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1936年7月初16:00時 男鹿湾内にて

※商船出身士官は基本的に架空の人物です。

「このような青っちょろい貧弱艦隊をしたり顔で並べたてようなどと、一体あやつらは何を考えているのだ――」

 さも小馬鹿にするかのように声を作ったのは、護民総隊の参謀長である井上であった。

 彼の四方に敵を作りかねない口振りに、傍らで紫煙をくゆらせていた谷口がぴくりと眉を持ち上げる。

 立ち上る煙が海風を受けて、刹那の小さな筋雲を形作っていく。7月の頭ということもあって、西日はまだ高い。眩しげに目を細めつつ見てみれば、井上は笑いを噛み殺していた。


「――と、海軍視察団の連中は今頃思っておるでしょうな。山本さんも血の気が多い連中をまとめあげるのに苦労しそうです」

 この男が楽しげな表情を浮かべるのは、嫁との関係がこの上なく上手く行っている時か、他人をあざ笑っている時だけである。

 谷口は気疲れと諦観と紫煙の入り交じった息を吐き出した。


 現在、二人は護民総隊本部の屋上で短い休憩をとっている。

 日中は、殺人的なスケジュールのもとで各国の外交官やら大企業の重鎮、国内に数多いる名士などの接待に総隊各員を糾合して奔走していた。

 だが、これはあくまでも式典前日の準備運動のようなものであり、本番は明日の海の上で行われる。谷口たちの主戦場は、"浅間丸"の船上と決まっていた。


「本部長はどう思われますか?」

「どうもこうも」

 谷口はため息がちに返す。後背地の山々、前方の男鹿湾。パノラマの絶景が広がる中、谷口の視線は井上に促されずとも、護民艦隊へと注がれている。


「海軍さんの論理に従うならば、そりゃひどく正論だ。反論の余地もないじゃろ」

 谷口とて元は海軍出身だ。古巣の不満は手に取るように予想できた。


「まず、見栄っ張りが多いですからなあ。見栄っ張りに"あれ"は許せんでしょう」

「まあ、そうじゃろな」

 井上が"あれ"と称しているのは、受閲艦に混ざっている"他国の艦"のことであった。

 谷口の計画したこの式典には、総隊なりのロジックで組み上げられた、独特の仕掛けが施されている。

 例えば、シオン共和国やロシア連邦、大韓共和国に所属する護衛艦を総隊所属艦と並べていることが、それだ。

 先年に成立したこれらの新興国家は、帝国海軍の旧式艦を買い取るという形で最低限の面目が保てるだけの海上戦力を保有している。

 その多くが中東への遣外艦隊に所属していた経歴を持ち、"グロリオス諸島の悪夢"によって、ケチが付いた艦であった。


 シオン共和国は軽巡洋艦"球磨"と駆逐艦"呉竹"、"若竹"。

 ロシア連邦は装甲巡洋艦"八雲"と駆逐艦"早苗"、"芙蓉"。

 大韓共和国が駆逐艦"刈萱"。

 これらの旧式艦は今後それぞれの母国語で名が改められ、新たな艦歴を歩んでいくことになる。

 遣外艦隊で唯一近隣国の買い手がつかなかった"朝顔"は、今もグロリオス諸島の岸辺に放置されていた。損傷が甚だ激しく、我が国まで牽引するにはコストがかかりすぎると判断されたのだ。

 ただ、格安ではあったがフランス植民地艦隊が"朝顔"の買い取りを打診しており、いずれは他の艦と同様に新たな道のりを歩んでいくものと思われる。 

 問題は……、他国の艦となった旧帝国海軍艦のいずれもが、護民艦隊の新型海防艦より高火力を有してるであろうことだった。



 菱形の変則的な輪形陣を取っている受閲艦隊は、その外縁1層目に護民艦隊所属艦が、2層目に近隣諸国所属艦が、3層目に護民艦隊所属の"特殊艦"とフランスの"ブーゲンヴィル"級やタイ王国の小型軍用艇のような友好国の所属艦が配置されている。


 谷口は1層目に目をやった。そこには"ブーゲンヴィル"級を一回り小さく、貧弱にしたような艦形の小型艦が浮かんでいる。

 排水量530トン、"浦島"型護衛艦。元はトロール船を軍用に改装した間に合わせの代物であったが、予想以上に使い勝手が良く、谷口にとっては総隊設立から今に至るまで付き合いのある、最も愛着の湧く艦だった。

 既に同型艦が14隻就役しており、その中でも"竜宮"の名は"下克上"の武勲艦として広く世界に知られている。

 現在は民間船の通商護衛や日本近海の哨戒活動といった通常任務をこなしていく傍らで、対潜戦闘のノウハウ構築、水上機の運用研究、さらに練習艦として新規入隊者の練度を高める役割も担っており、護民総隊という組織を育む揺りかごと化していた。

 無論、"オルフェイ"級を改装した"海彦"や"山彦"の方が対潜火力投射能力は高く、また水中聴音能力においても優れているであろうことは間違いあるまい。

 排水量1万トンの"富山"や"対馬"といった水上機母艦の方が索敵能力に優れていることは疑いようがないだろう。

 だが、それでも"浦島"型は我らが護民総隊においては最古参にして"最優"の軍用艦である。

 軍政家としての視点に立った場合、同じ予算内で海上護衛戦力を準備しろと命じられれば、1万トン級の水上母艦1隻を用意するよりも"浦島"を12隻用意する。

 "海彦"を1隻用意するよりは"浦島"を3隻用意する。

 他の何が足らずとも、欠かすべからざるは艦の頭数であった。

 国内に数千隻以上存在する商船を守りきるため、有事には100隻でも200隻でもすぐに用意できる量産性こそが肝要なのである。


 そして、こうした"浦島"型の量産性と利便性を発展的に継承させようと試みられた新型こそが、"浦島"型の隣に並ぶ"占守"をはじめとする甲型海防艦たちであった。

 排水量は860トン。

 外見は復元性に優れた長船首楼ロング・フォクスルと煙幕発生管、そして爆雷投下軌条の目立つ艦尾が特徴的であり、武装は25mm連装機銃が8機、空気圧式の爆雷投射装置が1基と、艦載砲を一切撤去している。

 前部に寄った上部構造物にはメインマストに並んで直角にねじ曲げた針金のようなものを無数に取り付けた鉄塔が建てられていた。超短波警戒機という、陸軍との共同開発で生まれた水上の新型広域索敵装置だ。

 これと水中聴音機を活用すれば、航空機には及ばずとも単艦で海の上だろうが中だろうが、幅広いレヴェルで敵をあぶり出すことができるようになる。


 艦首に目を向けると、特殊弾の発射台に目を引かれた。

 ロ式弾という、ロケット噴進で打ち上がる特殊弾の発射台である。

 受閲用にと搭載された9発の75ミリ弾は、まるで羽根の生えた鉛筆の先端を思わせるシルエットをしていた。その尾部にはタービンタイプのスピナーが組み込まれ、内部には黒色火薬が積まれている。発射時には内部に充満した燃焼ガスが、尾部のスピナーを回し、さながら航空機のごとく飛行するのだ。


 さて、このロ式弾という新型兵器。元は陸軍で制式採用されていた38式野戦砲の通常弾に成り代わる新型弾として考案され、後の発射試験で「不採用」との評価をつけられた欠陥品であった。

 最大射程距離は仰角45度において約1万メートルを記録できており、75ミリ弾の最大射程である8000メートルに大きく勝っている。

 また、前提となる噴進機構にも特段の問題は存在せず、発射試験の全てにおいて弾頭を無事打ち上げることに成功していた。

 問題となったのは命中率だ。

 発射した弾頭の全てが狙った箇所に飛んでいかず、中には明後日の方向に進路を変えて民家を燃やしてしまうものすらあった。


 これらの結果を受けて陸軍省の高官たちは判断を下す。

「わざわざ手間をかけて安定性に欠けるロ式弾を量産するくらいならば、その余力を75ミリ通常弾の量産に費やした方がずっと良い」と。

 このように費用対効果の見合わぬ欠陥品としてのレッテルを貼られたロ式弾であったが、兵器開発史の闇へとその存在が葬り去られる寸前で、護民総隊から廃案に「待った」がかけられた。


 ロ式弾について総隊が「価値あり」として着目した点は主に二つ挙げられる。まず一つには、弾種を多目的に変更できる点。

 例えば、推進装置と信管の調整如何によっては対潜兵器としても、活用できる可能性があった。これは手数の限られた総隊において、非常に大きな利点となる。

 また、時限信管によって予め設定した高度で爆破させた後、7,7ミリの散弾を多数ばらまけるという面制圧のしやすさも、対潜戦闘という百発百中の不可能な確率論的戦場を経験した総隊にとって、ひどく魅力的なものに映った。


