1936年、2月末 帝都赤坂にて
ちょい仕事が立て込んでいて遅れ気味です。
――その日、主のために手ずから茶を点てていた侍従の牧野は警護の怒声に全く耳を貸そうともせぬ傍若無人な笑い声を耳にした。
「無事かね、我が同志ッ」
引き戸を開けての第一声が、これだ。
ここは東宮御所の離れに新設された茶室であり、半ば陛下と彼の会談専用の場と化してしまっている。
小綺麗であっても一見して粗末さが目に付く、外国人を来客として出迎えては品格の疑われる茶室であったが、彼は既存の応接間のいずれと比較しても、この東屋の方が素晴らしいと評した。
ジャポニスムの発露というわけではあるまい。
つまるところ、既存の部屋はギリシャ・ローマやアルハンブラを模範にとっているわけで、彼の好みに合わなかっただけなのだ。
彼にしてみれば、ギリシャ・ローマは憎むべき奴隷制のはしりであったし、豪華絢爛さはブルジョワジーの悪徳になる。
この甚だわがままな物言いが、質素倹約をよかれとする陛下の感性と一致した。
「虎ノ門で起きた爆発のことを言っているのならば、ぼくは見ての通り無事だ」
上座に座りながら陛下がそう応じられると、彼は満足げに頷く。
「それは良かった」
戸をくぐり、大げさな身振りでそう言う革命の申し子、トロツキーは心底嬉しそうであった。
陛下とトロツキー。両者の会話は日本語とロシア語を交えてのものになるため、二カ国語を理解できぬ者は戸惑い、蚊帳の外に置かれてしまう。
今で言うならば、陛下に万が一のことが起きぬようにとトロツキーの後についていた侍従長がそうだ。
海軍畑であるために英語には堪能であろうが、ロシア語までは身につけていない。
この場にあって二人の会話に差し出口ができる者は牧野だけであった。
だからこそ自分が窘める。
「トロツキー殿。少しは陛下のお気持ちを慮る努力をしたまえ」
そもそも陛下を狙った暗殺未遂事件はこれが初めてというわけではない。
その主犯は政府転覆を狙う左翼勢力から、傀儡への禅譲を目論む右翼勢力まで多岐にわたっており、虎ノ門では十数年前にも無政府主義者が狙撃事件を起こしていた。
これほど他者に疎まれる重圧とは果たしていかほどのものか。牧野は陛下をお顔を恐る恐る覗くが、意外にも涼しげな表情をしておられた。
「人聞きの悪いことをいうものではない、老臣よ。私は同志に配慮した結果、"テロ事件を見過ごした"のだぞ?」
トロツキーは許可も取らずに畳にどっかと座り込む。聞き捨てならない言葉を聞いてしまった。
「……何だと?」
彼の言葉をそのままに理解すれば、彼は意図して陛下を危険に晒したことになる。
怒りに身を任せてトロツキーを睨みつけると、陛下がたまらず吹き出された。
「やはり、先日にやってきた特高の連中は君の差し金だったか」
「その通り。あの特別高等警察とやらは実に良い。犬のように従順で、優秀だ。主がブルジョワジーから私に代わった途端、人民の敵から人民の猟犬に早変わりとはな。資本論だって皆が諳んじられるのだぞ」
「……臣民に被害が及ばないことは良いことだね」
「お、お待ちください」
牧野が慌てて横やりを挟む。
「陛下はこの者がしようとしていることをご存じであらせられたのですか?」
「詳しくは聞かされていなかったが、何をやりたいかは理解できる。要するに"泳がせていた"のだろう?」
「流石に気づくか」
ご明察とばかりに賞賛の拍手をし、トロツキーは続ける。
「我々理想主義者の惜しむべき短所は、ひとかけらの妥協も許さないことだ。それは容易く内部分裂に繋がる。保守主義者の忌々しい長所は妥協と折り合いをつけられることだ。"大義名分"さえあれば仇敵とだって笑顔で肩を組む。だからこそ今すべきことは……」
「"大義名分"そのものを潰す。保守主義者の言い分悉くを悪であると説得力をもって周知する、かな」
「同志との会話は楽しいと、素直に感じるよ」
前のめりになったトロツキーが歯を剥き出しにして笑う。いつぞやにも見せた、猛獣の笑顔であった。
「"同志が乗っていたとされる"自動車には、保守主義者と内通している者を乗せた。『散歩に出た陛下を迎えに行け』とそそのかしてな。白色テロリスト共には偽りの予定をリークした。その結果が今回の事件であるわけだ」
開いた口が塞がらなかった。
まずテロリストを手のひらで操るという発想が宮中にいる自分には到底生まれようがない。
それに内通者の存在だ。
蛇の道は蛇、ということなのだろうか。
陛下は苦笑いしてお言葉を漏らす。
「……臣民に被害がなかったのならば、言うことはないよ」
