達者ではなかった。
同僚たちの巧みな処世術と誘導は、純朴な彼女を党書記殿の敵対派閥に置いてしまう。
そして彼女が敵対派閥にあることをクレムリンの党書記殿も認識している節があった。彼女一人がこの国において人気看板の一つである女性航空士部隊から締め出されていることこそが、何よりの証拠であろう。
「お仲間が勝ち戦だと信じるフィンランド戦に、貴女が同行できない理由……、分からない訳じゃないんだろ?」
女性がきゅっと悔しげに唇を結んだ。
先々月に、我らが大祖国は仇敵であるはずのシオン共和国・ロシア連邦の両国と唐突な中立条約を締結した。
国際世論は当然のことながら紛糾している。
『極東情勢は複雑怪奇』、とは一体誰の言葉であっただろうか。
名目は春先にシベリアを吹き荒れた記録的な大寒波による被害に対し、人道的な対応をするためと互いに嘯いていたが、実際のところの存念が見えず、周辺各国は両陣営に懐疑的なまなざしを向けている。
とはいえ、祖国の魂胆は内側にいる身からしてみると至極分かりやすかった。
要するに英独伊枢軸陣営と経済的に太く結びつくため、一昨年の電撃的な分離独立連鎖によって失ってしまった大陸西岸の不凍港、具体的には孤立したカリーニングラードに代わるバルト海沿岸部の港が欲しいのである。
単体ならば喰らいやすいエストニア、ラトビア、リトアニアなどのバルト三国は、日増しに軍備を増強しつつあるワルシャワ・ドナウ経済連携協定に組み込まれてしまっており、かすめ取ることが難しい。
特にポーランドを刺激することだけは避けねばならなかった。あの国は、チェコスロバキアが頑なな態度を取っただけでも全力で軍隊を動かし、スロバキア地方をかすめ取ってしまうほどの狂犬国家である。屋台骨の揺らいでいる大祖国に、ポーランドと無駄に争う余力はない。
従って狙い目は北欧諸国の内にあり、唯一W・D諸国と不協和音を奏でている国となる。ノルディック・パワー・バランスの一角、フィンランドだ。
フィンランドはその国家成立過程からして既に旧ロシア帝国の血筋を色濃く受け継いでおり、社会主義陣営であるW・D諸国との間には心理的な壁が存在した。
フィンランドの社会主義陣営に対する警戒心の強さは、国産兵器とのバーター取引を前提にした技術交流は認めても、W・Dの資本も人的資源もその流入を認めていないことに大きく現れていると言えるだろう。あの調子では、フィンランドが戦渦に巻き込まれても、W・D諸国と満足な連携を取ることはできまい。
この烏合ぶりに対して、我らが祖国には大きな強みがあった。枢軸陣営が味方についたことで、ファッシ化の進むノルウェーと国内ファシストの対応に追われているスウェーデンを敵に回さずに済むのである。
敵が満足に動けない内に、準備の整った我が大祖国が大攻勢をかけて、フィンランドを電撃的に占領する……。
当局はこの作戦を勝算ありとして、受け入れた。
後は何らかの小細工によってW・D諸国や大東亜連合を釘付けにできたなら、すぐに開戦の工作が行われるはずだ。
「貴女が前線に送られることは今後ないだろうね。まかり間違って手柄を立てられでもしたら、困るもの」
勝ち戦を"前提"に考えてみると、テストパイロットという役割に彼女を就けたことは至極慧眼であるといえた。試験機ならば、"事故"だって起こしやすい。能力が必要とされる割には手柄を立てさせることもなく、飼い殺しにもしやすかろう。
ただ……、この浅知恵は"前提"一つ違えただけで崩壊する、愚かな皮算用ともいえるのだが。
「まあ……、運が良かったね」
「……何だと?」
「隊の中で"貴女だけ"が生き残ることになるんだぜ。私だったら笑いが止まらない。やったぞ、ざまあみろ! ってね」
彼女は何を言っているのかわからないという表情を浮かべていた。そして、困惑混じりに返してくる。
「……何故、勝ち戦でそんな思考ができる。お前は敗北主義者なのか?」
「むしろ、何を根拠にして簡単に勝てると思っているのか聞きたいところだよ。フィンランドにはウクライナ経由で相当数のBT戦車が配備されている。生産力も人的資源も当然こちらの方が上だろうけど、地の利はあちらにあるんだぜ。そんな簡単に勝たせてはもらえない。挙げ句の果てには敵の多目的戦闘機だ。敵は航空機を集中的に配備して、火力支援を行うはずだよ。間違いなく、陸だけの戦いでは済まない激戦になる」
「"ドラケン"のことか。確かに侮れない性能を秘めているだろうが、我が国の"ペシュカ"だって負けてはいない。イスパノスイザ20ミリ機関砲4基とロールス・ロイス製ペリグリンエンジンを双発で乗せた、最高600kmの速力を叩き出す最新鋭多目的重戦闘機だ。運動性では劣るかもしれないが、そこは物量と防御力で迎撃に出ればどうとでもなるだろう」
彼女の表情には一抹の不安がよぎっているように窺えた。この期に及んで、嫉妬心から自らを蹴り落とした同僚たちを気遣っているのである。
この時、イワンは彼女に"ジャンヌ・ダルク"というあだ名を付けることに決めた。無論、馬鹿正直に理想を貫いて、最後には火刑に処される愚か者という意味合いが強い。
だが、それと同時に面白くも思った。昨今のイワンがこのどうにもぱっとしない大祖国に居座る理由の大半は、このような愚か者の選択と挫折、そして焼け野原になった大地を見たいがためであったからである。
イワンは笑いながら言う。