 続いて二つには発射時の反動の少なさも注目される。総隊の保有艦は小型のものが多く、トップ・ヘビーが懸念された。しかし、ロ式弾ならば反動自体が噴式推進のエネルギーに転換されるため、発射時の安定性を考慮する必要がない。

 かくして「命中率の低さはドクトリンやノウハウで補えば良い」との判断に至った総隊本部は、ロ式弾の運用を決定した。

 まだ試験運用ではあったが、手応えは十分に感じている。


 艦首から上部構造物へと目を向けてみると、その背後には小ぶりな煙突が1基見えていた。さらに中ほどの連装機銃6基を挟んで中後部には2基目の煙突。

 通常、煙突はボイラー室のすぐ上に建てられる。排気管の不要な延長による重心の変化を避けるが故だ。

 前部と中後部に煙突が存在しているということは、すなわち艦内部の機関配置が"ちぐはぐ"になっていることを示していた。

 甲型海防艦は、一度の被弾で全ての機関が停止するという事態が起こらないよう、2機のディーゼルエンジンを前部と中後部にそれぞれ配置しているのだ。


 この"ちぐはぐ"配置は煙突や機関部だけではない。例えば、右舷と左舷に見える、それぞれ位置の違う空気取り入れ口――。これは機関部に隣接した"過給室"なる区画が散らばっているためである。

 "過給室"には大型の過給機チャージャー冷却機ラジエーターが置かれていた。イタリア人技術者たちによる発案で航空機のエンジンを参考に追加されたものであったが、当初予定されていた燃費と速力を大幅に向上させることに成功する。

 最大速力は25.61ノット。1隻の建造費は400万円。そして1隻の工期は長く見積もって240日。

 航空機の搭載能力はオミットされてしまったが、量産性を維持したままに復元性と耐久性、外洋での商船護衛能力を格段に向上させた、"浦島"型の後継としてふさわしい性能を持った優秀艦といえよう。


「よくぞ、この艦を造ってくれたものじゃなあ」

「藤本造船士官のことですか」

 谷口は頷く。昨年の初めより総隊入りを果たした藤本は、まさに不眠不休の働きでこの艦を0から造り上げたのである。

 未練があるのだと、藤本は言った。唯々諾々と不完全な艦を海に浮かべてしまった、自らの罪と向き合いたいと。

 当初は谷口も彼を胡散臭い目で見ていたが、彼の現場における働きぶりをみて、完全に評価を逆転させた。

 助手につけた新人の石井利雄造船士官などは、彼を「造船の神様だ」と崇め奉る始末だ。おだてすぎだとは思うが、完全に否定することもできない。

 青白い幽鬼の顔をして、不眠不休で艦を造っては9割9分までの出来上がりを見届けた後、意識不明の状態で病院に担ぎ込まれた男のことを、およそ常人の物差しで計るべきではないと思うからだ。

 言葉に出す機会を失ってしまったが、谷口は内心で藤本に深く謝罪した。


 身を投げ打って艦を造った彼の名誉は、必ず自分が死守してみせよう。

 総隊本部長という役割は、彼のような存在を守るためにこそあるのである。

 鼻息を強める谷口に対し、井上が冷や水を浴びせかけた。


「谷口さんは絶賛しておりますが、海軍連中はきっと甲型海防艦を腐すことでしょうよ。『話にならない戦力だ。他所に媚びて命乞いでもしているつもりか』とね」

「構いやせんよ。面と向かって言ってくるようならば、わしの方から噛みついてやる。そもそも最優先にすべきは海軍さんの機嫌じゃあない」

 別段強がりというわけではなく、そもそも今回の観艦式において谷口が最も腐心したことは、民間企業や民間人に安心感を与えることであった。

 例えば、近隣諸国艦や友好国艦と敢えて艦首を並べたのは、護民艦隊が「国際的に協調体制をとるのだ」と、内外に広く喧伝するためである。

 更に湾内に並べられた艦隊は、その全てが艦底部を深紅に、艦体側面を純白に、そして上部構造物には鮮やかな空色のラインを描くよう、統一して塗装されていた。


 本来、近代海軍の常識に則れば、このような着色は理屈に合わない。塗装とは視覚的な迷彩効果を狙うためにのみ施されるものであるからだ。

 付け加えて我が国の海軍は"純白"に対する強烈な嫌悪感を持っていた。"純白グレート・ホワイト"とはすなわちアメリカ海軍を示す代名詞。アメリカを仮想敵国に設定していた帝国海軍にとって、純白は敵国の色なのである。

 それを谷口が原則論と海軍の悪感情を無視してまでカラフルな着色を各艦に施したのは、ひとえに海上で民間船舶が護民艦を見つけやすいようにと視認効果を突き詰めていった結果であった。

 どうという風でもない谷口の呟きに、井上が愉快そうに吹き出す。


「海軍をわざわざ帝都から呼びつけておきながら、"お呼びでない"わけですか」

「仕方がないじゃろうが。臣民と天秤にかけたら、臣民が勝るのは……」

「その仕方ない、を彼らは理解できませんよ。いつまでも大黒柱気分が抜けておりませんからな。周りがいつまでも自分たちを支えてくれるものだと思い違いをしているんです。いや、山本さんなら分かっているやもしれませんが、納得はせんでしょう。あの人は海軍が侵されることを決して許しはしない」

「井上は、山本君とは仲が良いのだったか」

 谷口も視察団の長である山本とは面識があったが、さほど仲が良いというわけではなかった。

 そもそも自分と山本には共に軍政家畑であるという共通点があったが、それと同時に世代のギャップと、"条約派"と"艦隊派"という派閥のギャップも存在する。

 だからこそ井上ほどには山本の思考が予測できない。

 井上は屋上の手すりに手をかけると、嘲笑うように口の端を歪めた。 


「まあ、悪くはありません。他の有象無象よりは話が通じるという意味合いで。ただ、身内を裏切れない性分と、自派閥の損得に関わることになると視野狭搾を決め込む点は、小馬鹿にしております」

「――視野狭窄を決め込む、とな?」

 肩を竦めて井上は更に続ける。

「"条約派"の首切り人事にあの人が反対していたのは、あくまでも身内の首を守るためですよ。世論も国際情勢も全て理解した上で、『そんなことは知らぬ』と見ない振りをしたんです。あの人はどちらかといえば軍政家なのでしょうが、実のところ性格的には全く向いていない。損切りができませんからね。そんなところを私は馬鹿にしているんです」

 井上の放つ言葉の端々からは、何よりも憤りが感じられた。

 今の谷口には彼と山本の関係を推し量る術はない。ただ、やはり冷えた関係ではないのだろう。冷えた関係にある者の愚行に、この男が憤るはずもないからだ。


 ――号令のラッパが鳴り響き、休憩時間終了の知らせがもたらされた。

 谷口は煙草盆に吸い差しを押し付けると、軍帽を被り襟元を正す。

「さて、ここからは式典が終わるまで休み無しじゃな」

 その言葉に苦笑いを浮かべた井上も同様に身なりを整え、谷口に付き従う。


「……そういった疲れる仕事は勘弁こうむりたいものですがね」

「にしては、君もいつものようなしかめっ面をしておらん。その心や、如何に?」

 一寸言葉を詰まらせた井上であったが、谷口の表情を見て諦めたように息を吐く。

 総隊を率いる者として、谷口は隊員たちの高額な購入物には常に目を光らせていた。故に彼の機嫌が良い理由を知っていたのだ。


「……夜のダンス・パーティーで家内のシルクドレスを用意してあるのです。彼女に華やかな舞台を用意できたという一点において、今回の催しには感謝しているんですよ」

「愛妻家で何より」

「早く一等偉くなってやりたいと、心の底から思います」

「是非、そうしてくれ」

 井上の捨て台詞に、谷口は声を出して大笑いした。




1936年7月初18:30時 "浅間丸"甲板上にて


 ぞろぞろとタラップを上がり乗船する客の群れを、甲板上に直立したまま観察していると、千早にとっては懐かしい顔ぶれを中に見つけることができた。


「ミヤモト……? もしかして、ミヤモトか!?」

「ミスター・ショート! 良くお越しくださいました」

 千早は谷口たちに許可を取り、エドワードが引き連れる集団へと駆け寄って、がっしりと熱い握手を彼と交わす。

 再会の直前、一瞬だけ見えた表情に陰が差していたのが気にはなった。がすぐに笑顔へと変わったため、恐らくは気のせいなのだろう。

 今は明るい表情のエドワードが千早を見て、首を傾げる。


「ん……、少し筋肉がついたか?」

「貴方も背が伸びた。合衆国の人間は成人してからも背が伸びるのですか?」

「肉を食ってりゃ、いずれジャパニーズもこんな風になるだろ」

 千早は心を弾ませて、エドワードを見上げる。

 そばかすも、焦げた金色の短髪も変わらないが、元々190近くあった身長がさらに200センチに近づこうとしているように見える。千早も178センチと日本人にしては高身長であったが、流石に欧米人とは比べるべくもない。