これに対しては抜かりがないと、トロツキーが言う。
「爆破テロが起きた即日に、革命同志に帝都中で号外を配らせた。大見出しは『帝国主義者による陛下暗殺未遂事件』だ。忌み嫌う"アカ"が白色テロリスト共に対してこの国の王への不忠を罵る……。背後にいる者が誰であろうとも、今頃は面白い顔をしているに違いあるまいよ」
トロツキーが更に笑顔を邪悪に歪めた。陛下は頬杖を突きながら、彼の上機嫌をご指摘される。
「今の君は実に楽しそうな顔をしている」
そのお言葉に、トロツキーは至極当然という表情を浮かべた。
「私は思想上は人民の味方だが、そもそもの趣味として泣きわめくブルジョワジーを棍棒でぶん殴る行為が大好きなんだ」
「その理屈で言うと、君はぼくのことも殴らなくてはいけない」
「同志のことは殴らない。何故なら、君は殴られると"喜ぶ"から。誉め殺しにすると決めたのだよ」
流石にこれ以上の暴言を許すわけにはいかなかった。
一体、何処の国の国家元首に"殴られて喜ぶ"者がいるというのだろうか。
だが、侍従たちの怒気はすぐに困惑に取って代わられた。
「そうか、ぼくは"マゾヒスト"か」
陛下がお声を出して抱腹なさったからである。
物珍しさもあるのかもしれないが、恐らく陛下にとって目の前の革命児は悪友にも等しい存在であるのだろう。
そのあまりに無邪気な気安さに、牧野はリア王の戯曲を思い出した。
孤独な王には道化師という存在が必要なのかもしれない。
トロツキーは陛下が落ち着かれるのをしばらく待ち、「さて」と話題を切り替えた。
「大東亜連合とは距離をとるべきだ」
その提言に陛下が眼を細められる。
「理解はできるが、君の口から存念を聞きたい」
「一言で言えば解放主義の捉え方の違い。そもそもの理念が同志とは相容れないからだよ。あれらは云わば死の商人だ。今回の軍拡は必ず負債を他所へ押し付けるために周辺への武力行使に繋がるぞ。差し当たって怪しいのが……」
「……満州だな」
トロツキーが眼を見開く。
「流石、伝統に生きる王という人種は外交感覚が鋭い。その通りだよ、同志。この世界は武力革命の名分として"民族自決"を用いれば良いことを既に学んだ。満州は厳密な意味で言うなら、中国人のものではないのだろう? それに、回収し損ねたユダヤ資本が至る所に散らばっている」
「恐らくは英仏列強と大東亜連合が背後に立った代理戦争が起きるだろうね。無辜の民が犠牲になることは避けたい限りだが……」
陛下のお言葉にトロツキーが詰め寄る。
「泥沼に引きずり込まれ、戦争責任などというババを押し付けられることだけは拙い。そこで構成国の立場として、大東亜連合に非難声明を送る。連合委員会委員長が日本人である利点を生かし、そちらは連合に対して賛同させよう。国の総意を濁すわけだな。タマムシ色という奴だ」
「委員長、近衛か……」
陛下が閉目なさる中、牧野はトロツキーの語る案の実現性について考えていた。
国家と連合委員会委員長で意見を分裂させるという理屈は分かる。
戦国時代における中小豪族が、大国相手の外交時に良く使う手であった。うまく手綱を握れるのならば、大東亜連合構成国との関係をそれほど悪化させることなく、紛争から距離を置くことが可能だろう。
さらに"あの"連合委員会委員長ならば、確かにトロツキーの意図したよう動く公算が高い。
牧野は現委員長である近衛文麿の顔を思い浮かべた。
彼のことは良く知っている。欧州大戦後のパリ講和会議において、全権大使である西園寺公望の随行員として長く顔を合わせる機会もあった。
堂上の出という貴種であるにも拘らず、卑屈で他人に対する穿った見方を隠そうともしない人となりには多少驚かされることもあったが、牧野個人の印象を言わせてもらえるならば、悪い人物ではない。無論、"テクスト"の未来を捨て置いての話である。
彼の思考を予測する上で手がかりとなるのは、父である故・篤麿公爵の思想と近衛家に纏わる醜聞だ。
篤麿公爵は"汎亜細亜主義"なる思想を提唱していた。
これは現代世界の最終局面において、我々黄色人種が白色人種の仇敵として認められる運命にあり、生存のためにはアジア全土で大同団結しなければならないと指摘するもので、第一に中国の独立と近代化を目指すところにその特徴がある。
上海には彼の思想を反映した学校も建てられていた。文麿も一時はそこで院長をやっていたことがあり、その点からも父と同じ「白人憎し」の思想を踏襲していることが窺えよう。
そして父の思想を外面とするならば、その内面には鬱屈した精神の柱が歪に立ち並んでいる。