「確かに"ペシュカ"は"ドラケン"に対抗するために作られた兵器だ。"ドラケン"に劣る最高速度や上昇性能は、最大高度の高さと優秀な降下加速性能によってお釣りが来ることだろう。普通に考えれば、ぼろ負けすることはないだろうね」
「当たり前だ」
「でも、航空機は機械が飛ばすんじゃないぜ。"人"が飛ばすんだ」
「……そんなことは百も承知だ」
不快げに顔を歪める彼女に対し、イワンは無慈悲に宣告する。
「いいや、分かってないよ。フィンランドには彼がいる。"エチオピア戦争の英雄"が。近代化された戦争にあって、唯一古の英雄みたいな働きが許される舞台が空なんだ。たった一人の存在が、文字通り戦況を左右してしまう。彼がいるのに、簡単に勝てる道理なんかあるもんか」
「……赤十字航空輸送護衛隊のユーティライネンか」
イワンは頷く。
昨年に終結したイタリア・エチオピア戦争は、無差別戦略爆撃が航空機によって行われた、欧州大戦以来の近代戦争でもあった。
その被害は民間人だけでも三万を優に越えると言われており、今も世界中に数多散らばっている左派人権屋たちの槍玉に挙げられている。
国際秩序や外交関係の兼ね合いから、列強各国の首脳はこれら有色人種の被った損害を"特例"として目を背けることに決めたようだが、上の意向だけで草の根レヴェルの反発を全て押さえ込むことはできなかった。
まず、誰よりも早くイタリアの横暴に対して抗議の声をあげたのは、パリに本部を置く赤十字赤新月社連盟だ。
同社の表明した『喫緊の絶滅戦争に対する重大な懸念』は、各国各紙の一面で報道され、世界規模で大きな議論を巻き起こすことになる。
そして左右両翼の侃々諤々とした議論の中にあって、次に抗議者の列に並んだビッグ・ネームはナンセン国際難民事務所の高等弁務官だった。
ナンセン国際難民事務所とは国際連盟の下部機関である。筋合いを言えば、連盟の常任理事国に対して物を申せる立場になぞない。
弁務官の発した『人道に対する私たちの誓い』はすぐさまに越権行為としてイタリアの強い避難を受けることになり、弁務官の辞任騒ぎにまで発展した。
だが、このイタリアの行動は後のことを考えれば早計だったと言えるだろう。
イタリアが最優先で行うべきは、思うに難民事務所に圧力をかけつつ大いに支援して、自身のコントロール下に置くことであった。
イタリアの圧力がある限り、国連経由での人道支援が不可能であろうと判断した赤十字赤新月社連盟は、各国の民間人に広く寄付を募り、独立した人道支援計画を打ち立ててしまったのである。
『私たちの患者には、敵も味方も、青も赤も、ましてや白も黒も黄もない。ウィア・ザ・レインボウ』
スイス人医師のマルセル・ジュノーが発したこの標語は各国の左派人権家に感銘を与え、記名、無記名を問わぬ支援金が大量にパリ本部へと送られた。
計画のために各国の民間人から寄せられた支援金は総額で25万ドルにも及ぶ。出資者の内訳は合衆国のクーン・ローブ25パーセント、仏領インドシナ銀行10パーセント、シオン共和国中央銀行10パーセント、アウグスト商会5パーセント、大日本共和商事を初めとする日本の各財閥との共同出資10パーセントが大口に並び、各国の懐事情とお家事情をおぼろげながら窺わせてくれる。
集まった出資金の大部分は医薬品や食料品の購入、医師団の雇用費に充てられたが、支援物資の輸送手段を講ずる段にさしかかって、重大な問題が発生した。
エチオピア領内へと至る全ての道がイタリアに押さえられていたのである。
イタリアからしてみれば、第三者からの要らぬお節介など受けたくはないし、そもそも中立国の人間が戦地に長々と居座ることも避けたかった。戦略爆撃の結果、もし中立国出身の犠牲者が出てしまった場合、面倒な外交問題に発展しまいかねないからである。
故に、イタリアは戦時中紅海上のエチオピアに繋がる全ての商船航路に巡洋艦隊を配置して、強制臨検を行った。
折しも陸上ではエチオピアの特殊部隊による兵站破壊活動が横行していた時期であったため、その大義名分は十分に存在した。
臨検に応じなければ兵站破壊部隊か海賊であると、エチオピアへの支援は利敵行為であると、レッテルを貼ることができるようになったのである。
だが、紅海はイタリアだけの海ではないのだから、そもそもこんな横暴は許されるものではない。
当然ながら、この決定に英仏政府は憤慨した。国連を通してイタリアに抗議を行い、経済制裁の切り札をもほのめかす。
元々、WD諸国からの発議により、イタリアのパリ不戦条約違反は国際会議の壇上において既に議題に挙がっていた。
東欧革命を引き起こし、国際情勢を散々ひっかき回した連中の指摘することではないと思うが、実際にイタリアは国連加盟国のエチオピアを攻めているのだから、どう言い繕おうとも歴然たる侵略国である。
だが、違反国に行われる制裁の内容に関しては、これまで英仏の意向が影響して、その決定が先延ばしになっていた。
戦争は一国のみで完結するものではない。相手国と、経済的な支援国があって初めて遂行が可能になるのである。共にファシズムを信奉するナチス・ドイツが英仏との歩み寄りを見せている中で、イタリアへの経済制裁はイタリアを孤立無援の立場へと追いやり、エチオピアとの戦争続行を著しく困難なものにする可能性があった。
この点に問題があったのである。
もし、イタリアが居直って態度を硬化させた場合、エチオピアを襲う火の粉が風向きを変えて欧州へと降り懸かる可能性があるのではなかろうか?