 千早は上機嫌に笑顔を返した。

 今、エドワードが「ジャップ」ではなく、「ジャパニーズ」と口にしたからだ。手紙のやりとりでお互いの理解は深まってきたと感じてはいたが、やはりこうして面と向かって変化を感じ取れた方が、喜びも勝るというものだった。


「新型の航空機も飛ぶんだろ? ミヤモトが操縦するのか?」

「いえ、小官は"浅間丸"で解説役に徹する予定ですよ」

「そうか、残念だな。それじゃあイクタは……。ああ、そうだ。映像でミヤモトの訓練風景を見たんだが。あれ、相手は本当に新人なのか?」

 軽くエドワードと会話を続けていると、後続より興味津々といった視線が降り注いできていることに今更ながら気がつく。


「お久しぶりです、ミスター。今回の催し、私も楽しませていただきますよ」

 一人はジョゼフ・グルー。千早も面識のある外交官だ。そしてもう一人が分からなかった。

 羽根帽子を斜にかぶり、丹念にカールされた茶髪が彼女の"じゃじゃ馬"ぶりを予期させる。エドワードの辟易した表情を見るに、御しがたい暴れ馬であることは間違いなさそうだ。


「良くお越しくださいました、ミス。お名前をお伺いしても?」

「ヘレン。ヘレン・ドーリットルよ。APで新聞記者をしている。お会いできて光栄ね、ミスター・ミヤモト。もっとも、貴方の名前を私は知っているんだけれども」

「ああ、例の映像で……」

 千早は思わず苦笑する。

 民生で催された総隊の広報行事は、千早の知名度を大きく跳ね上げた。そもそも、"映像"のことを話題に挙げられたのは、これが初めてではない。

 道行く人々には握手を求められたし、航空士らしき者たちからはまるで英雄を見る目で食いつかれた。


 無論、千早個人としては今の状況をあまり好ましく思ってはいない。分不相応の虚像だけが先立つような事態というのは、どう考えてもいいものではないと思うからだ。

 ただ、それと同時に自身の功名が総隊にとって少しでもプラスになるようならば、少々のリスクならば甘んじて被ろうとも考えている。

 今の総隊は、何よりも味方を作ることこそが大事なのだから。


 可能な限り英雄の表情を意識して作り、ヘレンに応対しようとしたところで、視界の端に古巣の面々が飛び込んできた。

「おい、宮本! あれは一体どういう了見だっ」

 ずかずかと割り込んできた男は、飛行学校の先輩である源田であった。何故鼻息を荒くしているのか良く分からなかったが、連れ合いらしきこちらへ憎らしげな眼差しを向けている海軍高官たち、それにのんびりと甲板内を見物している恰幅の良い将官、そしてこちらに手刀を切る生田の様子を見て、どうやら海軍のご機嫌を損ねる出来事があったことだけは理解できた。


「源さん、帝都ぶりです。それでどういう了見とは……?」

「決まっている! あの青っちょろい艦隊と、原型すら残っておらん"鳳翔"のことだっ!」

 "浅間丸"と受閲艦隊の合流は本日の夜間に行われる予定になっていた。式典の開始は明日の、暁が上る早朝になる。

 それなのに現時点で総隊の艦を見知っているということは……、成る程、彼らは総隊の目をかいくぐって男鹿湾に浮かぶ艦隊を先んじて見物してきたらしい。

 事態の飲み込めた千早は、腹を決めて源田に向かい合う。


「あれが、現在我々の準備できる"最良"の戦力なのです」

「"最良"ぅ?」

 千早は毅然と頷く。

 少なくとも、総隊内に"浦島"型を漁船まがいと侮る者は存在しない。

 甲型海防艦を過小戦力と断じる者もいない。

 いわんや"竜飛"を、である。

 改"鳳翔"型護衛空母は、伊達ではない。"あの形"こそが今採りうるベストであると総隊は判断したのだ。


「一体何をもって"最良"と――」

「詳しくは、明日の式典にて小官が解説いたそう」

 源田の勢いを遮ったのは、米国人とのやりとりを後方から窺っていたはずの谷口であった。

 源田は口を開いたまま、ぎょろりとした目をさらに見開き硬直する。

 既に予備役へ退いたとはいえ、谷口の階級は海軍大将だ。たとい"条約派"の筆頭といえども海軍内の上下関係は面と向かった例外を認めるものではない。

 停止した思考が動き出した瞬間、源田は慌てて敬礼を行った。


「た、谷口提督……! 御身自らでありますか」

「――不服かね?」

「い、いえ。滅相もありません!」

「宜しい」

 谷口は頷くと、こちらを憎らしげに睨んでいた高官たちのもとへ向かう。彼らも恐らくは表裏の異なる感情を抱いていることだろうが、目に見えて階級が上の将官と向かい合うというハプニングが、目に見える動揺をもたらした。


「良く来てくれた。我々の用意できる"最良"の戦力を明日お見せできること、まこと嬉しく思う」

「……後学のためにも、しかと拝見させて頂きます」

 何時になく谷口も周囲への圧を強めているように見えるから、彼らもさぞ居づらいことであろう。

 こう見てみると、福永たち初年度の出向参謀組はまこと良い性格をしていたのだなと、改めて思えるから不思議なものだ。総隊が折れる体で海軍の出向を許したことが、心理的な強みに繋がっていったのだろうか?

 この場において、谷口の圧に負けぬ図太い神経をもった人間はただの一人しか存在しない。

 恰幅の良い将官が、谷口の方へと進み出た。


「谷口さん、お久しぶりですな」

「山本君もご苦労。遠いところから、良く来てくれたな」

 山本――! 千早は目を見開き、彼の素性をようやくながら察することができた。

 恐らく彼は山本五十六。古巣にいた頃は天上人であったが、"テクスト"に記された太平洋戦争において、我らが連合艦隊を率いてアメリカと戦う運命を負った提督であろう。

 千早は航空畑といっても"条約派"の下っ端であり、敵対派閥に属する山本とは面識がなかった。成る程。こうして見てみると、"テクスト"に載っていた写真そのままの顔をしている。

 山本と谷口は表面上にこやかなまま、笑わぬ目元で言葉の矛を交わし始めた。


「いえ、この程度は貴方たちの身を思えば……。何せ、"友鶴"の姉妹が新しく生まれたと聞きましたから」

 ぴくりと谷口の眉が持ち上がる。が、すぐに口の端を持ち上げ、こう返す。


「是非、気の済むまで見ていってくれたまえ。総隊うちの海防艦は優秀だぞ。"軍政家"たる君ならば、その真価を理解できるだろう」

 ほう、と今度は山本が目を見開いた。


「飾りたてられたシルクドレスでないことを期待しております。それでは、後ほど――」

 山本たちの背中が船内へと消えたところで、谷口が長い息を吐く。

 日本語の分からぬエドワードたちはきょとんとしていたが、ジョゼフは成る程と納得のいった顔をしていた。


「……私ども合衆国の人間としましては、たとえ"ドレスの品評会"であったとしても不満は無いのですがね。不用意に周囲を威圧しないというのは、まさに日本人らしき"謙虚"ではありませんか。ねえ?」

「いや、お恥ずかしいところを……。我が総隊は臣民を守る盾ですからな。それなりに盾らしいところを見せられるよう、全力を尽くしましょう」

 ジョゼフと谷口が挨拶を交わしあい、エドワードたちもジョゼフとともに甲板を立ち去る。彼の「また後で」の言葉には、張りつめたものが解放される気安さを覚えた。


 更にぞろぞろとフランスやタイ、イタリアやイギリスの武官も船内に乗り込み、千早たちと挨拶を交わしていく。

 観艦式はこれより、最大で14日間の船旅をもって行われる予定だ。

 暁を背に出発する豪華客船"浅間丸"を実際に護送して日本海を下り、東シナ海を西走、上海に立ち寄り、ハノイ、バンコクを目指す。そして希望者を各港で下ろし、最終的には秋田へと帰還する船旅である。

 見てくれだけを見せつけたところで、真なる安心感は得られない。実際に総隊の心強さを肌で感じてもらうことこそが、今回の主目的であった。

 