国内の紳士間では公然の秘密となっている継母との不仲と、父の残した多額の借金がそれを形成した。
彼は自らに媚びる存在を決して信じない。いずれ手のひらを返して裏切る可能性があるからだ。信愛を教えるべき彼の継母は、自らが腹を痛めた子愛しさに彼を裏切った。さらに父に媚び続けた後援者たちも、その大半が死後に容赦のない借金取りと化したと聞く。
寄生虫を嫌う反面、彼は理想主義者には甘かった。篤麿公爵に愛されて育てられたためかもしれないが、根底の部分で良家出身の寛容さが抜け切れていない。
例えば、彼は陸軍の皇道派と親しい関係を結んでいる。"テクスト"にある歴史とは異なり、皇道派がテロに走っていないせいもあるだろうが、清貧に偏った政治思想は、彼にとって素晴らしいものにうつるようだ。右翼運動家や社会主義者にも理解を示しており、また父と懇意にしていた清朝出身の中国人とも関係が深い。
これらを踏まえて考えてみると、いざ満州で独立運動が起こった場合、近衛が独立運動を支持する可能性は非常に高いように思える。
満州の独立は、"汎亜細亜主義"の発露と見ることもできるだろう。これは彼にとっては父の悲願だ。
独立運動の糸を引くであろうシオン、緑ロシアの二カ国は白人中心の国家であったが、その内の一つは白人に迫害された歴史を持つユダヤ人の国であり、もう一つは革命に倒れた帝国の生き残りである。良家の寛容さが判官びいきとして現れることもは十分に考えられよう。
彼にとって最大の懸念は、日中関係の悪化によって危険にさらされることになる上海の学校や知人たちの身の安全であろうが、そもそも中国最大規模の日本人街が存在する上海共同租界は、列強各国の要請によって一定レベルの治安維持が義務付けられていた。それはたとえ対中関係が悪化したとしても、おざなりにされるような類の取り決めではない。
牧野の脳内で、近衛が何を好ましく思い、何を危惧するかが秤にかけられていく。
結果として、やはり彼は独立運動を支持するだろうと結論付けられた。
トロツキーは続ける。
「東亜白人どもには多少、煩型として疎まれるくらいで丁度良いだろう。経済的に我が国と切れることは不可能であろうし、どうせ話が分からぬからと遠ざけられるならば好都合だ。列強にとっては、"話の分かる奴ら"と認識されるように動いていく。そうして、中国との決定的な断絶を避けつつのらりくらりとやり過ごすのだよ」
「君から"話の分かる奴ら"などという言葉が出てくるとは思わなかった」
トロツキーは心外だとばかりにおどけてみせると、陛下もそれにつられて頬をお緩めになる。
「世界を赤色で埋め尽くすためには、この際邪魔な派閥は全て消えてもらった方がありがたい。私は近々に国際秩序が破綻し、世界を巻き込んだ大戦争が、国民全てが戦争従事者という労役を科せられる事態が起こり得ると見ている。主義主張の別なく、勝ち組もなく、負け組もなく、等しく疲弊した各国の中でリーダーシップを取る為には、戦争中如何に存在感を消すことができるかが大事だと思うのだ」
「だが、マキャヴェリズムに則れば、コウモリの如き中立主義はまさに悪徳そのものだ。国際社会の槍玉にあげられぬ為の対策案はあるのか」
「敵に回すことが損だと思わせるようにするしかないだろうな」
こうして傍から聞いていると、トロツキーは確かに陛下にとってのヴォルテールとして機能しているよう見受けられた。
二人が意識しているものは、国際関係論においては常識とされる"リスク"と"デインジャー"だ。
"リスク"とは制御できる危険を指す。白色テロリストの取り扱いも、大東亜連合との距離感もこの類に当てはまる。
それに対して"デインジャー"とは制御できない危険を指し示す言葉だ。トロツキーの話題に乗っかるのならば、国際秩序の予期せぬ破綻が当たるだろう。
我々日本人は伝統的にこの二つの概念を使い分けることを不得手としている。"テクスト"に拠らずとも、定められたルールの中で競争しているつもりで、いざ梯子を外された時に「こんなはずではなかった」と身を滅ぼした例は枚挙に暇がない。
トロツキーは今の会話で、陛下に"デインジャー"が何たるかを提言していた。
恐らく忠誠心は持っていないだろう。だが、同じ方向を向いていることは確かのようであった。
「全てが疲弊する大戦争か……」
陛下の独白に、牧野は即座に"テクスト"にあった第二次世界大戦と太平洋戦争を思い浮かべた。恐らくは陛下も同様の発想に辿り着かれたからこそ、そう呟かれたに違いあるまい。
出来得るならば、鎖国したいと切に思う。国際情勢の破綻という大洪水が過ぎ去るまで、方舟に引きこもりたいと思うのは、誰だってそうだろう。