もしそうなった場合、一体誰が責任を取るのだ。
英仏は手札をちらつかせ、イタリアの反応を注意深く窺った。
果たしてイタリア政権内にブレーキ役は存在するのか、二度目の欧州大戦を引き起こす危険性はあるのか。話せば通じる相手なのか。
英仏がイタリアをどう評価したか他国民には知る由もないが、結局経済制裁は形だけのものに留まり、英仏両保守政権はその支持率を大きく下げることになる。
昨年のフランスにおける保守穏健派政権の短命失墜と、英首相スタンリー・ボールドウィンの退陣騒ぎはこれを受けてのものであった。
さて、海路を絶たれた赤十字赤新月社連盟は、次に陸路による輸送を計画した。が、有力な輸送ルートと目されていたファショダ鉄道が既にイタリアの戦略爆撃を受けて、アディスアベバとの連絡を絶たれている現状や、そもそもアディスアベバへと向かうためにはどのようなルートを通っても、両軍が睨み合う激戦地を通らなければならぬことなどが懸念され、重大な危険性を伴うと判断。この案を棄却する。
そこで残された案として、彼らは航空機による大規模輸送作戦に一縷の望みをかけることにした。
作戦は至極シンプルだ。
大量に用意した大型の輸送機でイタリア空軍が容易に追随できぬ高々度を夜間飛行し、夜明けと共にアディスアベバへ到着するだけである。
作戦の要は夜間飛行能力を持つ航空機の大量配備にあった。
現在、航空機の夜間飛行に関する組織的なノウハウを持っている国は合衆国と日本だけである。
合衆国は大陸横断冒険飛行によって、夜間飛行に関する技術的理解を深め、日本は対ソ紛争における夜間哨戒によって実地で運用に関するノウハウを築き上げていた。
操縦の大部分を視界に頼らざるを得ない航空機にとって、夜間飛行はある種の鬼門だ。
相当の困難が予想されたが、米日両国の人間が計画の大口出資者に名を連ねていたために、夜間航空機の準備は意外なほどトントン拍子に進んだ。
まず、支援物資を届ける役割を担う大型輸送機の用意はダグラス社、中島航空機、コードロン社のものが選ばれる。この複数社への同時受注は急場の数合わせをこなすためであった。
更に骨組みは積載量増加と建造工数の削減を両立させるために可能な限りに軽量化。
内装の夜光塗料には共和商事製の硫化亜鉛塗料が採用された。従来のラジウム塗料では健康上に難があり、赤十字社が利用するべきではないという指摘が、ここでは受け入れられた形になる。
ジャイロ効果を応用した姿勢指示機は米国スペリー社のものが採用された。
航空機の運用に関しては、護民総隊の本部より大盤振る舞いなノウハウの提供が行われる。これは計画に携わる国外諸団体から喜ばれ、国内からは機密情報の流出であると謗りを受けるような利の薄い判断であったが、それでも国内の反対を押し切って国際貢献に振り切った背景には、人気取りに走らざるを得ない何らかの背景があったのかもしれない。
特にライセンス契約をしていたポーランド航空機会社との係争は、この業界では有名なスキャンダルとなっている。一度失った信頼を回復するには多大な努力が必要になるだろう。技術的には未だ航空先進国ではない以上、これ以上他国との伝手を失うわけにはいかないというのが他人事でなく辛いところだ。
かくして、両国の保有する最新技術の悉くが盛り込まれた航空輸送機は、高度6500メートル上空の夜間飛行を1500km以上続けることのできる高性能を実現するに至った。
だが、順調であったのはあくまでもハード面のみであり、ソフト面においては大きな懸念が残ってしまう。
急場であったこともあり、人材を満足に揃えられなかったのだ。
そも、イタリア空軍や海軍航空隊に撃墜される恐れのある中を、重い荷物を抱えて長距離夜間飛行をしなければならぬことから、計画に携わる航空士には深い知識と高い集中力、そして人並み外れた体力が要求されることになる。
輸送機のパイロットには欧州大戦以来のエース・パイロットたちが呼び集められたが、それでも計画の滞りない遂行には人材が足りなかった。
そこで計画に若干の変更が加えられる。
まずパイロットの実状にあわせて輸送機の数を大きく減らされた。一回の輸送量が減った分は、回数によってこれを賄う。
それはすなわち、空中輸送計画がイタリアに発覚する危険性も増すわけであり、増加した危険性に関しては――、これは赤十字社が最後まで「駄目だ」と渋った部分であったが、囮・先導役として護衛機を用意することで危険を払拭することにした。
ここで話が本題に戻るわけだが、エイノ・イルマリ・ユーティライネンとは、この護衛機のパイロットである。
出身はフィンランド。周囲がベテラン揃いの中にあり、熱意を買われてパイロットの座を勝ち取った、最年少の航空士であった。
乗機はPZL社のP.23"カラッシュ"改。大型輸送機を伴う長大な航続距離を護衛するために、純戦闘機ではなく、出来合いの偵察機を単座戦闘機化することで再設計された良好なターン・ファイターだ。
第1回から第3回までの航空輸送作戦において、ユーティライネンはスウェーデン貴族のカール・グスタフ・フォン・ローゼン率いるローゼン護衛隊の補欠人員として隊の出発を見送った。
出発地点は目的地から1200kmほど離れたアラビア半島南端部サラーラだ。これはエチオピアに隣接する英仏領東アフリカ地域からの出発では、イタリア軍航空機に捕捉、対応されやすいことと、夜間に陸上で発生する下降気流が問題視されてのことであった。
その点、紅海対岸からの出発ならば、片道の航行距離こそ延びるものの、上昇気流と偏西風を捕まえて高度を高く保ちやすい。