 さて粗方今回の乗船予定客が出揃い、人心地がついた頃合いに、

「遅刻の一刻や二刻でがたがた言うんじゃねえよ。耳にタコができちまわあ!」

 タラップの方からやけに喧しい大声が聞こえてくる。

 すわアクシデントかと身構えていると、見るからに役人然とした面々を引き連れた、野人の趣が感じられる男性が甲板に乗り上げてきた。

 何者か? と疑問に思う前に谷口が歩み寄って敬礼を行う。


「ようこそ、いらっしゃった。小泉逓信大臣」

 千早は思わず目を丸くする。

 無論、我が国の通信と交通を司る大臣が小泉という苗字であることは知っていたが、まさかこのような"やくざまがい"の風貌をしているとはかけらも思っていなかったからだ。

 小泉は谷口の姿を認めて、ぱっと表情を明るくすると、盛大に谷口の肩をバンバンと叩いた。


「おう、出迎えご苦労さん! 護民さんの親分自らの出迎えたぁ、気が利いているじゃねえか!」

「こちらとしても大事な式典ですからな」

「だが、会期の設定は全く気が利いてねえ! 何だ、9月にずらすことはできなかったのか? こちとら、"バルセロナ"の対応でてんやわやになっちまってるんだよッ」

 小泉のいう"バルセロナ"とは、今月の19日から開催予定の人民オリンピックのことであった。

 本来、今年のオリンピック開催地はベルリンであるはずなのだが、有色人種弾圧姿勢を日に日に強めているドイツに抗議する形で、スペインでも国際スポーツ競技会が開催される運びとなったのである。スペインの政権与党が極左の人民戦線であることから、ファシストのオリンピックにコミュニストのオリンピックなどと巷では揶揄されているらしい。


 この左右両翼のオリンピックに対して、大概の参加国は選手団をどちらにも送り込むことで対応しようとしたが、片翼だけを選んだ国もある。例えばイタリアなどはベルリンのみを価値ある夏季オリンピックとして扱ったし、ワルシャワ・ドナウ経済連携協定の提携国やソ連はバルセロナこそが正当な開催地であると主張した。

 そして我が国はというと、「平和の祭典であるはずのオリンピックが、このように政治的な対立によって分裂してしまったことはまこと憂慮すべき事態である」と、どちらの側にも立たぬ立場で遺憾の意を表明している。

 ただ、"解放主義"を新たな金科玉条に据えていた関係上、国内世論はその好意的な感情を人民オリンピックに向けていた。

 選手団もベルリンに比べてかなり大規模に動員しており、特に前回の馬術競技金メダル受賞者である西竹一などは、人気選手として連日連夜ラジオの話題を総なめにしている。渡西直前に放送された、同じ陸軍騎兵科出身である李鍵大韓共和国大統領の応援演説などは応援者のネームバリューも相まってスポーツ愛好者以外でも番組を聞いていた者は多いだろう。

 今頃、バルセロナ選手団はスペインへと直通する豪華客船に揺られスエズ運河を通過しているはずであり、明日明後日にもバルセロナに到着する運びとなっていた。


「……今も大東亜連合構成国のあちらこちらから、応援の電信や手紙が殺到しているんだぜ。うちの役人どもはひいこら言って、仕分け作業の毎日だ。そこんところに、護民さんの観艦式ってよ。なあ、どうなるか分かるだろ?」

「お手を煩わせることになり、申し訳ないとは思っておりますがね」

 谷口に詰め寄る小泉と、やんわりと受け流す谷口のやりとりを眺めながら、千早はスペインがあるであろう西方へと目を向ける。


 そもそも護民総隊がこの時期に観艦式を設定した判断には、多分に故意的なものが含まれていた。

 何せ未来からもたらされた"テクスト"には、1936年にスペインで内戦が勃発すると明記されてある。そのスペインで今年オリンピックが開催されるというならば、一体送り出した選手団はどうなってしまうのか。

 無論、千早たちは既にこの世界が"テクスト"通りの歴史を辿るとはかけらも信じていない。歴史とは前提条件が積み重なって初めて構築されるものであるからだ。

 ただ、スペインでは左右の対立が激化の一途を辿っているらしく、破滅の導火線が依然目に見えて残存していた。何時内戦が勃発してもおかしくないという状況下において、ただ破滅を座して待つというのは愚か者の所行であろう。

 国内世論を鑑みれば、選手団派遣の中止を働きかけることはできない。無理に強権を発動すれば、折角育ちつつある民主化の機運が潰えてしまう恐れすらあった。となれば、万が一が起きた後、迅速に選手団の救出に迎えるお膳立てを予め整えるしかない。

 そう。この観艦式こそが、そういった臣民を護るための布石なのである。


 タイに出向させていた甲型海防艦"占守"を観艦式に参加させるためには、英領や仏領、蘭領などの列強植民地近海を航行しなければならない。故に各国外交官には総隊の艦が領海内を一時的に通過できるよう、不意のアクシデント発生時には補給を用立ててもらえるよう話を通してあった。スムーズに交渉を通すために、観戦武官の受け入れも二つ返事で受け入れたが、それは護民の必要経費といえるだろう。

 もし、スペインで事が起こってしまった場合は、この取り決めを再利用して、スペインまでの直通航路を即座に確保する。

 かなりの遠洋航海にはなってしまうが、現状他国に護民艦隊を駐留し続ける大義名分がない以上、致し方がない。

 出来得る外交努力はすべて行い、後は艦隊の底力を信じ抜くのみである。


 千早が不確定の未来に思いを馳せていると、小泉の関心がこちらへ移ってきた。

「何を明後日の方向向いて、ぽけっとしてやがるんだ? エース・パイロット」

「え、ああ。小官でありますか」

 何と答えたものか逡巡していると、勝手にこちらの心中を察した小泉が柄の悪い笑みを浮かべる。


「ははん、読めたぜ。今夜のダンス・パーティーだな? 意中の相手と"しっぽり"やろうって腹積もりなわけだ」

「ダンス・パーティー、ですか」

 千早は思わず眉根を寄せる。億劫なものを思い出してしまった。こちらの心中を慮ることもなく、小泉は更にしたり顔で続ける。


「おうよ、ダンスなんざお手のものだろう? 全く海の男ってのはどいつもこいつも好色だねえ」

「はあ……」

 憮然としながらも、ゲストの心証を損ねるわけにもいかず、千早は曖昧な返事で応接する。


 返事を濁しはしたのだが、実のところ千早には海軍時代からダンスの心得があった。

 帝都へ上陸する際には、たまの贅沢にと溜池にある高級ボール・ルームである"フロリダ"へ同僚の誘いで連れ出されていたし、呉にいた頃も軍人優待のある神戸のダンス・ホールへ良く顔を出したこともあって、人並み程度のフォックス・トロットならば当時から意識せずにこなすことができたのだ。


 ただ、今回のパーティーは今までの気軽なダンスとは事情が全く異なっていた。

 金を払って指導してくれるチケット・ダンサーとは異なる"相手"。連日連夜、"相手"が満足するまで練習させられた未知のステップ。そして、そもそも"相手"の悪巧みが明け透けに見えてしまうのである。


 千早は瞼を指で揉み解した。心労が尽きない。

 先ほどは思わずエドワードを同情してしまったが、結局のところ自分だって、"じゃじゃ馬"に振り回されてばかりなのである。




1936年7月初20:40時 "浅間丸"一等社交室にて


 元々豪奢な生活とは無縁であったエドワードにとって、"浅間丸"の全体に漂う貴族情緒はあまり気の休まるものとはいえなかった。

 ゆったりとしたチェアも、柔らかなベッドも、船内に敷き詰められた絨毯も、その全てがエドワードの小市民的感情を逆撫でていく。

 今にして思えば、「夜会を見に行かないか」というジョゼフの誘いを「自分のファンの誘いだから」と受けたりはせず、断っておけばこのような気苦労をしなくてもよかったのだろう。

 心底後悔する。

 エドワードの宿泊する二等客室ですら落ち着かなかったというのに、この一等社交室はまさに異世界だ。


「……その、天井が円いんだが」

「あれは、ロココ調様式に良く見られるスカイドームの天井ですね」

「いや、ロココって何だよ」

「フランスのルイ王朝時代に流行った美術様式ですな」

 トンプソン・トロフィーカップの優勝時ですら、地元の酒場パブで打ち上げをやった身の上だ。

 打てば響くといった具合に返ってくるジョゼフの解説を聞いても、何やら凄まじく金持ち趣味の部屋なのだと言うことしか分からない。

 ルイと名の付くものはルイ・ヴィトンとセントルイスくらいしか知らなかったエドワードは、しかめっ面のまま給仕に注がれた高級酒を口に運んだ。

 ……成る程、酒は旨い。ただ、酒の肴の料理が上等すぎてどうにも浮ついて感じられる。

 エドワードは早くも秋田の洋食屋が恋しくなった。あのイタリアンテイストの、「安かろう多かろう」を地で行くスタンスは小市民たる自分にとっては至極心地良い環境であったらしい。

 そんなことを思っていると、見知らぬ日本人男性に何やら流暢な英語で声をかけられた。


「もし、お客様。お一ついかがですか?」

「え、俺か」

 男性は寝ぼけた老猫のような風貌をしており、船員の制服を身にまとっていた。どうやらスタッフのようだ。

 男性の差し出してきた小皿には、米国西海岸の庶民的なファーストフードであるクラブハウスサンドが盛りつけられていた。


「あー、これって……」

「お客様が落ち着かないご様子でしたから、故郷ふるさとに想いを馳せておられるのではと思いまして。差し出がましく恐縮ですが、いかがでしょうか?」

 会場が立食パーティーの形式をとっており、壁際には様々な高級料理が所狭しにと置かれている。が、その中にクラブハウスサンドは存在しなかった。つまり、この料理はエドワードだけのため、即席に作られたものなのであろう。