だが、多少の堤防を築き上げたところで、大洪水をせき止められるとは思えなかった。
そう牧野が思考を巡らせていると、陛下がトロツキーに問いを発せられる。
「――レフ。君は、昨年に英国で発表されたエコ・システムという概念について知っているか?」
「エコ・システム?」
トロツキーが首を傾げる。牧野も聞かぬ概念であった。
「聞いたことがないな。字面からして生物に関わるものだということは分かる。君の"本業"の話かね?」
「"本業"だったら良かったのだがね。要するに生物の営みは連関しているという話だよ。ある種のエビを水草とともに砂を整えた水槽に入れ、十分な日光を当ててやると、エビは給餌せずとも飢えることがなく、長生きする。消費と生産、光合成と呼吸が吊り合っているがために持続可能な生命維持空間が成立するというわけだ」
「ふむ」
トロツキーは特にコメントを差し挟まなかった。続きを聞かせろということだろう。
「これは人類社会に言えることだと思う。要するにバランスなのだ。何が正しい、何が間違っているというような一極に振り切れた状態ではなく、何かと何かが拮抗した状態を保ってこそ、調整しようという意識が働く。人々は秩序を保つことができるのかもしれない」
「ああ。ああ。成る程、話の先が読めてきた」
トロツキーが指を鳴らした。
「つまり、君はこう言いたいわけだ。超国家連合同士で戦争にならない、長期的な緊張関係を保ち続けることで、致命的破綻を防げはしないものかと」
その解答をお聞きになり、陛下が笑みを綻ばせる。
「君の認識に対しても苦言を提じたつもりだったが、概ねその理解で間違いないな」
「私の認識についてはさておくとして……」
肩をすくめたトロツキーが、頬を緩めて言う。
「やはり同志は根底で社会主義者なのだと再認識させられた。君の言っていることは要するに"まるで経済を管理するようにして、人の危機意識をも管理できないか?"ということだろう。それはラディカルな社会主義者の考え方だよ。もし緊張関係が完成に至れば、"大国同士で銃火の飛び交わぬ戦争"すら到来するかもしれない。差し詰め"冷たい戦争"とでも言うべきかな。ただ、実現させるには相応の努力が必要だろう」
信じられぬとばかりにまくしたてるトロツキー。
牧野はといえば、以前より感じていた危惧を尚更に募らせていた。
陛下が仰る緊張関係とは、すなわち"テクスト"にあった米ソ対立のことであろう。だが、"テクスト"内においても破綻した関係であった。
何故失敗の分かっているものを敢えて選択しようとなさっているのか、牧野には全く理解できない。
未来への憧れが、悪い方向へと先走ってしまったのだろうか。
背筋が凍る。
牧野は、主の手によって故意に加速されていく時代の流れに、ただただ恐怖を抱くことしかできなかった。
1936年、5月 帝国ホテルにて
帝国ホテルの正面玄関は平安の時代に建てられた平等院鳳凰堂をそのまま近代化させたかのようなフォルムをしている。
圧倒的な密度の装飾に囲まれた赤絨毯のロビーを進み、男はコンシェルジュに呼びかけた。
「海軍大尉、源田実だ。ここに元海軍の宮本千早が宿泊しているはずなのだが」
コンシェルジュは宿泊客の情報を全て網羅しているようで、すぐさまにホテルマンの一人を受付の奥へと向かわせる。
幸い宮本は在室しており、すぐに高級客室へと通された。
「宮本様、お客様をお連れいたしました」
「通してください」
ノックしてのホテルマンの呼びかけに、懐かしい声が返ってきた。数年ぶりに聞いた後輩の声である。
部屋へ入ると、立ち上がった宮本が出迎えてくれる。
久しぶりに見た後輩の姿に、源田は「おや」と眼を見開く。
少し体つきががっしりとしたことは、普段の鍛錬をさぼっていないという解釈をすればいいのだろうが、軍服を着ていないというのは一体どういうことだろうか。
源田の理解の範疇において、勅令護民総隊とはいわば新設された海軍の外局である。
それなのに上等な背広を着崩さずに身につけている。
まるで地方人のような格好と、綺麗に刈った坊主頭、それに堂に入った敬礼が驚くほどに合っていなく、珍妙に映った。
「お久しぶりです。源さん」
一瞬、本当に自分の後輩なのかと悩んだが、こうして愛称で呼んできた以上、彼は正真正銘宮本千早に違いあるまい。源田も答礼しつつ、客室の椅子に座っても良いかと許可を求める。
客室の机には、書き物仕事の痕跡が残されていた。
書類はまとめられているために覗くことができなかったが、端に置かれた二つの眼鏡が目に留まる。