この第1回作戦は奇襲効果も相まって、長距離の航行ではあったが見事に作戦を成功裏に終える。
だが、第2回作戦から作戦の行く先に暗雲が立ちこめるようになった。赤十字社の動きに激高したイタリア政府が、『歴とした領空侵犯であり、発見次第迎撃を行う用意がある』と宣言したのである。
実際、作戦の遂行中にローゼン護衛隊の僚機が『下方から迫るエンジン音を耳にした』と証言していた。
そして、第3回作戦。ついにイタリアの迎撃部隊が輸送隊の尻尾に噛じりつく。
高度6000m上空、直下まで迫った"フォルゴーレ"と、輸送機に手を出させまいとする"カラッシュ"改がここで激突した。
高度優勢を保っていた"カラッシュ"改と急上昇を重ねてきた"フォルゴーレ"は、圧倒的な性能差にも関わらず見かけ上は互角に戦闘が進められる。
だが、この戦闘で2機の"カラッシュ"改が撃墜された。そもそも赤十字社の意向で相手を追い払う以上の武装を許されていなかった"カラッシュ"改では、12.7mm機銃2丁に7.7mm機銃2丁という重武装を施された"フォルゴーレ"には敵うべくもなかったのだ。
激戦の末に輸送機は無事にエチオピア首都にたどり着いたが、ベテランパイロットを二人失った事実は深刻で、赤十字社はまだ輸送半ばであるも作戦を中断する旨を発表した。
しかし、その一ヶ月後。アディスアベバに派遣された医師から、致死性の伝染病蔓延の恐れありとの電信がパリ本部へ送られ、決死の第4回作戦が計画されることとなる。
仲間の無事を祈り続けてきたユーティライネンに、とうとう出番がまわってきた。
夜間離陸を成功させ、紅海の出入り口である"涙の"海峡までたどり着いた第4回航空輸送隊は、再びイタリアの迎撃部隊と相見えることになる。
ユーティライネンの働きは初陣にして既に目を見張るものであった。敵のエース――、これは新聞特派員の発表であり確実な情報ではないが、ルッキーニなる若手航空士と比定されている――、と互角の戦いを繰り広げ、輸送機に全く寄せ付けなかったのである。
そして、空戦史上に絢爛たる記録を残した第5回作戦。イタリアの大部隊接近をいち早く察知したユーティライネンは、単機で大部隊に突入。少なくとも6機の"フォルゴーレ"とドッグファイトを行い、燃料が尽きるまで戦い抜いた。
エスコート半ばで燃料不足によりアラビア半島に不時着する羽目に陥った彼は任務を全うできなかったことを悔やんでいたらしいが、敵の接近を食い止めた時点で大殊勲であろう。
隊長たるローゼン伯爵が『生きていてくれてありがとう』と涙ながらに抱擁する写真が新聞を賑わせたことは記憶に新しい。
一連の情報を踏まえるに、ユーティライネンという航空士は"天才"である。
いや、"天才"という言葉すらも生ぬるい"怪物"であろう。
イタリアといえば列強随一の空軍大国で、その最新鋭機には、まず間違いなく精強で有名なスクアドローネ・ディ・アッソの一員が乗っていたと考えて良い。
イワン自身の腕前を10とした場合、アッソの腕前は下の連中でも概ね7か8を下回らぬだろうと予想される。それらを相手に無双の大立ち回りを繰り広げたのならば、ユーティライネンの腕前は最低でも10より明らかに上。
もしかすると、生まれて初めて自分よりも格上だと認めた、日本の二人組をも上回るかもしれない。
そんな化け物を相手に、"挑戦者"の立場で戦いを挑むなど、愚か者のやることであった。少なくとも自分ならば、体の良い理由を用意して、別の人間に役割を押しつける。空のロマンは理解できても、自殺願望など持ち合わせていないのだ。
「そのフィンランド人パイロットは、隊長より……。いや、お前よりも明らかに上手いのか?」
「多分ね。貴女の隊長はどうか分からないけど、私だってユーティライネン氏のように『一発の被弾も許さずに多数の敵を完封する』くらいはできるよ。目と勘の良い人間だったら、それくらいは楽勝だ。ただ、彼の恐ろしさはそこではないと思う。燃料が尽きるほどの長時間戦闘をこなしながら、貴女は果たして多勢に立ち向かうことができるかい? 恐らく彼は集中力と体力、それに寡兵で多勢に立ち向かう術を集中的に磨きあげたのだと思う。マラソンをしながらチェスをするような、体力と読み合いの世界だね。私にはちょっと真似できそうにないや」
女性パイロットは苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「……確かに敵には強力なエース・パイロットがいるのかも知れない。それでも大祖国は……、いかなる"犠牲"を払っても勝たねばならんのだ」
「ふうん」
イワンは彼女をまじまじと見る。まるで"死"と"犠牲"に意味があるかの物言いがひどく面白く感じられた。
やはり彼女はロマンチストだ。雄としての、種の保存本能を抱えて生きている。自分とは真逆の生き方をしていた。
――こういう手合いは、薪を足下にくべて踊らせた方が面白い。
「もし、ああいった手合いに勝とうとするなら、個人でやり合おうとしてはだめだ。"編隊戦闘"戦術をもっと磨かなければならないだろうね」
「"編隊戦闘"戦術……、3機分隊の連携を磨くということか?」
「いや。ドイツの実験部隊が導入しつつある奴だよ。分隊を2機、小隊を4機で編成するんだ。下手をすると空の常識がひっくり返るかもしれない。丁度、明日明後日にもアジアの空で見られるんじゃないかな?」
占い師じみたイワンの物言いに、彼女は薄気味悪そうに身震いする。
「……何故、ナチスの部隊が極東で飛ぶ。お前は一体何を知っているんだ?」
その質問に、イワンは笑って答えを返した。
