1936年、4月 八郎潟にて
短めの閑話その3。
新型航空機前にちょっと入れなきゃいけない部分にいくつか気づいたので、差し込みます。
野球関連で知識に誤りがありましたので、「1934年11月末 護民総隊本部にて」を若干改稿しています。
撮影技師の円谷英一は、子供の時分より自他ともに認める科学少年であった。
趣味は機械いじり。9歳になると飛行機に興味を持ち、10歳に至れば活動写真に首っ丈になる。
日本飛行学校や神田電機学校への通学経験は、撮影現場における合理的発想の礎になった。
古い慣習への執着の無さや、短気で移り気な性分が周囲とのいざこざをしばしば引き起こしたが、朋友に恵まれたこともあってか、社会から致命的に締め出されたことは未だない。
機械製作技師、玩具会社の考案係、そして現職……。
世間からすれば、自分の職歴は定職に就かずにふらふらとしており、情けないものに思われるかもしれない。
だが、円谷は自分が他人よりもより良い人生を謳歌しているという自信があった。航空士になる夢こそ断たれたものの、好きなものを好きなようにやれて、どうして不幸せなことがあるだろうか。
――そんな円谷が今情熱を燃やしている仕事は、記録映像の撮影である。
「……少し揺れますよ」
臓物が持ち上がるかのような、ふわりとした感覚がしばらく続き、仕舞いには着水の揺れが尻に響く。
降下の余勢を受けた湖面より大きな飛沫が舞い上がり、汽水特有の臭気が鼻をくすぐった。
九〇式二号水上偵察機。この八郎潟において数年前より日常的に見かける古株の複葉水上機は、単葉機に比べれば速度も低く安定性もあるのだが、それでも完全に停止するまでにはそれなりの距離を滑走することになる。
広い湖面を三本足のフロートで滑り、水偵はさざ波を立てて岸辺へと向かう。
爽快であった。
水上機の価値は、飛行時だけではなくこうした水上滑走時においても運動の第一法則を存分に感じられる点にあるのかもしれない。
さあっとフロートの水押が前方を切った。
忌々しい湖面の粘性抵抗が纏わりつき、陸へ陸へと近づく度に失われる速度がつくづく残念である。
だが楽しい時間は過ぎ去るもので、水偵の速力は護民総隊の整備ドックへと続く水路の手前で完全に0になった。
勢いが失われたところで、エンジン、プロペラが停止。
ぷかぷかと水路口で揺られつつ、荷駄用のはしけが航空機に横付けするのを待つ間に、前部座席のパイロットがこちらに労いの声をかけてきた。
「エンヤさん、お疲れさまです」
円谷のことをエンヤと呼ぶ馬面の彼は護民総隊の一等水兵で、名を藤田という。
6月末に迫った護民総隊観艦式に向けた記録映像を用意するため、持ち回りであてがわれた航空士の一人だ。
帝都で飛行学校に通っていたこともある円谷だからこそ分かったが、彼の腕前は卓越していた。
流石に以前パイロットをしてもらった加藤航空士や所航空士などと比べると細部に粗さが残っているが、着水までの減速がスムーズなのである。例えば未熟者がこれをやると、減速しては増速しての繰り返しになり、ピッチ角も安定しない。
だが、彼ならばスイーッと来てトンッとなる。上手く言語化できないが、出力の調整が上手いのだ。驚くほどに。
円谷が腕前を褒めると、藤田は何故かばつの悪そうな表情を浮かべた。
「これくらいで、満足していられません」
「既に十分お上手だと思いますけれども」
素直な気持ちでそう言うと、藤田は苦笑して言葉を返してくる。
「プロフェッショナルにとって"上手"であることは褒め言葉になりませんや。当たり前のことですから」
随分ストイックな性格をしているのだなと舌を巻くが、言いたいことを自分に置き換えてみると、成る程納得もいった。
これはカメラマンの自分が「撮影が上手いですね」など客に褒められるようなものなのである。作品の出来を褒められるのならば、まだ嬉しさも湧いてこようが、単純に技術を褒められても嬉しくはない。何処か皮肉めいた言葉に感じられてしまう。
俺の仕事には、技術以外に見るべき所はないのかと。
「特に追いつけ、追い抜かれるなと切羽詰まっている時分に言われましてもね。すいません、素直に受け取れなくて」
「いえ、こちらこそ」
追いつかんとする対象は誰だろうか。追い抜かれまいとする相手は誰だろうか。