「宮本、目を悪くしたのか?」
確か、飛行学校時代には同期の中でも抜群の視力を持ち合わせていたはずだ。
怪訝に思って源田がそう問うと、対面に座った宮本は苦笑いを浮かべた。
「健康そのものですよ。これは今日面会した民間企業の試作品です」
「ただの眼鏡ではないのか」
言われてみれば、レンズに妙な細工が施されていることに気がつく。手にとって、矯めつ眇めつしてみると、どうやら度が入っていないことだけは理解できた。となると、視力矯正を目的としていないのかもしれない。
「一品ものですが偏光レンズと遮光レンズというものです。航空眼鏡に改造して、飛行中の索敵に役立たないものかと試行錯誤しているところですが、果たしてどうなるか……」
今年になって航空参謀の道を歩み出した源田は、その言葉で宮本が何を求めているのか正確に理解した。
要するに宮本はいち早い策敵を可能にすべく、その方策を練っているわけだ。
彼を訪ねて正解だった。戦術的な視野における空戦理論を語り合うに、我が国において彼よりも有意義な意見を得られる相手は恐らくおるまい。
だからこそ、まずは恨み言から口にしていく。
「今日の空戦研究会。折角誘ったというのに何故出席しなかったのだ」
「えっと……」
宮本は一瞬きょとんとし、すぐにこちらの意図を理解して答えた。
「海軍さんのですよね。ああ。ええ、お誘いは今朝方受け取りましたが、生憎予定が詰まってしまっていて……。お詫びに先だってまとめたうちの空戦理論を本部に提出したのですが、読んでいただけましたか?」
海軍出身者から『海軍さん』などという他人行儀な物言いが出たことにまず面食らい、彼の空戦理論が研究会においてどう扱われたかを思い出す。
「貴様の論は取るに足らぬと捨てられたぞ」
源田のにべもない物言いに、宮本は苦笑して言った。
「うちのピケット・サークルは海軍伝統の攻撃精神に真っ向から歯向かっていますからね」
宮本の提唱するピケット・サークルとは、有り体に言えば"戦わなければ、負けぬ"を地でいく戦闘教義である。
確かに先入観のない状態で見れば合理的にも思えよう。だが、伝統的に攻撃精神を至上として叩き込まれる海軍において、逃げ腰の論は嫌悪の対象とされる。
彼の論を一見した航空主兵論者の反応は、皆一様に頑ななものであった。
『我々は臆病者ではない』
『貴重な時間を浪費して、艦の一隻も沈められぬ論を語る意義がどこにあるのか』
『くだらぬ。これを書いた奴は本当に日本人なのか』
松永寿雄少将、大西瀧治郎大佐、三和義勇中佐。そのいずれもが空戦研究会においては発言のイニシアチブを取る一角である。
当然、研究会の主催者である山本五十六中将も同様に批判の立場に回り、『今後はこやつの論を議題にすることは禁止する』と締めくくられたことで、航空畑における護民総隊から海軍への思想移入経路は閉ざされてしまった。
源田はそれがつくづく悔しいのである。
「俺だって、うちでピケット・サークルなんぞが役に立つとは思っておらん。だが、貴様のまとめた位置エネルギー空戦理論だけは有用だ。こちらまで捨てられてしまったことが、兎にも角にも悔しい。貴様は悔しいと思わんのか。元一航戦の貴様が臆病者などと、笑えない冗談だ!」
源田が睨むと、宮本は頬を掻きながら、困惑した表情を浮かべた。
「その件については互いの立場もあるでしょうから……、それより今日の議題は『攻撃機の運用について』だったのですよね? どうだったのでしょう」
あからさまに話題逸らしをされたと源田は感じたが、このまま口を続けたところで意味はない。
深く息をつき、源田は答えた。
「正確には『空母艦載機における戦闘機と攻撃機の比率について』だ。まずは最新の欧州情勢を参考に、『戦闘機を全て廃止し戦闘能力を持つ攻撃機に換えるべきだ』とする論が圧倒的賛同を得る。これについては俺も否やはなかった」
「とすると次は……、何をもって理想の攻撃機とする議論に発展したのですか」
「……話が早いな?」
どちらかといえば寡黙に役割を果たす、下士官にも似た性格をしていた宮本だが、どうにも頭の回転が速くなっているように思える。
源田が怪訝そうにしていると、宮本は苦笑して言った。
「……自分も今は航空参謀ですから」
「ああ……、既に通った道か」
いつの間にやら宮本が参謀としては自分より先輩になっていたことに驚き、目を丸くする。
護民総隊の戦歴は詳報にて確認しており、当然ながら宮本の活躍についてもある程度知ってはいたつもりだったのだが、情報不足であったようだ。