「他の人より知り合いが多いから、知っていることを披露できるだけさ。でも、貴女も少しは周りの情報をきちんと集めた方が良い。視野狭搾って、ある種の罪だと思うぜ」
「だ、誰が視野狭搾かっ!」
航空服に着替え終わったため、イワンはぎゃあぎゃあと喧しい彼女を背にして、枢軸スタッフのもとへと小走りで向かう。
「おい、カラマーゾフっ! 先程のは一体どういう意味だ!」
スタッフたちにサルミアックを振る舞いながら、イワンは彼女に答えを返す。
「最近、極東で過激派によるテロが頻発しているだろ?」
「それと"編隊戦闘"戦術がどう繋がる!」
「"偶然"中国の共同租界に置かれていた新型の航空機が、"偶然"テロリストの手に渡ったとしても不思議じゃあないってことさ」
絶句する彼女に対し、イワンは薄笑いを浮かべて更に続けた。
「まあ、テロリストなんかに日本の"小悪魔"部隊は荷が勝ちすぎていると思うけれども……。彼らが次世代"編隊戦闘"戦術を相手にどう戦うのかは気になるね。なるべく情報を吐き出させるようテロリスト連中には奮闘を祈りたいものだ。もしもの話だけれどね」
言って、イワンは極東に想いを馳せる。
面白いことに、顔見知ったあの日本人航空士が敗北する様は、どう頭を捻ったところで想像することができなかった。
1936年7月初 観艦式4日目、東シナ海にて
嗅ぎ慣れた潮風を浴びつつ、源田は"浅間丸"の甲板上で連日行われている護民艦隊の民間向けパフォーマンスを見学していた。
海軍視察団の中で常に甲板上に出ている者は、自分と山本提督くらいのものだ。他の連中は多数派工作と称して、日本人の名士や各国軍人とのコミュニケーションに勤しんでいる。
そう、同僚たちは既に護民総隊を見切ったのだ。大言壮語を吐いていたが、別段取り沙汰すほどのものがあるわけではなさそうだ、と。
こうして甲板に残っている源田も、こと新造水上艦に関しては同様の感想を抱いていた。
漁船まがいの"浦島"型はこの際目を瞑るとして……、例えば主力となるべき"占守"型だ。
これ見よがしにマストと並べて立てている超短波警戒機とやらは別段物珍しくも何ともない。あれはそもそもが陸海で情報を融通した末に作られた代物であり、同等の性能を持つ電波探信儀を海軍においても開発できている。実験段階にある兵装をいきなり搭載している腰の軽さには驚かされたが、それだけだ。
それよりも何よりも致命的に思えたのは、全くお寒いことになってしまっている火力投射量であった。
何故、艦載砲を一基でも多く積まないのであろうか。あれでは、万が一戦闘艦の襲撃を受けでもしたらひとたまりもなかろう。
海軍が砲の提供を渋っていたことは源田も承知していたが、それなら陸に提供を頼めばいいだけではあるまいか。陸にだって、海ほど上等な砲はなかろうが、それでも0よりはずっとずっとマシだ。
『生残性の向上』だの『一隻あたりのコストを軽減』だのと谷口提督が式典の最中に仏頂面で解説していたが、源田にはそれらの言い分が全て、海軍嫌いと貧乏をこじらせて、極端に走ったようにしか見えなかった。
「"攻撃は最大の防御"」
少々たるんだ顎を手で撫でながら、山本がぽつりと呟いた。
「生残性の向上もコスト軽減も、確かに重要なテーマであることに違いはない。軍政屋の谷口さんらしい戦力の揃え方ではあるな」
「はい」
源田が相槌を打ち、その先を促すと山本が表情をしかめて続ける。
「だが、あれじゃあただの延命処置だよ。攻撃力がなければ事態は決して打開できない。武人から刀を取り上げるなど……、現場の者どもを一体何だと思っているのだか」
現場、の言葉を受けて純白に輝く総隊所属艦を一隻一隻を見渡していく。
――と、先頭を航行する"へそ曲がり空母"が左前方に流れるのとほぼ同時に、各艦も同じ角度で左前方へと流れた。
艦隊を運用する乗組員の練度は、明らかに高い。
"浅間丸"の甲板上で演奏された楽団の曲にあわせて増速と減速を一糸乱れぬ連携で繰り返しているのだ。
流石に"元"海軍出身者が操っているものだと唸らざるを得ないだろう。
佐藤提督や百武提督らによる指導の賜物であろうか。
しかし、見事であるからこそかえって哀れにも思えた。財布の問題なのか方針の問題なのかはわからないが、上の意向によって攻撃力を取り上げられて尚、自らにできる全力を各人が尽くしているのだ。
彼らはまるで、サーカス団の獣であった。牙を抜かれ、人に刃向かうなと躾られ、人を楽しませよと芸を仕込まれる。
山本提督の言ではないが、人を何だと思っているのか。気に入らぬ光景が広がる中で、"へそ曲がり空母"から飛び立った航空機が、こちらも"護民サーカス"を披露する。
主脚を仕舞い込んだ和製マッキだ。
海上護衛二二型軽戦爆機。護民総隊の連中からは、"雨燕"などというあだ名を付けられていた。
原型は海上護衛二型哨戒機にあり、それを発展的に艦載機化すべく軽量化と翼面加重を小さくまとめあげたものらしい。
青写真は共和商事の技術者が引いたが、製造は中島航空機が一手に引き受けたと聞く。
全金属製にしたために継ぎ目の粗が目立つようにはなったが、材質の差による機体重量の減少が劇的な運動性能の強化に繋がった。
最大速力は高度6000メートル下において時速500km。30kgの通常爆弾を2発搭載可能であり、12.7ミリ機銃を2丁左右両翼に備えていることもあってそれなりの火力を保持している、はっきりいってかなり"好み"の機体であった。
海軍の九六艦戦も運動性能に関して文句はないが、純戦闘機として設計された手前、爆弾の搭載能力に難がある。源田の理想はあくまでも空戦の可能な単座攻撃機だ。現状において、あの"雨燕"は源田の理想に限りなく近い。