藤田の卑屈な物言いに「拙かったかな」と頭を下げていると、棹で水をかき回す音が座席の外から聞こえてきた。
はしけ舟がやってきたのだ。
「お待ちどおさま。こっちゃかせね」
東北のいずれかの出身であろう雇われ船頭の招きに応じて、円谷と藤田ははしけ舟へと乗り換える。べかべかと底板が鳴る薄い船体には、先客として水主が一人控えていた。
彼は円谷たちが舟に乗り込むのと入れ違いに、航空機に対して係留索を引っかけていく。
手早い仕事だ。流石にここ半年は同じことを繰り返しているだけあって、戸惑いがない。
機材は万が一の転覆を避けるために、航空機を岸に着けてから回収した。
一行が上陸を果たすと、次は浅利とかいう姓の農家が出迎えてくれる。日に焼けていて、まだ若い。傍では荷車と共にそれを牽かせる牛がのんびりと草を食んでおり、ふらふらと振り回す尻尾で羽虫を追い払っていた。
ここで水偵とはお別れだ。舟に繋がれた係留索は既に曳舟用のロープへと早変わりしている。このままドッグへと運ばれて、入念な整備を受けるのだろう。
顔を地面に近づけるほど前傾姿勢になって水上機を曳く様は、『名所江戸百景』の四つ木界隈を彷彿させる。
「引く人も、引かれる人も、水の泡」とは一体誰の歌であったろうか。江戸の歌ではなかったかもしれない。
「失礼」
ちょっとした思いつきから、仕事とは別に持参していた小西屋のボックスカメラを荷車の縁に固定し、ぱしゃりとやる。反射板の類は用意してなかったが、眩しいほどの晴天だから支障はないだろう。
「仕事熱心ですね。どんぞ」
農家から渡された竹皮の包みを開くと、中には握り飯が入っていた。飯の具は時鮭の塩漬けらしい。
機材と共に荷車に積まれ、背を伸ばしながら口にしてみると、舌が痺れるほどに塩辛かった。
「……しょっぺえ」
隣を見れば、藤田も円谷と同じ顔をしている。彼は総隊の本部に用があるようで、そのまま荷車に同乗していた。
いくら秋田に共和商事が拠点を移したとは言っても、3年や4年でインフラストラクチャーが行き届くようになるわけではない。
事実、共和商事本社や総隊本部まで続く直通の道のりでさえ、障害物こそ除けられてはいるもののただの砂利道であり、アスファルト舗装がされていないのだ。
荷車の縁にもたれかかりながら、牛の歩みで辺りを見回す。
まず目に入ったのは、丸刈りにした少年たちの野球に興じる姿であった。
「タスファイ、走れ! 走れ!」
日本人少年に混じって、バッターをやっていた見るからに黒人の少年がグラウンドを周回している。ぼてぼてのゴロだというのに飛ぶような速さだ。
黒人少年が難なく一塁を踏むと、外野から歓声と罵声が飛んでいった。
「良くやった、タスファイ! 良くやった!!」
「助っ人外人に好き勝手させんな!」
「石丸、続けっ。タイムリーぶちかませ!」
良く見れば子どもに混じって、何人かの大人が口から泡を飛ばしている。
特に手前のベンチにいる男性が目を引いた。細身で口元のちょび髭が印象的な紳士であったが、野球帽を斜に被り、グラウンドを見る目は真剣そのものだ。
「あの人、見覚えあるなあ」
円谷が何気なく呟くと、荷車に背を預けていた藤田が「ああ」と声を上げた。
「一高出身の内村先生ですよ。内村祐之。アウグスト商会に招かれて、今職業学校の先生やってます」
「あ、六大学野球のスター選手か」
道理でと合点がいった。大学野球のスター選手ならば、日頃から新聞でお目にかかっているわけだから、顔を知っていてもおかしくは無い。
一人、うんうんと頷いていると藤田が不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「スポーツはあんまりで?」
円谷は指で額を掻いて、恥ずかしそうに笑う。
「高橋さんに付いてまわっているせいか、新聞記者の真似事もさせてもらっておりますけれども、私の本分は撮影技師ですから。恥ずかしいことに、人並み程度にしか……」
藤田はふうんと少し考えた後、内村なる人物に関する面白い逸話をいくつか紹介してくれた。
「あすこで助っ人をやってるエチオピア人の少年。元はイタリア軍相手にゲリラの手伝いをしていたそうなんですが、人権やら何やらを鑑みて、うちで引き取って監督しているんですよ。共和商事から"栄養費"なる育成用の支援金が出ているはずです」
「エッ!?」
円谷は絶句した。