彼は単なる"駆逐艦撃破記録持ち"のエースパイロットではないらしい。
源田は少しやりづらそうに続ける。
「それで、だ。理想とする攻撃機はおおむね二種に分かれた。単座で良好な運動性能と空戦能力を持つ小型機体と、複座で防御力と攻撃性能を高めた大型機の二つに、だな。山本提督は後者を推され、他の面々もそれに習った。前者は俺が賛成するのみだったよ」
山本提督たちの言い分は成る程、理解できた。彼らは航空機を軍用艦の"代用"として考えているのだ。となれば、攻撃性能はなるべく高いほうが良い。
ただ、一人の航空士として、彼らの意見に心の底から納得ができたかというと口をつぐまざるを得なかった。
「源さんらしいです」
源田の説明を聞いた宮本が、他人事のように微笑んだ。
「らしいとは何だ」
訳知り顔な物言いに腹が立って、源田は彼を詰る。
すると宮本は笑顔のままにこちらを見て答えた。
「源さんは航空士だなあ、と」
「ん、言っている意味が分からんのだが……?」
首を傾げるこちらの反応を面白がるようにして、宮本は続けた。
「単座と空戦性能を重視する考え方は、要するに航空士を思ってのことでしょう? いざ敵に狙われた時に、航空魚雷を捨てて自衛できる能力を求めたわけです。それに運動性能の向上は、そのまま着艦時の安全性にも繋がります。だから、航空士のプライドとこだわりどころが良く分かっている源さんらしい意見だと思った。それだけです」
全てお見通しだといわんばかりの軽い物言いに、源田は言葉を失った。
完全に図星だったからである。
組織立った行動を至上とする海軍の中において、航空士……、特に戦闘機乗りたちはスタンドプレーを好む傾向にあった。空において、頼れるものは自分の技術だけだからだ。
純粋な戦闘機を廃止し、攻撃機を拡充するということは、航空士の1割を占める戦闘機乗りたちに機種転換を強いることを意味する。
運良く背中を預けるに足る通信士や機銃手と出会えた者どもなら趣旨替えもやぶさかではなかろうが、巡り合わせの悪かった者はどうなるというのか。
源田の予想では、明るい未来は訪れない。航空士とは地上の人間に比べて頭が固いものなのである。その辺りを貴重な航空畑でありながら根っからの軍政屋である山本提督は理解していなかった。
源田は嘆息しながら、言う。
「……現場の理解が得られなければ、どんな悪影響が生じるかわからん」
「同感です」
「昨今の航空情勢は日進月歩。一瞬の足踏みが致命的な技術格差を生み出しかねない現状なのだから、角が立つ改革はまずかろう」
とここで一呼吸おき、源田は恐る恐る宮本に問うた。
「貴様も同意見なのか?」
宮本は少し考えて、断言する。
「角が立つ改革云々はさておき……、戦闘機無用論に限り、その二択ならば源田さんに賛同しますね」
「随分と慎重な物言いだな。だが、理由を聞かせてくれ。頼む」
宮本は頷き、さらに言う。
「まず一つ目に、前例の存在があります。フィンランドの最新鋭機はご存知ですか?」
「当たり前だ」
源田は鼻息を荒くした。
昨年、航空業界で起こった"革命"を知らぬ者が軍の航空関係者に居たならば、そいつはモグリだ。
"革命"の担い手はFinland Aeroplan。
スウェーデンの名家であるヴァレンバーグ家の資本と、西欧のきな臭さを感じ取り、ヴァレンバーグ家の伝手を辿ってフィンランドへと逃げたユダヤ資本が元手となり、設立された新参の航空機会社であった。
「"全ての航空機を過去のものにした"次世代機のことだろう」
「その形容詞、先月の航空雑誌で見かけましたね」
宮本は愉快げに笑ったが、実際のところは全く笑える話ではない。
世界中の航空関係者を焦燥させることになったこの次世代機は、フィンランドにおいてはFA-01。東欧においてはドナウ・ファイターと名づけられた。
しかし、一般には"ドラケン"という通称の方が知名度が高い。
"ドラケン"の特徴は、まず二本の胴体を持つ双胴式という機体形状と、胴体後部に単発のエンジンとプロペラを持つ、世にも珍しい推進式を取っていることにある。
二本のめざしを髣髴させる、その斬新な見てくれは各国の先進的な技術者たちを唸らせ、頭の固い航空士たちを呆れさせたものであったが、意外にも破格の高速性能と良好な運動性能を高レベルで兼ね備えているという。
例えば我が国の九六式艦上戦闘機が最高速度で時速500kmに届かないのに対し、"ドラケン"は600kmの壁を打ち破ることができた。いくら陸上機と艦載機というハンディキャップがあるとはいっても、100kmの速力差は看過できない。また、運動性能については良く分からないが、ソ連・フィンランド間の国境際で繰り広げられる領空侵犯の応酬を見る限りはソ連製戦闘機に引けをとらないようだ。