コミカルな行進曲を楽隊が奏でる中、"雨燕"航空隊が翼から煙を吐いて、空中に絵画を描き始めた。巨大な翼を持つ、恐らくはカモメの絵であろう。
風に吹かれてカモメの翼が崩れると、次は海面すれすれを飛んでいた複数機の水上機と飛行艇が一斉に水しぶきをあげた。カモメに追われた魚を表現しているらしい。
その中にあってアホウドリにも似た、ひときわ大きな体を持つ飛行艇が印象に残る。
一型哨戒飛行艇。"荒鵜"の通称を持つ、対潜性能と通信性能を追求した双発ガル翼の哨戒機だ。
開発と設計は愛知航空機と川西航空機が共同で行った。
引き込み式のサブフロートを採用しており、海上を低速で航行することもできる。胴体側面に備え付けられた複数のサーチライトは、昨夜の夜間飛行実演で海上を明るく照らし出したばかりだ。
一応主翼にくくりつける形で2発の航空爆弾を搭載可能であるが、基本装備はあくまでも曳航式の水中聴音機と大型の通信機材のようで、航空偵察によって得た情報を船団にもたらす中継基地としての運用を考えているらしい。
「あれは、欲しいな」
山本提督が目を輝かせて言う。
どうやら"荒鵜"は提督のお眼鏡に適ったようだ。
「攻撃機としての運用ですか?」
「夜間触接機や、アウトレンジからの航空攻撃を成功させるための偵察中継機としても使えるかもしれんよ。だが、君としては"雨燕"の方が気になるんだろ? あれはまさに源田理論に則った航空機だ」
そう言って山本提督が茶目っ気の溢れた笑顔を浮かべた。
この御仁はからかい上手でもあるのだ。
「……掘り出し物を見つけた気分です」
"雨燕"にせよ"荒鵜"にせよ、共和商事の自社生産でなければ、海軍用に発注することも、設計図自体の供出を要請することもできる。そう考えてみると、護民総隊にもやはり一定の価値はあるのかもしれない。勝手に卵を生んでくれる鶏としての価値ではあるが。
「成る程、ここは蚤の市というわけだ。確かに蚤の市に"シルクドレス"はなあ」
人目もはばからずに吹き出す山本提督の様子に周囲の見物客が怪訝そうなまなざしを向ける。そのいずれの者たちも、彼が護民艦隊に"乙"の評価を与えたのだとは思うまい。武人に"シルクドレス"など要らぬのである。
と、見物客で形作られた壁が左右に割れた。総隊の人間がやってきたのである。
カミソリを思わせる酷薄な面もちが、彼の出自を参謀畑であると暗に物語っていた。
「山本さん」
「井上かあ。まずは息災で何より。細君のご病気も快方に向かわれたようで俺もつくづくほっとしているよ。どうだ、総隊の水は甘いか?」
山本提督の軽口からは二人の関係の深さを窺い知ることができた。が、相対する井上はといえば苦みばしった表情を浮かべている。
「場所を変えませんか? お仕事の話で」
「ん、分かった」
崩れた軍帽を被り直し、山本提督が頷く。足早の井上に連れられた場所は、この船の通信室だった。
船付きの通信士と、船長らしき人物が難しい顔をして話している。
見渡してみると、総隊員の顔がちらほらと見えた。表で観客に向けた解説を続けている谷口こそいなかったが、参謀畑の人間は軒並み勢ぞろいしており、中には後輩の宮本もいる。
どうやら宮本は紙書きされた電信を読み込んでいるようだ。
「浦部船長、続報は?」
井上が船長に問いかけると、船長が頭を振った。
「今のところ詳しい話は……。私としては進路の変更を希望いたします。お客様を危険にあわせることだけは看過できません」
「それは我々総隊も志を同じくすることです。ご安心召されよ」
話の流れから、次の目的地である上海で何かトラブルが起こったことだけは理解できた。
井上は思案する素振りを見せて、更に問う。
「香港の港湾管理局とは連絡がつきましたか?」
「船団全ての入港は厳しいそうです。先だって上海から避難した船が多いらしく……」
「ならば、"浅間丸"だけでも……。いや、むしろ馬公に向かうべきですな。あそこには海軍の警備府もあります」
「井上、何ぞトラブルか?」
山本提督が口を挟むと、井上は渋い顔で肯定した。
「上海で大規模なテロが起きました」
「エッ?」
「反民族主義者の手によるものと予想されます。昨今は満州族による清朝復権を目論む民族テロが多発していましたから、その報復行動かと。あそこには清朝最後の皇帝一族が暮らしています」
仰天して源田は通信室に備えられた舷窓に目を向ける。上海は既に目と鼻の先だ。西に100kmと離れていない先が鉄火場と化しているというのだから、驚かない方がおかしい。
「……随分と急な話だな。何時発生した」
「昨夜未明。大規模な軍事衝突に発展したのが6時間前です」
山本が眉をしかめる。
「情報が遅い。もっと早く対処できたろうに。それこそ事前に情報を察知できるようでなければ駄目だ」
「4年前の事変以来、帝国は上海から手を引いているでしょう。元々最大の情報提供者は陸海軍でした。情報提供者の不在が、ここで後を引いたんです」
「全く、国民党なんぞに警備を任せておるからこうなるんだ。二転三転する政治家の尻拭いなど、御免被りたいものなのだがなあ……」
軍帽の上から山本は頭を掻き、通信士のもとへと寄っていった。
「旅順と高雄に繋いでくれ。旅順には救援の要請を。高雄には船団の受け入れ許可を。俺の名を使って良い。それで護民さんは――」
「艦隊の大部分を"浅間丸"の護衛につけます。ただ、"竜飛"に"能登"、"秋津"。"占守"に"国後"、"海彦"と"山彦"は上海に向かわせます。あそこには民間の在中邦人が未だおりますから」
「うちらのエスコートなしで大丈夫かよ」
「護衛は我々の仕事です」
井上が宮本に目を向ける。