見返してみてもあの黒人少年が人殺しをしていたようには到底見えない。チームメイトと手を叩き合い、無垢な笑顔を見せている様は何処からどう見ても年相応のそれだ。
一度その素性を知ってしまえば、少年に対する見方も変わる。あそこにいるチームメイトは彼が兵士であったことを知っているのだろうか? 知っていて、ああも平気で受け入れているのだろうか。
「まあ、そういう反応しますよね」
苦笑して、藤田は続ける。
「今は共和商事の建てた"秋田実業学校"に通って、あんな風に放課後はスポーツを楽しんでるただの子どもです。ただまあ、そう思える人は多くないらしく、彼のような黒人留学生を巡って色々と騒動も起きまして、その時に内村先生が演説を張ったわけですよ」
藤田の説明を聞き、円谷は自分が恥ずかしくなった。
聞けば、彼ら黒人留学生に対して世間の大人たちは厳しい目を向けているのだという。
「エチオピアでは草原を駆け回り、石を投げて獣を狩っていたそうですから、彼らは根本的に身体能力が高いんですよ。だからこのまま成長していけば、甲子園に出場、もしくは職業野球への進出なんて自体も夢じゃありません。ただ、中野連も日野連も今のところあまり良い顔をしていないのですよね」
「それはもしかして……」
「ええ、出資者の意向みたいです」
あちゃあ、と円谷は空を仰ぐ。
確か甲子園は朝日新聞社の出資で運営されており、日本職業野球連盟は読売新聞社の出資で運営されているはずだ。
この二つの出資者はジャーナリズムの観点からいっても、野球興行という"シノギ"が被っていることからいっても大変に仲が悪く、一昨年にも「職業野球不要論」などという不毛な争いを繰り広げていたと記憶している。当然朝日は批判者の側であり、読売は擁護者の側だ。
そんな犬猿の二者であったが、ある点においては見解を一致させていた。
つまり、国粋主義と国民主義への親近感である。
「つまりあれですか。日本の球界に外人選手はけしからんから、駄目だと」
藤田が頷く。
「正確には朝日が外人さんへの不信感からの拒否で、読売の方は自分のところの興行にケチがつくから、みたいなことを赤旗で読みましたね」
「はあ、赤旗で」
世は流転するものだなと感心する。一頃前なら、軍人が平気で「赤旗を読んでいる」などと口にはしなかったはずだ。
その赤旗も別のコラムでは偏った記事を載せているわけで、中庸意識の大事さを改めて認識させてくれる。
「まあ、そこでハイムガルトナー国際女学校の教師になっていた内村先生が持論を発表したんですよ。金持ちどもがケチなことをほざくな、と。その小気味良い切り口がえらい人気で、地元じゃちょっとしたヒーローですよ。だからこそ、エンヤさんが知らなかったことが意外です」
「ここしばらくは借家で缶詰になっていたもので……」
円谷は共和商事からの依頼で記録映像の撮影の傍ら、八郎潟周辺のジオラマ模型や護民艦隊の模型製作を請け負っていた。
それこそ今回のように空撮で外へと出ない限りは、家の一切を秋田に呼んだ家族に任せてしまっていて、世間に目を向ける暇が無い。
「しかし、じゃああの子は成長しても甲子園には出場できないんですね」
痛ましげにそう言うと、藤田が首を傾げた。
「時勢次第ではあるんじゃないでしょうか。それに出場できなくても地元での興行には参加できますから。ほら、秋田実業学校と戦っている相手の監督、あれ宝塚運動協会の元選手ですよ。良いピッチングする人でした」
「7年前に解散した球団でしたっけか。というか……」
目を輝かせて試合を見ている藤田を見て、円谷は言った。
「妙にお詳しいですね」
その言葉を聞いて、藤田は照れ臭そうに笑う。
「元は野球少年だったんですよ――、っと噂をすればじゃありませんが、女学校の吹奏楽団が行進してます」
釣られて他方へ目を向けてみると、真っ白な衣装を着た少女たちが観艦式に向けた行進曲の練習を行っていた。
本来軍楽隊が主導してやらなければならないところに民間を入れて運営しているのは意図的なものであるそうで、なるべく民の力を強めたいのだという。
その理屈は分かるのだが、少女たちの前方をきびきびと歩く指導者の姿に猛烈な違和感を抱いた。
「Be Dignified! Be Noble!」
表情があからさまに軍人なのである。何処からどう見ても女学校に雇われるような外国人音楽家には見えない。