また、投射火力も世界屈指を誇る。エチオピア戦争の戦訓を踏まえ、元は対爆撃機用にと開発されたためか、機首に20mm機関砲、翼内に13.2mm機銃を4丁備えた火力は圧巻の一言だ。
だが、この機体の恐ろしさは何と言っても"ただの戦闘機ではない"ことだろう。
"ドラケン"は"爆撃能力を持つ戦闘機"なのである。
搭載できる爆弾の重量は最大で500kg。
ソ連より亡命してきたというウクライナ人航空技術者たちが作った新型エンジンが、この空戦能力と高火力、そして戦術爆撃能力の共存を可能にした。
全くもって反則的である。外野からすれば、忌々しいことこの上ない。まるで今までにやってきた自分たちの努力が牛歩であったかのようすら感じられよう。
源田は航空雑誌でこの機体の存在を知り、新時代の幕開けを確信した。
恐らく中島や三菱、各地で働く我が国の航空技術者も同じ感覚を抱いたであろう。
これからの空は、"ドラケン"のような"多用途戦闘機"が席巻していくに違いあるまい、と。
そういった未来を感じさせてくれるところに、この機体の"革命児"と呼ばれる所以があった。
宮本は指を組んで、話を続ける。
「"ドラケン"という前例がある以上、最悪設計を"コピー"してしまえば、海軍さんの要求に間に合わせることができる可能性があります。推進式による発着艦が怪しいですから、この発想はちょっと怪しいですけどね」
「……"コピー"などと人聞きの悪いことを言うな」
宮本の言に棘を感じ、ぞわりと心がささくれ立つ。
我が国は航空機開発において後進国であり、今までにいくつもの外国機をコピーしては自分たちのものにしてきた。だが、それはそれとして源田を不快たらしめたものは、自分たちが護民総隊の航空機を"コピー"しようと目論み、失敗した経緯があるからだ。
『"海猫"と同じものを作れと? 猿真似をしろと今貴方は言ったんですか。本気で? 私だってね、作れるならばユーリさんのようにあんな採算度外視の航空機を作ってみたいですよ!』
源田の脳裏に罵声が響く。三菱に勤めるとある技術者の声であった。
聞けば、"海猫"の機体性能は計算しつくされた空力特性と、それを実現させた熟練職人たちの技術にあるのだという。
では熟練職人のこだわりが機体性能に現れたのならば、同じことを何故できないのかと高官が彼に問うと、
『海軍さんの現在作られている一機あたりの単価が5倍にも6倍にも膨れ上がっていいのならば、性能が上がる見込みはあります。勿論、維持・修理費用だって上がりますよ』
とへそを曲げたように彼は返した。
つまり、護民総隊の"海猫"は兵器に最も重要な量産性を完全に切り離したところに、高性能を実現する秘密があったというわけだ。
彼の答えに納得した海軍の高級仕官たちは、即座に"海猫"に対する興味を失った。兵器としての有用性を講ずる価値無し、と判断されたわけである。
こちらと丁々発止のやりとりをしていたあの技術者の名前は何であっただろうか。
彼の呟いた『猿真似』の一言は未だに頭を離れないからこそ、宮本の言葉が強く心に突き刺さった。
「申し訳ありません」
と宮本は頭を下げて、二つ目の理由を述べる。
二つ目の理由は何と、大型機の信頼性に関するものであった。
「俺は複座で防御力と攻撃性能を高めた大型機というものがどうにも信じられません。現状、今攻撃機を増やすのならば九六式陸上攻撃機を増やすことになるのですよね?」
「まあ、そうなるが……」
「攻撃能力までは否定しませんが、防御能力に疑問を覚えます。今のままの運用ですと、他国の艦隊や高速戦闘機に一網打尽にやられる未来しか見えません」
「随分と確信を持って言うんだな」
九六式陸上攻撃機は山本提督がドイツの技術を導入して設計した、超ジュラルミン製の新型機だ。
浅い角度の7.7mm弾ならば跳ね返せるだろうとの触れ込みで、提督たちの提唱する大型機導入論の柱になっている。
「対艦戦闘については兵棋演習でも有用との結論が出ている。それに対空戦闘においても九六式陸攻は単葉だけあって高速だ。完全に敵を引き離そうという体勢に入ってから、敵がこれを撃破するのは難しいんじゃないか?」
「高速といっても時速400kmに届かないのですよね?」
「それはそうだが、大抵の場合は迎撃に回る戦闘機が低空から陸攻を追いかける形になる。上昇しながら時速400km弱の陸攻を追いかけられる高速機が存在するとは思えんし、よしんば追いつけたとしても後部機銃の犠牲になるだけのように思えるが」