 あまりの至れり尽くせりぶりに、小市民であるエドワードは戦慄した。


「もしかして気を使わせてしまったのか? 俺は」

 そう言うと、男性が柔らかく微笑む。


「気を遣うことこそが我々の仕事ですから。結構いらっしゃいますよ。質素な生活を好む方は」

「すまないな」

 厚意を素直に受け取ることにして、エドワードはクラブハウスサンドにかじりついた。

 合衆国の味がする。頑なになっていた貴族趣味への隔意が心なしか薄らいでいくような心地すら覚えた。自然と笑顔が綻んでいき、先ほどまでの緊張がまこと馬鹿らしく思えてくる。


「悪い。また何かあったら頼むよ」

「何よりものお言葉です。申し遅れましたが、私は船長の浦部と申します。それではこれからの船旅を、どうか御堪能下さい」

 瀟洒な所作で一礼をした浦部船長が、その場をゆっくりと立ち去っていく。

 何だか手練手管で自身の心を手玉に取られた気もするが、不快感があるわけではなかった。

 人心地ついてみると、今まで見えなかった景色も見えてくる。

 室内に充ち満ちた音楽を奏でているのは、何処ぞより招かれたフランス人の楽団だ。指揮者は日本人のようだが、意志の疎通は大丈夫なのだろうか?

 壁際では明らかに上流階級と見て取れるアジア人や、白人たちが歓談している。

 アメリカ人の姿もあった。日本人の学生らしき少年少女を連れて、音楽に関する談義を花咲かせている。


「あれは、カニングハム女史ですね」

「知り合いか?」

 ジョゼフの言葉にエドワードが問う。

「ええ、毎年夏になると大使館にいらっしゃいますから。日本では軽井沢という避暑地で毎年地元の少年少女に音楽を教えていらっしゃるのですよ。とても素晴らしい女性です」

「へえ」

 招かれたのだろうか? それとも、何らかの伝手があるのだろうか? カニングハム女史と生徒らしき子供たちは、お世辞にも立派な服を着ているとはいえなかった。それでも一張羅を用意したのであろうが、周りの高級志向からは明らかに浮いて見えてしまう。

 だが、何処にも恥じるところのない堂々とした立ち居振る舞いは、成る程ジョゼフをして「素晴らしい女性だ」と言わしめる程であると納得もいく。


 一曲の演奏が終わったところで、人の出入りが行われた。

 部屋の中央を占めているのは、数多の燕尾服にシルクドレスだ。スパンコールがシャンデリアの照明に当てられて、部屋中が目映い反射光を放っている。

 次の曲が始まった。

 美麗な音楽に乗せられて、見目麗しい男女たちが一歩目のステップを一斉に踏み出す。

 優雅ではあるが、まるで軍隊のような足の揃いようだ。相当な修練が必要なのだろうと、エドワードは内心舌を巻いた。


「何、エディ落ち着いたの?」

 鋼の精神を持っているらしいマッチョな連れ合いが呆れ顔で憎まれ口を叩いてきた。手にはカメラを持っており、しきりに室内を撮影している。

「お陰様でな。ヘレンは何が楽しくて写真ばっかり撮っているんだ?」

「へ、むしろ今撮らなくて何時撮るの?」

「いや、明日以降に飛ぶはずの航空機撮れよ」

「冗談。このダンス・パーティー。顔ぶれが馬鹿にできないもの。私は専ら人間が専門なの」

 そう言って、ヘレンはカメラの絞りを調整する。反射光の多いこの空間は、写真を撮るにも一苦労らしい。


「顔ぶれ、ねえ」

 社交界に通じていないエドワードには、どれもこれもが異世界の"金持ち"にしか見えなかった。異世界人の見分けがつくほど、学術的な見識があるわけではないのだ。


「宜しければ、ご紹介いたしましょうか?」

 ジョゼフがエドワードに進み出る。

「ああ、いや。別に"金持ち"と知り合いになりたいわけじゃないから」

「ですが、ミスターの目的は名声を得ることなのでしょう? パトロンは多い方が良いと思われますが」

「うっ」と痛いところを突かれたエドワードが呻き声をあげた。

 "金持ち"に媚びを売りたい訳ではないが、確かにジョゼフの指摘は正しい。

 金があれば良い航空機を用意できる。良い舞台で、空を飛べる。

 ただ、それでも媚びを売るのは嫌だった。航空士とは、本来的に気位の高い人種なのである。

 ジョゼフはそんなエドワードの狼狽え様に苦笑いを浮かべ、ダンスに興じる乗客たちへと目を向けた。


「まあ、ミスターが後込みなさるのも無理からぬことやもしれませんね。ここの御仁らは大抵が"異世界"の住民ですから」

「どういうことだ?」

 ジョゼフはワインで喉を湿らせ、室内をぐるりと見回した。


「例えば……、あそこで踊っておられるジャパニーズは、七十年前にこの国の現政府と戦い、敗退した諸侯の御一族です。要するにサムライのボスですよ。あちらも。ほら、あちらも。それにご令嬢方もやはり、上は伯爵家……、最低でも男爵家。由緒正しい家柄に連なる方々ばかりですなあ」

「マジかよ」

 合衆国にいた頃には中々お目にかかれぬ貴族を目の当たりにし、思わず目を白黒させる。


「気後れなさいますか?」

「……いや。珍しいものを見たってだけだ。昔偉かったって、今偉いわけじゃないんだろ」

 ジョゼフが愉快そうに笑う。


「我が合衆国は兎にも角にも歴史が浅い。イギリスやフランスといった先進国のソレでなくとも、やはり"貴族"には苦手意識を感じてしまうことでしょうよ。ただ……、貴方の心意気は素晴らしいと思いますよ。確かに彼らは"昔"の人間だ。ほら、ご覧なさい」

 促されるままに日本貴族の動向に注意を傾ける。

 男女ともに、リズムに乗ったダンスの足運びは正確そのもの。ただ、何処か味気ない。一様に張り付いた笑顔も、自動人形のような腰使いも、そして何よりも……、皆がパートナーと向き合っていないのだ。


「彼らは現財閥の色に染まっていない、"新造船"に乗りたくてたまらないのですよ。今のままでは一番手に返り咲くことができませんからね。だから、"玉の輿"を狙いたかったのですが、生憎と"プリンス"がタイに出向中で出席していない。自ずと、今を時めく"プリンセス"の隙を窺ってしまうわけです」

 彼らが眼差しを向ける先には、まだ十代の少女たちと一人の少年が集って歓談していた。

 少女の中の一部に覚えのある顔がある。確か、昼間のパレードで指揮棒を振り回していた白人の少女であった。

 少女に囲まれた少年の方はというと、これが不思議と宮本に良く似ている。背を高くして、体つきをがっしりとさせた宮本といった風体であった。もしかすると、親類であろうか?


「あの子たち、すごい綺麗どころばかり揃っているわよね。というか、"すっぴん"でアレ? いえ、もしかして薄く化粧をしているのかな?」

「え、あれ化粧しているのか?」

「すごく分かりづらいけどね。差し詰めナチュラル・メイクってところかしら。……興味深いわ。ただ、もっと凄いのはドレスよ」

 ヘレンが少女たちをファインダーにおさめ、一枚撮影する。

 言われて、注目してみると確かに少女たちは皆、エドワードの給料では到底買えそうにないような高級品ばかり身につけていた。

 かなり、"良いところ"の出なのだろう。


「皆、すげえの着てるな」

 ヘレンが呆れ顔でこちらを見た。

「何だよ」

「貴方、もしかしてファッションに気を使わないタイプ?」

「ほっといてくれ」

 ため息混じりにヘレンは続ける。


「まあ貴方の言うとおり、皆すごい高級品を着ているわね。あのチャイニーズの……、ほら男の子相手に顔を真っ赤にして話してる子。あの子の服の値段、いくらだか分かる?」

「ん……」

 言われて注視する。三つ編みにした髪でリングを形作った、品の良さに活発さの見える少女だ。青いイヤリングに、髪留めは何らかの宝石を使っているようだが、何を使っているかまでは分からない。ドレスはオーソドックスな、白雪姫が着ていそうなデザインであった。

 エドワードは脳内で勘定する。自身の着ているフォーマルスーツは、一張羅だけあって割と高めのものを用意していた。それでも82ドルと、100ドルに満たない。これが高級品となるとどうなるのか。


「小物だけで100ドルは超えるわよ。ドレスと合わせて、多分300か400ドル」

「嘘だろ、おい」

 月収75ドルのエドワードでは衣食住を切り詰めても7、8ヶ月は稼ぐ必要がある。まさに雲の上の話であった。


「あちらの白人の女の子。昼間に指揮棒を振っていた子ね。あの子もすごいの着ているわ。シャンブル・サンディカルの最高級オートクチュール……。やっぱり、400ドルくらいかなあ……。まさにセレブのサロンって感じ」