「あれ、チャーチルさんというそうです。臨時採用だそうですが、どういう経緯で吹奏楽の指導者なんてやってるんでしょうね」
「さあ……?」
オリジナルの行進曲を楽しげに演奏している少女たちが過ぎ去ったところで、ようやく共和商事のお膝元である市街地が見えてくる。
市街地といっても港湾工業都市としてはまだ赤ん坊も良いところで、精々が試験的に建てられた石油の精製工場や各種機械工場が建っているくらいだ。そのいずれもが大工場というわけではなく、自前の造船所すらまだ持てていない。
ただ、ここで精製された石油は沿海州に展開する白人たちの会社でやたら評判が良いとは聞く。軍需よりも民需に寄った方針が、我が国においては他にないここだけの特徴であろう。
市街地でも牛の歩みに任せていると、次はイタリア人の女性がエンジン動力で動く安全自転車に乗ってあちらからやってきた。
何でも共和商事に飛び込みで入社した人間が開発したものらしい。
女性の姿を認めた藤田は、敬礼とは行かないまでもそれなりに敬意の見える形で頭を深く下げた。
「あら、フジタじゃない。チャオ!」
「どうもです。アニーさん」
アニーと呼ばれた女性は満面の笑みを浮かべて、アハハと笑う。
「固いなあ。もっと気安くていいのに」
「いや、それは流石に……」
「そういえば、チハヤ見なかった?」
「湖岸の飛行場にはいなかったですね」
「アリガトウ! じゃあねっ」
軽快なエンジン音を吹かせて、アニーがその場を去っていく。
あのエンジン付き自転車はいくらで売っているのだろうか。購入を検討したいくらいには便利そうだ。
円谷がアニーの後姿を目で追っていると、ぼそぼそとした声で藤田が語りかけてきた。
「もしミヤ隊長のことを聞かれても、すっとぼけてくれませんか?」
「へ? 宮本さんですか? それはまた何でです?」
「修羅場の真っ最中だそうですよ」
「はあ……」
何でもあのイタリア人女性はエンジニアとして大変優秀であったが、国際情勢の緊迫化によってついに本国から帰国命令が下ってしまったようなのだ。
だが、彼女は『今良いところなんだから。本国に帰って、何処の地方出身か分からない兵隊相手にハンカチをひらひらなんてしてられないわ!』といってこれを固辞する。当然、固辞するには先方も納得のいく理由が必要であった。
そこで彼女は一計を案ずる。
『チハヤ! ちょっと貴方の苗字貸してっ』
彼女は本国に帰りたくない旨を懇切丁寧に宮本に説明した。
宮本も彼女の価値を認めていたことから、『自分にできることなら何でも協力する』と言ってこれを快諾する。
彼女はその言葉に喜び、続いて秋田県庁へと向かった。
アドリアーナ・"ミヤモト"として住民登録をするためである。ついでに兄も「じゃあ、俺も」とマリオ・ミヤモトと姓を変えたそうなのだが、こちらは特に問題にはならなかった。
問題になったのは、彼女だけである。
彼女が普段からエンジニアとして各地を訪問していたせいもあって、非常に広い交友関係を持っていたことが災いした。
かくして、"ご結婚の祝電"なるものが東北や北海道の各県知事を初めとした縁故の役人から続々と打たれ、共和商事にどっと便りが寄せられる事態に発展してしまう。
それが女学校の校長を務めていた園部ピアなる修道女を通じて、アウグスト商会の会長の耳にまで届いたのがいけなかった。
『このくそ忙しい時に、何でこんなことにかかずらわにゃならんのだ……』とは宮本の言であるらしい。
事情を聞いて、円谷は呆れ声を上げた。
「外人さんを相手に二股かけてしっぺ返し食らったわけですか」
「ミヤ隊長も、アニーさんもそっち方面は無頓着ですからね。こんな大事になるとは思わなかったんでしょう」
藤田が愉快げな声色でそういった。
「随分と不義に寛容なんですね」と円谷が皮肉交じりに問いかければ、
「船乗り、航空士に色恋沙汰は付き物ですよ。むしろミヤ隊長は実際に手を出しているわけじゃなしに、不可解なほど奥手な方だと思いますね」などと素知らぬ顔で帰ってくる。
どうやら、夢破れて進むことのできなかった空の世界は随分とただれた風紀が蔓延しているようであった。
しばらくは主人公の登場までに消化しなければいけない描写不足の部分を一気に出していきます。
予定としては未来人の近況。新型航空機の話。観艦式の順番です。