宮本の位置エネルギー空戦理論を交えての反論をしたつもりであったが、彼はそれでは不足だとばかりに首を振った。
「すぐに追いつける機体が出てきますよ。希望的観測ではなく、確実に」
「根拠は?」
「既に護民総隊の"鶚"で同じことができるからです」
何でもないという風に放った宮本の言葉に、源田はぎょっとさせられる。
「"鶚"……、とは何だ。新型か。"海猫"ではないのか?」
「以前、海護一型水上戦闘機を改良した一二型軽戦闘機を作る予定があると航空本部には報告を入れました。それのことですよ」
表情を取り繕ってはいるものの、宮本は明らかに自らが開発に携わった"鶚"とやらに自信を持っているようであった。
源田は低い声で唸る。
「量産性を度外視して作ったとされる"海猫"ですら最高速度が時速400km程度であったはずだ。フロートを外して、エンジンを換装して……、その程度で九六式艦戦より速くなるものなのか」
「ご想像にお任せします」
源田は泡を飛ばして身を乗り出した。
「……設計図を見せてくれ」
「申し訳ありませんが、海軍さん相手にそれはできません」
にべもないその言葉に、源田は声を荒げて続けた。
「共にこの国を守る仲間だろうッ」
宮本が眉を顰めた。何だ、その反応は。
言葉を詰まらせる源田に対し、宮本はため息がちに応じた。
「……源さんには飛行学校で世話になりました。だから、俺個人としては詳細をお伝えしたくもあります。ただ、組織間の確執を考えると、やはり"敵に塩を送る"ことはできません」
「待て、敵だと? 海軍を敵といったのか、貴様は!」
ぎょっとする源田に対して、宮本はさらに畳み掛ける。
「昨年、うちの"海猫"の設計図が、ドイツのハインケル社に流出しました。あの設計図を持っているのはうちかポーランドのPZL、そして海軍のみです。仮想敵国のドイツに主力戦闘機の設計図が漏れたことをPZLは激怒しています。"ドラケン"に負けるきっかけを作ったのだと、うちとの付き合いも打ち切られました。ただでさえ技術者を引き抜いた疑惑を建てられているところに、あれは致命傷でした……」
そんなまさか、と反論したいところであったが、源田には一つ心当たりがあった。
ドクター・ハックと呼ばれるドイツ人商人の存在である。
元来、帝国海軍はジーメンス社やハインケル社をはじめとするドイツ系企業とのかかわりが強い。ドクター・ハックとはそんなドイツ系企業と帝国海軍の橋渡しをするブローカーであった。
エチオピア戦争以降、西欧諸国はアジアとのフェアな取引に対し及び腰になりつつある。航空本部が「これを最後に」と手切れ代わりの技術交換材料に、自らの懐が痛まぬ"海猫"の設計図を利用した可能性は十分にあった。
そして何よりも、先だって海軍がハインケル社より購入した双発重戦闘機が……。
喉がひりつく心地がして、源田は唾を飲み込んだ。
「……どうしても無理か」
肩を落としてそう問いかけると、宮本は申し訳なさそうに頭を振る。
「少なくとも、"今"は」
「"今"は、だと?」
宮本は躊躇いがちに顎に手を当てて言った。
「……情報を制限したうえで公表することはできます。今度、総隊で演習を兼ねた観艦式がありますから、出席者の形で見学することは可能かと」
「初耳だ」
「これも年始には海軍さんに連絡入れている話なんですよね」
苦笑いを浮かべる宮本。源田としても、ここまで海軍と総隊が拗れているとは思っていなかったため、何と言っていいものか分からなかった。
「護民総隊が、観艦式か」
鸚鵡返しの一言に、宮本は感慨深げに目を細める。
「ええ……。色々ありましたが、ようやく艦が揃いました」
「確か、艦の一隻もない状態から隊を創設したのだったな」
国の定めた予算も人もない状態から、よくもまあ形にできるものだと源田は呆れると共に敬意も抱く。
一体、彼らは何故このような無謀な試みをしようと思ったのだろうか。いや、今になって取り沙汰しても詮無いことではあるのだが。
宮本はその道のりを噛み締めるようにして艦の名を挙げていく。
「漁船に毛の生えた"浦島"に"竜宮"。ソ連より鹵獲した"海彦"に"山彦"……、必死に戦力をかき集めて、ようやく"占守"型という自前の海防艦を造ることもできるようになったんです」
「感慨もひとしお、ということか」
「ええ、それに――」
と、ここで宮本は照れくさそうに頬を掻いた。
「やはり、航空母艦"竜飛"……。初期設計からがっぷりと関わった艦が、世間様にお披露目できることが一番嬉しいですね。光栄な話です」