「はあ」

 少女等のいる一角が、途端に目映く光り始めたような錯覚を覚える。これはこの国の貴族等が狙いを付けるのも無理からぬことだろう。誇りと家柄が持つ力も、金の魔力にはあらがえないのである。


「でもって、それよりすごいのがジャパニーズの女の子二人……。合衆国の大金持ちだって持っていないようなすごい作りのドレス着ているのよ。どうやって作ったのかしら……、あれ。他の子たちも頑張って用意したんでしょうけど、可哀想になってしまうわ」

 言われて、日本人の二人に目を向けてみるが……、やはり良く分からない。上等なドレスを着ていて、「顔立ちが良く似ているから兄弟なのだろうか」程度の推測はできるのだが、それだけであった。


「俺にも良く分かるように説明してくれよ」

「まあ、良いけど……。一番分かりやすいのはシャーリングかな。故意につけられた皺の部分。立体的で、すごく均整がとれている。それに、刺繍はあれどれだけ手間をかけたのかしら……」

「はあ」

 成る程、言われてみてもさっぱり良く分からない。もっと、自分にも良く分かる基準を示してほしかった。

 要領を得ないこちらの返事に、ため息をついたヘレンが分かりやすい答えを提示してくれる。


「一着で車が買えるわ」

「高過ぎだろ、冗談じゃないぞ!」

 現在の自動車相場は、大体1000ドルか2000ドルといったところだろう。あのドレスにそれほどの価値があるとはとても信じられない。

 だが、ヘレンは無慈悲にも首を振った。彼女は冗談を言っているわけではないのである。


「こういうものは需要だから。金持ちがつけた値段が、そのまま相場になるのよ。量は捌けないけど、そういう世界なの」

「待てよ。するってぇと、あれか? あそこにいる女の子たちが着ている服を合わせると……、ひい、ふう、みい、よお。オーマイガッ……、何てこった。リンドバーグの"スピリット・オブ・セントルイス"号が買えちまうのかよ。紙巻き札束がポタミック川にぶちまけられる様をまざまざと見せ付けられてる気分だぜ……」

 資本主義社会の残酷さを目の当たりにしてエドワードが嘆息していると、ジョゼフが共感するように深く頷く。


「ミスターのご不満は良く分かりますとも。ただ、この世の中は資本のあるところに金が集まるようになっていることも、確かなのです。例えば、ミス・ヘレンが先ほどチャイニーズと仰った彼女……。彼女は"ハッカ"の末裔ですな」

「"ハッカ"……?」

「何千年も前に東アジアを支配した王族の末裔です。今は特定の国を持たず、商売を生業として各国を渡り歩いている者がほとんどですね。彼女の実家はタイの農政を一手に引き受けているという一大利権を持っていますから、金も稼ぎやすいのでしょう」

 最早感嘆の息を吐く以外に反応のしようがなかった。地理的にも、歴史的にもスケールの大きすぎる話であったからだ。

 ジョゼフはここで言葉を区切り、心なしか小声で続けた。


「そして……、隣の白系少女はカスペ家のご令嬢ですな。アジアに強い利権を持つ"ユダヤ人"富豪です」


 ぞわりと、「ユダヤ」という言葉が脳内に反響する。


 先だってのジョゼフの話が思い出された。もし兄の死の真相に「ユダヤ」が関わっていたことが本当に真実なのだとしたら……、彼女の親族が兄の命を奪った企みに加担していた可能性もあるのではなかろうか?


 だとすれば、あの400ドルもするドレスも、そうした企みによって得た金で買ったということになりはしないだろうか。


 自身の中で不義や悪徳と、「ユダヤ」が俄かに繋がりかける。そして、


「……やはり、引っかかりますか?」

いいや、別に(・・・・・・)。あの子を末代まで恨もうという気は更々ないよ」

 見れば、ジョゼフが不可解だという顔をしていた。

 だが、むしろ"そういった"発想になる方が、エドワードにとっては不思議であった。

 エドワードは逆に問い返す。


「あの子の親が仮に汚いことをやっていたとして、どうしてあの子まで憎まなきゃならないんだ。どうして、そんな"さっぱり"としていない考えを持たなきゃならない」

「それは……」

「もしかしたら兄さんは騙されたのかもしれない。騙した奴はきっとクソヤロウに違いないだろうよ。だが、それとこれとは話は別だ」

 こんな風に"悲しみ"と"怒り"、そして"憎しみ"を切り離して考えられるようになったのは、恐らく日本の知人のお陰に違いなかった。

 敵である彼が、兄の死を心底悲しんでいたからこそ、"憎しみ"を何時までも抱き続けることの愚を悟ることができたのだ。

 改めてカスペ家のご令嬢とやらを見てみると、彼女は不意に乱入してきた10歳にも満たない白人少女と宮本によく似た少年が手を取り合い、拙いダンスを披露する様を手拍子をしながら微笑んで眺めていた。

「アレを恨めっていうのは、金を積まれたって難しいね」

 そう言い切った所で、肩をぽんと小突かれる。

 目元を緩めたヘレンの仕業だ。


「エディ」

「何だよ」

「事情は良く分からないけど。とりあえずカッコいいわ。貴方」

「とりあえずって、何だよ。後、カッコいいのは元からだ」

 ヘレンは笑って取り合わなかった。

 ジョゼフはというと一瞬、常にない表情で思案したかと思えば、すぐに何時もの笑顔を浮かべ、エドワードを賞賛する。


「"貴方は素晴らしいアメリカ人だと、賞賛に値しますよ"」

 褒められているのにまるで褒められている気がしない、妙な賞賛であった。


 そして、再び演奏が一段落し、人の出入りが行われる。

 どうやらこの国の貴族連中は"プリンセス"に声をかける機会を得られなかったらしい。機会を潰した元凶は、先ほどのあどけない少女であった。

 曲が終わってから母親らしき女性が平謝りしているところを見るに、予期せぬハプニングであったようだ。その母親も、傍から聞こえてくる自己紹介を聞く限りでは新大陸でスリナム総督を勤める男爵家の一族であるらしいから驚きである。何故、新大陸の人間がアジアにまでやってきているのだろうか?


 ふと、周囲がざわついていることに気がついた。

 壁際の花の世間話を盗み聞いたところ、何やらアウグスト商会の女社長がもうじきこの場にやってくるようだ。

 懐かしい名を聞いたという気分だった。

 そもそも宮本との出会いはアウグスト紹介の女社長が主催する賭け空戦がきっかけだったのだ。

 この船旅の太いスポンサーでもあるようで、えにしの深さを感じさせる。

 あの空戦から、もう4年も経ったのだなあとしみじみに思う。

 流石に20代も半ばを過ぎたのだろうから、あの女社長もお淑やかになっていてもおかしくはないが、果たして――。

 傍若無人な往時の姿を思い浮かべつつ、彼女の到来を待つ。

 程なくして社交室の入り口から一組の男女が入場して来た。


「って、お相手はミヤモトかよ」

 男の方はエドワードの知人たる宮本であった。燕尾服をモチーフにした軍人の正装を身につけ、いかめしい表情で連れ合いをリードする。

 恐ろしく切迫した表情だ。余裕がないのであろうか。

 宮本に手を引かれる女社長の方は、周囲に愛想を振りまく余裕があった。

 見覚えのある焦げ茶(ブルネット)色の髪をフォーマルに纏め上げ、まるで王族かと思わせる豪奢な髪留めでそれを留めている。

 着ているドレスは……、何やら奇妙だ。

 萌黄色とでも言えばいいのだろうか。全体的に黄身がかった緑色の生地を使っていて、スパンコールを組み込んでもいないのに照明を受けて輝いている。

 レーヨンやスフといった合成繊維を使っているわけでもなさそうだ。良く分からない。

 少なくとも、先ほどの"プリンセス"と同じようなドレスの造りをしているから、尋常でない高級品であることは間違いないのだろうが……。


 宮本は先ほどまで無数の男女が踊っていた部屋の中央にまで歩みを進めると、やはり厳しい表情のままに諸手を広げた。

 その手を女社長が握りこみ、しばししてフランス人楽隊による演奏が再開される。

「ソロで踊るのか」

 宮本たち以外は、この場にいる全ての人間が観客と化していた。

 ヘレンもぽかんと口を開けていたし、ジョゼフはというと笑顔をすっかり忘れてしまったかのように、眉を歪めてしまっている。

 ダンスのリズムは典型的なコンティネンタル・タンゴだ。

 世俗的で荒々しく、見るからに高級感にあふれた女社長の纏う衣装とはいまいち合わないようにも思える。

 そもそもあんなに激しく動いてしまったら、布地が傷んでしまうのではなかろうか。

 我に返ったヘレンが写真を一枚ぱしゃりとやる。

 更に、パートナー同士が密着したところでもう一枚。

 そして、更に一枚。


「……随分熱心に撮るんだな」

「これ、絶対売れるもの」

「そこまでか?」

「少なくとも、ハリウッドでセッシューにお熱を上げていたような女性は買うわ。見て、ミヤモトの険しい顔。女社長の嬉しそうな表情」

 成る程。二人の関係は良く分からないが、言われてみればセッシューの『チート』を髣髴させる部分があるようにも思える。

 だが、『チート』とは日本人男性が白人女性に焼き鏝を押し付け、奴隷にする類のストーリーであった。そんなものと比べられようとは、宮本が知ったらさぞかし胃を痛めることであろう。