「宮本。大発で"竜飛"に向かえ。航空隊の現場指揮は任せた」
宮本が頷く。その表情はやはり物々しい。
そして彼が了承の言葉を放たんと口を開いたその瞬間、
「誰かッ!」
船内の何処かより甲高い悲鳴と助けを呼ぶ声が聞こえてきた。
「まさか、この船内にテロリストが!? 持ち物検査だって厳重にしたはずですよっ!」
「落ち着いてください! まだ船内でテロが起きたと決まったわけではありませんッ」
顔面を蒼白にした浦部を井上が叱咤する。
「とにかく、急行します」
宮本がそう言い残して、現場へと駆け出した。
宮本の後ろ姿と慌てふためく船員たちの様子を見て、源田は確信する。最早、観艦式どころではなくなってしまったことを。
◇
中地美冬は生涯口外するつもりのない大きな秘密を抱えている。
級友たちの演奏を楽しみ、宿泊している"浅間丸"の客室へと戻る途中で美冬は自らが抱える秘密の発端へと目を向けた。
「絶対間違いないよ、大和君。オードリーって言ってたもん、あの子!」
「オードリーなんて名前、何処にだっているんじゃねえの。大体、その"ローマで休日を過ごす"はずのオードリーさんが、何で日本で休日を過ごしてるんだよ」
「そんなの分からないけどさあ……」
趣味の良い装飾が施された細長い通路を連れ歩く親友たちは、先ほどすれ違った少女の名前を巡って小声の大激論を交わしている。
「……美冬ちゃんもそう思うでしょ? 一緒に映画を見たもんね」
「確かに面影はあるように思いましたけれども」
親友に水を向けられ、思索の最中であった美冬はやんわりと微笑んで曖昧に答えた。
その反応に彼女はまだ消化不良の様子であったが、「何の映画のお話ですの?」と彼女らの後ろをしずしずと付いてきていた級友たちが口を挟んできたために、美冬への注意は再び外されることになった。
「そういえば、この前のロッテさん綺麗だったよね」
「まあなあ。『あなた方の買ってくださったドレスを使って、お金の稼ぎ方をご教授して差し上げますわ』の意味は正直よく分からなかったけど」
「ルーブル金貨って私たちの住んでたところだとすごい価値になるんだね……。びっくりしちゃった」
彼ら彼女らの雑談に耳を傾けつつ、美冬は静かに歩調を合わせる。
「どしたの、美冬ちゃん」
ここ秘密の発端に気遣わしげな声をかけられる。未来で療養生活を送っていた時も、いの一番に美冬の変化に気が付いたのはいつも彼だった。
「大和さん。あ、ええと。何でもありませんよ」
「ふうん」
恐らくは納得していないのだろうが、袖を引く級友の対応が美冬への気配りよりもひとまず優先された。彼はいつどんな時でも引っ張りだこなのだ。
級友たちに矢継ぎ早の声をかけられ辟易しつつも優しく返す彼を見ながら、美冬は思う。
やはり彼は"物語の主人公"なのだと。
彼はこの世界において唯一無二の"時間移動ができる"人間である。
移動自体はのどかや美冬も経験しているが、自分たちには"大和の手を握っている時にしか"時間の移動ができないという重大な制約が存在した。
そう、時間移動は"大和が主導となって行われなければならない"し、パラレルワールドへの介入も全て"大和の手で行われなければならない"。
つまり、自分たちが時間移動をしくじった際に観測してきた様々なパラレルワールドは、全てが大和の手によって生み出されたものであったというわけだ。
美冬がこの事実に気が付いた時、最初はただただ混乱した。
何で、彼だけが"特別"なのだ。
いや、そんなことよりも大和の選択によって千差万別に世界が分岐するというのならば、その数ある世界の一員である自分は一体なんだというのだろうか。
一時は大和たちの暮らしていた世界こそが本物なのだろうか、自分たちはもしや胡蝶の夢なのだろうかという怖い発想に取り付かれて、夜も眠れぬほどであった。
想像するだに恐ろしい話ではあるが……、たとい自分が夢の住人であったとしても、「今の自分は幸せなのだ。幸せに生きているのだ」と開き直ることができるようになったのは、本当につい最近のことである。
ようやく気づくことができたのだ。
大和たちがやってこなければ、そもそも結核に冒されていた自分は"終わっていた"のだと。
美冬はこの当たり前の事実に気が付いた後、自分の生まれたこの世界を精一杯に楽しむようになった。
例えば大和が恐れていた世界の変化は、美冬にとっては人生の彩りだ。
政治・文化を問わず様々な諸相に顕れる変化は、この世界が何者かの意図に従ってデザインされたものでなく、確かに"生きている"のだと実感させてくれる。
周囲の人々が抱く感情の数々もまた、美冬を楽しませるものであった。
『……既成事実って、忌々しい言葉だと思いませんこと? ああ、いやだ。むかむかして、こう、むかむかして。別にどうとも思っておりませんけれども……』
と不機嫌そうに理事長室の机にひじを突くシャルロッテ会長も、
『ぽったあって何です? まあ、ミフユさんが楽しいのなら何よりです。でも、ぼく眠たいのでちょっと起こさないでください……』
と目に隈をこさえて長椅子に寝転がって仮眠するユーリも、
『美冬。君の兄はしばらく遠国へ旅立つからね。七日に一度は必ず電報を飛ばすから、どうか寂しがらないでおくれ。むしろ君も僕と一緒に来ないかい? ああ、でも折角の学校生活を送れる機会を奪うのも……』
涙ながらにタイの港町へと旅だった兄も、
『美冬ちゃん、帝都帰りに万年筆を買ってきた。女学園の入学おめでとう。学校生活を楽しみなさい』
兄の友人であると同時に、美冬にとっても兄同然である千早も、全ての人々が愛おしい。
生きているからこそ、ころころと表情が変わる。だから、美冬は人の顔を見ることが好きになった。