「ああ、もうっ。カラーフィルム持って来るんだった……!」

「別に普通のフィルムでいいじゃないか」

「違うのよ。あのドレスの"色"が撮りたいのっ。あれ、絶対普通じゃないわ!」

 地団駄混じりの苛立ちを聞き流しつつ、エドワードは宮本の踊りをぼんやりと眺める。

 やはりエドワードにとって、あの男は何時までも特別な航空士なのだ。航空機の主翼を広げ、天高く、風を切り、空を滑っている姿こそが似つかわしいのである。こうしてダンス会場を縦横無尽に力強く舞っている姿を見ても、少しも心が動かされない。

 そうこうしている内にダンスはクライマックスへと達していき、満場の拍手で終幕を迎える。

 踊り終えた宮本は、ようやく終わったかと言わんばかりに大きなため息を吐き、その瞬間女社長に笑顔で脇腹を小突かれていた。

 二人は観客と化していた会場の全員に挨拶回りを開始する。

 まずは体格の大きな、スラブ人の集団に声をかけていた。

 続いて、この国の貴族たち。女社長とご令嬢たちが何やら会話を交わしている。彼女らは、女社長に何かを渡され目を白黒させていた。

 更に、宮本に良く似た少年とそれを取り囲む少女たちのもとへ。にやにやとする少年の頭上に、宮本が拳骨を落としている。やはり親族で間違いないようだ。

 "プリンセス"たちは黄色い声を上げており、ユダヤの少女も、ハッカの少女も同様の輪に加わっている。

 そして、ついにはエドワードたちのもとへと挨拶にやってきた。


「おい。踊る予定だったんなら、教えてくれよ。ミヤモト」

「いや……、お恥ずかしい限りで」

 宮本は心底から恥じているように頭を下げた。その様子を女社長がため息を吐き、胸に手を当て優雅なカーテシーを行う。


「アレキサンドリーネ・シャルロッテ。アウグスト商会の主人にございます。故あって、姓を名乗ることはご遠慮させていただいておりますの。気安くシャルロッテとお呼び下さっても構いませんのよ」

 相変わらず、有無を言わさぬ堂の入った姫様ぶりである。少しも変わらぬ彼女の気性に、先程までの宮本が浮かべていた表情の所以を一から十まで理解することができた。

「ミスター・ショートもお久しぶり」

「ああ、ロッテ社長とは4年ぶりになるか。日本に居たんだな」

「ビジネスチャンスが、ここにはありましたの」

「ビジネスチャンス、ねえ」

 宮本に目を向けると、ただでさえ強張っていた眉根が更に寄せられた。

 どうやら苦労しているようだ、彼も。

 生暖かい目で宮本を見ていると、口から唾を飛ばさん勢いで、ヘレンがロッテにまくし立てていった。


「ヘレン・ドーリットル。APの記者です。何点かご質問させていただいてもよろしいですか?」

「ええ、私にお答えできることならば」

 では、とヘレンがメモ帳を取り出し、質問を始める。


「お二人のご関係は?」

「それは……、ダンス・パートナーとして、当然あるべき関係ですわね」

「成る程、ロマンティックなリレイションシップを築き上げていると……」

 宮本の表情が明らかに歪んだ。だが、ロッテが反論を許さない。

 エドワードは既成事実というものが、こうして世間に広まっていくのだということを理解した。


「続きまして……、シャルロッテ様のお召し物についてですが――」

 瞬間、ロッテの瞳が三日月に細められた眼の内できらりと煌めく。エドワードには、彼女の瞳が獲物を前にした猛獣のソレと重なって見えた。

「このドレス、ですか。んん、私もこれを目にした時には、思わず夢かと疑いましたわ。布地をお触りになります?」

「是非とも!」

「はぁ」とか「ほぅ」とかひたすらに感心しきりのヘレン。シャルロッテはその様子を満足そうに眺めた後、上機嫌で語り始めた。


「一般に、職人の作る美術品においては、細部にこそ神が宿るといわれておりますわ。この刺繍の数々も……、細部の全てに技術の粋が込められていることは確かですが、それでも細部の美を最大限に生かすには土台の美こそが前提になりましょう。……実はこの萌黄色の布地……、染色していない、自然のままの発色なんですのよ」

「エッ?」

 目を見開くヘレンに対し、ロッテは更に続ける。

「これはシルクの一種なのです」

「色のついた、シルクですか? 染色をしているわけではなく?」

 ロッテが会心の笑みを浮かべた。


「ええ。この国には、極少数ですが宝石のような色合いのシルクを吐き出す蚕がいるのですよ」

「それは素晴らしい」

 と、ここでジョゼフが口を挟む。


「ジョゼフ・グルー。駐日米国大使です、ミス・シャルロッテ。シルクワームの新たな品種が誕生したとは、寡聞にしてこの私も存じ上げませんでした。量産の目処は立っておられるのですかな? もし宜しければ、詳しいお話をお聞かせ願いたく存じ上げますが……」

「あら、ビジネスのお話かしら?」

「ええ、ええ。昨今は人工繊維の開発によって、この国の生糸も往時のようには買い手がつかなくなりましたが、ここで新たな品種が生まれたとあれば、富裕層に向けた新たなビジネスが開拓できるかもしれません。ミス・シャルロッテも、この品がビジネスになると思われたからこそ、こうしてお披露目になったのでは?」

 口元に指を当て、ロッテがしばし思案する。そして、

「大変心苦しいのですが……、量産はできませんの」

 至極すまなそうに目を落とした。


「……量産ができない、とは?」

「工業製品は科学技術によって、増産も質の向上もできましょう。けれども、これはシルクワームという生き物の話ですもの。実を申しますと。ある特定の環境で育ったシルクワームのみが、萌黄色に発色する生糸を生み出すのですわ。ですから、合衆国の需要を満たせるだけの量を算出できるかは、とても……」

「量産ができないとなると……、下世話な話になりますが、いくらくらいの値段になるのでしょうか? シャルロッテ様の着ているドレスは」

 困惑するジョゼフを尻目に、ヘレンが再びインタビュアーとしての主導権を取り戻す。

 ロッテはその質問にやはりしばらく思案して、苦笑いを浮かべて答えた。


「やはり、ダンス・パートナーには綺麗な姿を見てもらいたいものですもの。少し奮発してしまいました。貨幣価値に換算するなら……、通常のシルクドレスの100倍はするでしょうね」

「ひゃ、100倍――っ?」

 ロッテの話に耳を傾けていた者たち全てが仰天の声を上げた。

 彼女の着ているドレスの作りは、先程ヘレンが「車1台分」に相当すると評価した"プリンセス"の着ているものと、然程変わらないよう見受けられる。

 つまり、最低でも1000ドルは下るまい。そこに素材原価が100倍と加算されて――。


「ああ! けれども折角の出会いですもの……」

 呆然とするヘレンの手を取り、ロッテは懐から取り出したハンカチーフを重ね合わせた。

 萌黄色の、色鮮やかな発色をしている。

「これを差し上げますわ」

 口笛にも似た乾いた音が、ヘレンの喉の奥で鳴ったように聞こえた。

 ジョゼフはというと、いつも笑顔を絶やさなかった甘いマスクを大いに引き攣らせている。

 当然だ。

 ロッテのやったことは、ビジネスに明るくないエドワードにも分かるくらい、あからさまな値段の吊り上げであり、「既に産業を抑えているのだ」という独占の意思表示であった。

 よくよく考えてみれば、先程の荒々しいタンゴも最高級品である新種のシルクドレスを粗雑に扱ってもまた作れるという見込みあっての選択であったのだろう。



 背筋の凍る話であった。

 人工繊維のような、大量生産された粗悪品ローエンドが出回ることで大損害を受けるのは、この国の輸出産業を支えていたいわゆるミドルレンジクラスのシルクであった。

 だが、ここに来て手間隙をかけたハイエンドクラスが登場する。萌黄色のシルクだ。

 ローエンドとミドルレンジは競合するが、ローエンドとハイエンドは競合しない。客層が全く異なるが故である。これは航空機にもいえることで、職業柄エドワードにも理解できた。

 もしやすると、このアウグスト商会の女主人はこの国の、いや米日間で安穏と固定化されていた繊維産業を自らが支配者となる形で作り変えようとしているのかもしれない。


「……ロッテ、話は済んだか? 俺はあちらの海軍さんらに挨拶をしなきゃいけないんだが」

「今良いところだから、ちょっと待っていて頂戴」

 居心地の悪そうな宮本の脇腹を、ロッテが再び強く小突いた。



 恐らく、今後萌黄色のシルクは米国で一定の需要を得ることになるだろう。

 AP記者のヘレンが既に記事にしようという気になっているのだ。先程の彼女の言を借りるのならば、セッシュー人気も相まって、東洋的な神秘にかぶれていた女性ほど、どっぷりと嵌まり込むポテンシャルを秘めていると思われる。

 ……しかし、このシルクは果たして日本以外で生産できるものなのだろうか?

 日本以外でも生産できるならば問題ないが、そうでなかった場合……、値段の高騰が目に見えるようで、今から空恐ろしく感じられてしまう。

 エドワードよりも合衆国への忠誠心があり、学識も見識も深いジョゼフの表情がその危険性を物語っていた。





1936年7月初 観艦式1日目 5:00時 "浅間丸"甲板上にて



 ロッテのビジネスとやらに付き合わされた一夜もようやく明けて、千早にとっても総隊にとっても、本番となる朝がやってきた。

 現在、"浅間丸"と合流を果たした受閲艦隊は日本海の沖合いに浮かんでいる。

 これから東雲の空を背景に、艦隊をぐるりと"浅間丸"が観閲し、日の出と共に目的地へと出発するのだ。

 甲板上には、既に乗客が所狭しにと上がってきていた。一部は一等喫煙室や社交室の窓から観閲するそうだが、やはり高いところからの方が見栄えがいいと考えたのだろう。

 谷口の挨拶が始まり、"浅間丸"が汽笛をあげて動き出す。


 近隣国の護衛艦を観閲、友好国の通報艦を観閲、そして護民艦隊の所属艦を観閲する。


 水上機母艦"富山"――、艦長は村上義一郎、商船出身。

 水上機母艦"対馬"――、艦長は児玉英九郎、商船出身。

 上陸用舟艇母船改め、大発動艇母艦"秋津"――、艦長は河野通則、商船出身。


 これらはカムチャッカにおけるソ連との戦いから総隊の主戦力として活躍していた武勲艦であった。

 続いて、民間船を改修した新参の所属艦が"浅間丸"の隣を併走する。


 病院船"能登"――、船長は三喜明彦、商船出身。

 元は逓信省による第1次船舶改善助成施設の新造船であり、中東における海賊船掃討の功績にと宛がわれた船であった。

 総トン数約7000トン。最大速力は18.5ノット。

 改装して水上機母艦としても十分に活躍が見込める性能を備えていたが、総隊本部の指示により病院船としての改装が施された。

 臣民の命を蔑ろにせぬという政治的な意思表示と、海軍ですら持っているという対抗意識が、一刻も早い病院船の準備を急がせたのである。


 万年戦力不足の総隊であったが、総隊員の中からは病院船の補充について特段の反対意見は上がらなかった。

 無論、戦争や災害時において、現地で直接医療行為のできる病院船の役割も決して蔑ろにできるものではないという普遍的な理屈も影響を及ぼしたのだろうが、そもそもの話、陸出身にも護民出身にも、対ソ戦における多数の傷病人たちを目の当たりにした者が多くおり、実感としての病院船の補充を渇望させたのかもしれない。


 "浅間丸"はそのまま甲型海防艦と反航の状態ですれちがう。

 甲型海防艦"占守"、"国後"――、艦長は海軍より総隊へと籍を移した戸塚道太郎元海軍大佐と工藤俊作元海軍大尉。

 工藤艦長は階級の関係から艦長業務を全うできるか危ぶまれたが、持ち前の人柄が幸いしてか水兵たちと親密な関係を築き上げ、高い錬度を維持できているという。

 "浦島"型護衛艦15隻の艦長にも、やはり海軍からの移籍組が多数名を連ねていた。それらを統括して、指導を行っているのが百武源吾元海軍中将と、大川内傳七元海軍少将である。彼らは現状本部入りしているが、艦隊の拡充がなった暁には現場の司令官職に補任ぶにんされる見込みになっていた。


 更に"浦島"型護衛艦を見送って、最後に"浅間丸"と並び立ったのは改"鳳翔"型護衛空母――、"竜飛"である。

 "竜飛"は護民総隊の提唱する"ピケット・サークル戦術"を完成させるための柱石であり、今後を見据えたモデル艦でもあった。


挿絵(By みてみん)


 排水量は設計元から大幅に増量した約11400トン。

 両舷は純白に塗装され、底部は深紅。装甲化が施された飛行甲板は"斜め"に傾いた着艦部と、"鳳翔"の形状を踏襲した発艦部が結合してできており、そのどちらもが緑色に塗られていた。

 右舷前部には"鳳翔"改装時に撤去していたはずのアイランドが復活し、見張り台と並び、甲型海防艦に設置された超短波警戒機が建てられている。

 この前例のない"斜め"甲板は、着艦時に障害物となるアイランドを迂回するため、苦肉の策で延ばされたものであった。

 アイランドの中には通信設備と水測設備、そして艦隊司令部施設が壁を隔てずして置かれている。

 視界に頼るだけではなく、電探と水測、そして艦載機からの策敵情報の全てがここに集められ、入念な分析の上で海上護衛計画に現場の裁量で逐一修正が加えられるようになっているのだ。

 アイランドの肥大化による重心の変化には、バルジと"ちぐはぐ"に配置された機関部から伸びる排煙装置を活用して対応した。

 前部と後部から伸びる二基の煙突は全て左舷に設置されており、下向きに折れ曲がっている。着艦時には排煙が気流に影響を与えぬよう、海水による冷却装置が煙突内に組み込まれていた。

 格納庫には、"鳳翔"爆沈の戦訓から、厚いコンクリートで覆われた航空用ガソリンタンクが設置されており、隔壁の下ろせる細かい密閉区画で区切られている。

 艦載機は完成された航空機を12機格納可能だが、部品を分解した状態ならばもう2、3機は余分に運び込むことができた。

 水中防御は、藤本造船士官の提案により海水よりも比重の軽い重油を充満させた液層と空気でできた層、緊急補修用の材木を配備した区画を多面的に配置。これにより、格納庫や居住区画が圧迫されることになったが、液層の重油は燃料にも利用可能のため、奇しくも"鳳翔"より航続距離が1.4倍ほど増加することとなった。

 最大速力は19.3ノット。

 工期短縮のために直線を多用した艦形が災いして"鳳翔"よりも速力が30パーセントも低下してしまったが、艦載機発艦のための合成風力を増加するためのロケット推進装置が開発されたために、一回の発艦に余分なコストがかかるものの、何とか"航空機を飛ばせぬ空母"という汚名を被る事態は避けることができた。


 藤本や他の造船士官たちと共に熱い意見を交わしあい、こうして完成にまで至った艦を見つめながら千早は思う。

 この"竜飛"はお世辞にも良い艦ではない、と。

 例えばアイランドの肥大化は、建造の工期に大きな影響を与えた。当初は昨年11月の終わりか12月の頭に進水予定だったところを、今年の春になるまで進水できなかったのである。工期の乱れや微細な設計の変更が、どんな大きな狂いとして表出するか分からない。

 更に側面からの攻撃に弱いことも問題であった。装甲甲板も水中防御も、側面の防御力を向上させてくれるものではない。

 要するに完璧な艦ではないことを重々に承知した上で運用していかなければならないのだ、この艦は。

 しかしながら、そうした無視できぬ懸念の数々を差し置いても、この艦には"未来"を感じさせる先進的な機構がいくつも組み込まれていることも確かであった。


 "鳳翔"という艦は、間違いなく帝国海軍所属の空母たちにとって母と呼べる存在であったと搭乗員であった千早は誇りに思っている。

 故に、"鳳翔"の設計を受け継いだこの"竜飛"も、総隊にとっての母と呼べる存在になるべきだ。いや、ならねばならない。


 朝焼けが"竜飛"を初めとする護民艦隊と"浅間丸"を赤く照らし出した。

 千早は眩しさに目を細め、乗客たちが注視する中、滔々と語り続けていた谷口の祝辞に今更ながら耳を傾け始める。

「――長々と語り続けましたが、これからは実際の働きをご覧に入れながら、我々の価値を示して見せましょう……。艦隊、出航っ!」

 "浅間丸"の汽笛が再び鳴り、商船を中心に据えた寸分のずれも生じぬ輪形陣が南西へと舳先を進め始めた。

 護民総隊観艦式。航空母艦"竜飛"にとっては初披露にして、記念すべき最初の晴れ舞台である。

難産の挙句に目茶目茶長くなりました。ごめんなさい。

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