こうして世界を愛し、人を愛して、自らの未来に希望を持つようになると、とある疑問が頭の片隅にもたげるようになる。
それは中地美冬と、その曾孫であるはずの佐治のどかを繋ぐミッシングリンクの存在だ。
原則として時間移動が可能な存在が大和ただ一人だけであるとするならば、自分と結婚する可能性のある"佐治某"とは一体何者なのか――。
いや、そもそも"中地"に対して"佐治"という苗字はいかにも出来すぎな感がある。本当の苗字とは限らない。
だとすれば――。
美冬が秘密の発端をちらりと窺おうとする。その矢先、
「あれ?」
開かれた客室のドアから覗く、横たわった人の足に気が付いた。
「誰か倒れてる……? 大変だっ」
美冬同様、異変に気がついた大和がすぐにその場を駆け出す。もし具合を悪くした人がいたのならば、医務室へと運ばなければならない。応急の処置は時間との勝負だ。自然と美冬ものどかも、級友たちも大和につられて小走りになった。
「大丈夫ですか――」
いち早く駆けつけた大和がドアの前に横たわった足の持ち主に声をかける。だが、それに応える声は返ってこず、代わりに勢いよくドアが開かれた。
「えっ?」
目を見開く大和の身体が、黒い影に突き飛ばされる。
まるでその光景がスローモーションのように美冬の目に焼きつく。大和の身体は黒い影から伸びた細長い何かに貫かれていた。
「痛ぇっ……」
壁に背中を強く打ちつけた大和の肩に、赤い染みが広がっていく。それが血であると気が付いた時には、黒い影が大和の体にまたがり、血の滴る細い何かを振りかぶっていた。
「や、大和君っ!」
のどかだけではなく、級友たちが甲高い悲鳴をあげて黒い影の注意がこちらへと向いた。
それはアジア人であるということしか分からない、特徴のない優男であった。男の白濁した眼と、手に持った針金状の凶器を見た瞬間、美冬は蛇に睨まれた蛙の如く硬直してしまう。
「あっ……」
優男が標的を変え、立ち上がる。美冬は恐ろしくてその場を一歩も動くことができない。美冬の金縛りを解いたのは、痛みにあえいでいるはずの大和であった。
「逃げろ!」
優男の足を掴んでの叱責だった。金縛りの解けた美冬は、それでも大和を見捨てることができずにただ周りに助けを求める。
「誰か!」
運が悪いことに人通りがなかったらしく、その声に応じたのはたったの一人だけであった。
「これは一体どうしたことだ!」
英国人の、大柄の男性で厳めしい顔つきに見覚えがある。
優男が周囲を一瞬見回すのが見えた。美冬たちと英国人男性が通路の両側を塞いでおり、逃げ場がないと判断したらしい。
次の動作を起こそうとしたところに、英国人男性が体当たりを行う。
「事情は大体理解したぞっ!」
大柄だが機敏な動きだ。優男には受け流されてしまったが、即座に美冬たちの側に立ち、こちらへは通さぬとばかりに取っ組み合いの構えを取る。
「チュウジ一年生。今の対応は正しい!」
英国人男性が英語で吠える。その意味するところは聞き取れるが、その意図するところは分からない。
「対応のできないアクシデントに遭遇した時は人に頼るのだ。特にレディのすることならば、誰かがきっと何とかしてくれる!」
再び英国人男性が体当たりを敢行した。優男が何かを毒づく。お前は何なのだと言っているようにも思えるが、日本語でも英語でもないためにうまく聞き取ることができない。
「私が何者かだとっ? 私は女学園の音楽課講師、ジャック・チャーチルだッ!!」
優男の腕を掴んだチャーチル講師が、男の身体を力任せに投げ飛ばす。
木製の壁が大きく揺れて、備え付けの骨董品が衝撃で床へと落ちて砕け散った。
形勢不利と見た優男が通路先にある階段から出口を目指すも――、
「な――」
何者かに殴り飛ばされ、再び階段下にまで転がり落ちてきた。そして、ぴくりとも動かなくなる。
悪漢の討伐を為し遂げたのは、意外にもアメリカ人らしき長身の女性であった。
「……思わず、殴っちゃったけど良かったのかしら」
連れの男性と何やら言い合っているが、今はそれどころではない。
「大和君っ!」
美冬が声を発するよりも先にのどかが顔面を蒼白にして大和の上体を抱え起こした。ドレスの裾を破いて肩の止血を始める一連の動作は、同年代の自分から見るとため息の出る手際である。
「大和さん……」
心配で大和を見つめていると、チャーチル講師がぽんと肩に手を置いてきた。
「君の判断は間違っていない。医務室に運ぶ人手が必要だろうから、彼についてあげなさい。私は悪漢を確保しなければ」
その言葉に美冬は頷く。
「大和さん、大丈夫ですか……?」
「いや、大丈夫かどうかで言えば、全然大丈夫じゃないよ……。マジで痛い。正直泣きそう。何なのあれ」
駆け寄った美冬に、大和は気丈に軽口を返してくる。
「大和君、止血済んだから医務室へ行こう!?」
「のどか、お前すげえなあ」
「馬鹿言ってないの!」
美冬も片側の肩を取り、のどかと一緒に医務室へと大和を運ぶ。その後ろには級友たちが気遣わしげに列をなして付いてきていた。
「美冬ちゃん、ああいう場面は逃げるが勝ちだって。その場に止まっちゃ駄目だよ」
「……絶対逃げませんから」
大和の言葉に力強く首を振った。
彼は自分にとって、欠かすことのできない大事な存在なのである。
命の恩人の一人であり、初めてできた同年代の親友の片割れであり、そして――。
中地美冬には口外することのできぬ秘密がある。
それは言葉にすれば、親友の片割れを裏切り、もう片方を困惑させる類の感情であった。
ようやく閑話が終わってドッグファイトに戻れそうです。




